第2話 檸檬編

檸檬編


 町外れからTSUTAYAが消えたので、書店を利用することが多くなった。

 その書店のトイレはいつも浸水したようにびしょびしょなため、「近いうちつぶれる」と父が言い続けてきたのだが、どうやらそうでもなさそうだ。

 最近の父は僕の進路を危ぶむ。決めるに早すぎるということはない。作家だけはやめときなさい、と。

 さて、僕と一条さんはその書店にいた。漫画売場の一画で彼は足をとめる。平積みされた漫画は包装されていた。

 一条さんはナップサックから蜜柑をいきなり取り出して、いきなり漫画の上に置こうとしたから、僕は急いで制止した。

 だてに長い付き合いではない。

「何してるんですか一条さん」

 彼はぼうとした目で言った。

「いや、梶井基次郎の気分になりたくて」

「あれは檸檬でしょうが」

「青果店に檸檬がなくて」

「だからってそんなことしたら、店に迷惑がかかるでしょう。転生でもしないと檸檬は爆発しませんよ」

「そんな馬鹿な」と一条さんは蜜柑を見つめる。「なら梶井基次郎はずるいじゃないか」

「ずるい、て。そもそも梶井基次郎自身がやったんですか」

「それがそもそもなんだよ島くん」

 一条さんは真顔だ。

「僕がちょっと私小説らしきものを書いたら、それを本気にされるんだよ」

 僕としては、それこそ一条さんの強みだと思う。

「あ、そうだ」と一条さん。「ついてきたまえ」

 そう言って彼は歩きだす。

 書店を出て、田畑や人家を横目に過ぎ、たどり着いたのは大型電器店だ。

 店内は天井が高く、影なんてないほど、白い。

 一条さんはパソコン売り場に行った。おもむろに彼は見本のパソコンに文字を打つ。


素早い茶色の狐がのろまな犬を飛び越える。


 彼はこちらを見やり、にっとわらう。

 僕も笑顔が移り、隣のパソコンに打ち込んだ。


いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむういのおくやまけふこえてあさきゆめみしえひもせす


 次、一条さん。


永き世の永遠の眠りのみな目覚め波乗り船の音のよきかな


 さて、次は、と考えていると、向こうから店員が歩いてくる。購買者と勘違いされたのだ。

「よし、逃げるぞ島くん」

 僕たちは電気屋を通り抜け、さらに走って、走った。

 一条さんが叫ぶ。

「檸檬が手榴弾なら、僕らのあれはクラスター爆弾だ!」

 世界はだいたい、いつも戦争している。「いい気分だ!」と僕だって声をあげる。

 そんなことがあった。と書斎からおりてきた父に言った。

「なるほど、一条くんとは仲よくしなさい」

 父は顎髭をさする。

「そうだなあ。私が高校の頃は、電気屋のパソコンがネットに繋がっていたからな。インフラ普及のために。いかがわしい動画を流しまくって悪友と逃げたものだ」

 父は肩を回す。

「さて、締切厳守、今日も私は良い気分」

 それだけ言ってリビングへと父は向かう。

 清き水には魚すまず。

 ずるいよな、大人って。


檸檬編 終

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