隣人Xの告発 ——ある集合住宅に関する未解決取材記録

@tamacco

第1話:発端 ――「上の階の足音」

はじめに


この原稿は、あるウェブメディアの編集部から依頼された、ごくありふれた企画記事の草案である。

当初予定されていた連載タイトルは『隣人トラブル・スクランブル』。

マンションやアパートといった集合住宅で発生する、騒音、ゴミ出し、異臭、不法侵入といった近隣トラブルの実例を集め、専門家のコメントを交えて対策を紹介するという、生活情報記事の枠組みだった。


私はフリーランスのライターとして、これまでも心霊スポットの取材や都市伝説の検証といったオカルト寄りの仕事を請け負うことが多かったが、今回の依頼に関しては、あくまで「人間関係のトラブル」に焦点を当てたドキュメンタリータッチの文章を求められていた。

幽霊よりも怖いのは人間である、とはよく言われる決まり文句だが、私もその時は、どこにでもある愚痴の聞き役になるつもりでいたのだ。


しかし、取材を開始して二ヶ月が過ぎた頃、私は集まった証言データの中に、奇妙な共通点があることに気がついた。

それは、別々の場所に住み、互いに面識のないはずの取材対象者たちが、まるで口裏を合わせたかのように「同じような不可解な体験」を語っているという事実だった。


これから提示するのは、その取材の過程で記録されたインタビューの書き起こし、私が現場で記したメモ、そしてICレコーダーに残された音声データの内容である。

特定を避けるため、仮名や一部の地名は変更しているが、それ以外はすべて事実に基づいている。


これを読むあなたが、自分の住む部屋の天井や、隣の壁に違和感を覚えたとしても、私は一切の責任を負うことはできない。


***


取材記録ファイル01

対象者:牧村里美(仮名・三十二歳・主婦)

取材場所:東京都S区 ファミリーレストラン「G」

日時:二〇二三年五月一四日 午後二時


牧村氏は、首都圏の私鉄沿線にある駅から徒歩十五分ほどの分譲マンションに、夫と四歳の娘と共に暮らしている。

築年数は十五年ほど。外観はグレーのタイル張りで、オートロックも完備された、ファミリー層に人気の物件だという。

待ち合わせ場所に現れた彼女は、小奇麗な身なりをしていたが、ファンデーションで隠しきれない隈が目の下に張り付き、指先は常に小刻みに震えていた。

彼女が抱えている悩みは、集合住宅において最もポピュラーな案件、「騒音」である。


(以下、インタビューの書き起こし)


――まずは、トラブルの経緯から教えていただけますか。


牧村:はい。今のマンションに引っ越したのは去年の春です。最初はすごく快適でした。日当たりも良いですし、ご近所さんもいい人たちばかりで。でも、異変が始まったのは三ヶ月くらい前からです。上の階からの音が、ひどくなってきて。


――上の階というと、真上の部屋ということですね。


牧村:そうです。五〇二号室です。最初は、子供が走るような音でした。トトトト、って小刻みに走るような。まあ、うちにも小さい娘がいますし、お互い様かなって思ってたんです。昼間のことでしたし。でも、それがだんだん夜中にも聞こえるようになってきて。


――夜中というのは、何時頃ですか?


牧村:深夜の二時とか、三時です。もう家族みんな寝静まっている時間ですよ。その時間に、天井からドスン、ドスンって、何か重いものを落とすような音が響くんです。それも、一回や二回じゃなくて、三十分くらいずっと続くこともあって。夫は仕事で疲れてて、一度寝ると起きない人なので気づいてないんですけど、私はもともと神経質なほうなので、目が覚めちゃうんです。


――管理会社には相談されたんですか?


牧村:もちろんしました。管理会社の担当の方は「注意しておきます」って言ってくれたんですけど、全然止まなくて。それで掲示板に張り紙もしてもらったんです。「深夜の足音に注意しましょう」って。でも効果がなくて。それどころか、音が変わってきたんです。


――変わった、というと?


牧村:最初は足音とか、物を落とす音だったんですけど、最近は……何ていうか、引きずるような音なんです。ズルズル、ズルズルって。あと、たまに声も聞こえるんです。


――声ですか。話し声ですか?


牧村:いえ、会話じゃないんです。ブツブツと何かを呟いているような、低い声で。何を言ってるかは聞き取れないんですけど、男の人の声だと思います。それが、真上の部屋の床、つまり私の家の天井に顔を押し付けて喋ってるんじゃないかってくらい、近くに聞こえるんです。


――それは怖いですね。直接、苦情を言いに行ったりは?


牧村:夫には止められたんですけど、先週の火曜日、私、我慢できなくなっちゃって。昼間に音がした時、衝動的に上の階に行ったんです。文句のひとつも言ってやろうと思って。


――五〇二号室ですね。どんな方が住んでいたんですか?


牧村:それが……変なんです。チャイムを鳴らしても誰も出てこなくて。でも、ドアの向こうからは確かに気配がするんです。耳を澄ませると、中からまたあの引きずるような音が聞こえて。居留守を使われてると思って、私、ドアノブをガチャガチャ回しながら「いい加減にしてください!」って叫んじゃって。そうしたら、ふっと音が止んで、ドアののぞき穴あるじゃないですか。ドアスコープ。あそこが、内側から急に暗くなったんです。


――向こうも、のぞいていたということですか。


牧村:はい。誰かが内側からじっと私を見てるんだと思ったら、急に寒気がしてきて、逃げるように帰ってきました。それ以来、怖くて直接は行ってないんですけど、天井からの音は毎晩続いていて……。私、もう限界なんです。


(書き起こし終了)


インタビュー中、牧村氏は何度もアイスコーヒーのグラスに水滴がついているのを指で拭っていた。

彼女の話自体は、騒音トラブルとしてよくあるケースだ。

ただ、「ドアスコープが暗くなった」という描写をした時の、彼女の強張った表情だけが妙に印象に残った。

私は彼女に、その騒音を録音したものがないか尋ねた。

彼女は「スマホで録ったものですが」と言って、一つの音声ファイルを送信してくれた。

その場では確認せず、後日検証することにし、私は彼女に「管理会社に取材として問い合わせてみる」と約束して別れた。


***


現地調査メモ


日付:二〇二三年五月二〇日

場所:東京都S区 マンション「K」


牧村氏への取材から一週間後、私は現場となるマンションを訪れた。

五階建てと聞いていたが、実際に建物を見上げると、少し違和感があった。

斜面地に建っているためか、エントランスのある階が地上一階という扱いになっているが、上層階に行くにつれてセットバック(階段状に後退)している構造だ。

牧村氏の部屋は四〇二号室。

外から彼女の部屋のベランダを確認する。洗濯物が干されており、生活感がある。

私はエントランスのオートロック前で、管理会社に連絡を入れた。

事前に企画書を送っていたため、管理担当者が現地に来てくれることになっていた。


現れたのは、五十代くらいのくたびれたスーツを着た男性だった。

名刺には「巡回管理担当」とある。

私は単刀直入に、四〇二号室の騒音苦情について尋ねた。


「ああ、牧村さんの件ですね」

担当者は困り果てたように眉を下げた。

「正直、我々も困ってるんですよ。牧村さん、とても真面目そうな奥さんなんですけど、ちょっと神経質になりすぎているというか……」


「騒音は事実ではない、ということですか?」

私が尋ねると、担当者は言いにくそうに口を開いた。

「いえ、音がしていないとは断言できません。建物っていうのは意外と音が響きますから。斜めの部屋の音が真上から聞こえるように錯覚することもありますし。ただ……彼女が言う『五〇二号室』っていうのは、ありえないんですよ」


「ありえない、とは?」

担当者は私を促して、オートロックを解除した。

「百聞は一見に如かずです。一緒に来てください」


私たちはエレベーターに乗り込んだ。

操作盤のボタンを見る。

「1」「2」「3」「4」。

「5」のボタンは存在しなかった。


「このマンションは四階建てなんです」

担当者は淡々と言った。

「登記上も四階建てです。牧村さんの住む四〇二号室は、最上階なんですよ」


エレベーターが四階で止まる。

扉が開くと、外廊下が広がっている。

四〇一、四〇二、四〇三。三つのドアが並んでいる。

牧村氏の部屋は真ん中だ。


「でも、牧村さんは階段を上がって五〇二号室に行ったと言っていました。ドアもあったと」

私は食い下がった。彼女のあの怯え方は、嘘をついているようには見えなかったからだ。

担当者はため息をついて、廊下の端にある非常階段を指差した。

「階段はありますよ。屋上に続く点検用の階段がね」


私たちはその階段を上った。

コンクリートの冷たい階段を十数段上がると、踊り場のような狭いスペースに出た。

そこには鉄製の重厚なドアが一つだけあった。

しかし、そこには部屋番号のプレートもなければ、インターホンも、郵便受けもない。

あるのは「立入禁止」と書かれたステッカーと、頑丈そうな南京錠だけだった。


「ここは屋上の防水工事や、貯水槽の点検の時しか開けません。鍵は私が持っていますし、普段は誰も入れないんです」

担当者は南京錠をガチャガチャと引っ張って見せた。

「牧村さんが見たというのは、このドアのことでしょう。でも、ここには誰も住んでいませんよ。中にあるのはコンクリートの床と空調の室外機だけです」


「ドアスコープは?」

私はドアに近づいて確認した。

点検用のドアには、当然ながらのぞき穴などついていなかった。

のっぺらぼうの鉄の扉だ。


「彼女、夢でも見てるんじゃないですかね。育児ノイローゼとか、そういうのもあるかもしれませんし」

担当者の言葉は冷淡だったが、合理的だった。

最上階に住む住人が、存在しない上の階からの足音に悩まされ、存在しないドアののぞき穴におびえている。

典型的な幻覚、あるいは心因性のトラブル。

私はそう結論づけて、取材を終えることにした。


***


音声ファイル解析記録


事務所に戻った私は、記事の構成を「心霊」ではなく「現代人の心の闇」という方向に修正しようと考えていた。

誰しもが陥る可能性のある、孤独とストレスが生む幻聴。

その資料として、牧村氏から送られてきた音声データを確認することにした。


ファイル名:20230510_0215.m4a

再生時間:三十五秒


ヘッドホンを装着し、再生ボタンを押す。

最初は「サー」というホワイトノイズだけが聞こえる。

室内の空気清浄機か何かの音だろうか。

開始から十秒ほど経過したところで、確かに音が聞こえてきた。


『ズル……ズルッ……』


牧村氏が言っていた「引きずるような音」だ。

それは、重い家具を引きずっているようにも聞こえるし、湿った雑巾で床を強く擦っているようにも聞こえる。

音質はクリアだ。天井越しに録ったにしては、音が鮮明すぎる気がする。

まるで、マイクのすぐそばで鳴っているような。


『……ない』


微かに声が聞こえた。

ボリュームを上げる。


『……たりない……』


男の声だ。低く、押し殺したような声。

続けて、ドスン、という鈍い音が響く。

足音というよりは、柔らかい肉の塊が落ちたような音。


『……まだ、たりない』


そこで音声は途切れていた。


私はヘッドホンを外し、しばらく呆然としていた。

幻聴ではない。確かに音は録音されている。

だが、あの屋上のドアの向こうに誰かがいて、こんな声を上げているというのか?

それとも、牧村氏の部屋の中に誰かがいて、彼女が気づかないまま録音したのか?


もう一度、再生しようとカーソルを合わせた時、私はあることに気づいて背筋が凍った。

音声ファイルのプロパティ情報だ。

スマートフォンの録音アプリには、位置情報を付与する機能がある場合がある。

牧村氏から送られてきたファイルにも、GPSタグが埋め込まれていた。


私はその座標を地図アプリに入力した。

表示された場所は、マンション「K」ではなかった。


そこは、マンションから二キロほど離れた場所にある、広大な空き地だった。

地図上の表記は「更地」。

しかし、かつてそこには何か別の施設があったような、不自然な区画のされ方をしていた。


私は牧村氏に電話をかけた。

この音声は本当に自宅で録ったものなのか確認するためだ。

コール音が五回、六回と鳴る。

留守番電話に切り替わろうとした瞬間、プツリと通話がつながった。


「はい」

牧村氏の声だった。だが、以前会った時のような切迫した様子はなく、どこかぼんやりとした平坦な声だった。


「あ、もしもし、ライターの私ですが。先日いただいた音声データの件で……」

「ああ、あの音ですか」

彼女は私の言葉を遮るように言った。

「もう大丈夫になりました」


「大丈夫になった、というのは? 騒音がやんだんですか?」

「ええ。わかりましたから」

「何が、わかったんですか?」


受話器の向こうで、彼女がクスリと笑った気配がした。


「上じゃなかったんです」

「え?」

「上じゃなくて、最初からずっと、私のすぐ後ろにいたんですよ」


彼女はそれだけ言うと、一方的に電話を切った。

ツーツーという電子音が耳に残る。


私はしばらくスマホの画面を見つめていた。

「すぐ後ろ」という言葉の意味を反芻する。

彼女は今、四階の部屋にいるはずだ。

しかし、送られてきた音声データの位置情報は、あの更地を示していた。


そして、その更地についてネットで検索をかけた私は、ある古いニュース記事を見つけた。

十数年前、その場所にはあるカルト的な団体が運営する寮があり、集団生活の中で奇妙な儀式が行われていたという噂があった場所だった。

その儀式の一つに、「壁に向かってひたすら謝罪の言葉を唱え続ける」というものがあったという。


牧村氏が聞いた「足りない」という言葉。

それは謝罪だったのか、それとも別の何かなのか。


私はもう一度、あのマンションの管理担当者に連絡を取ろうとしたが、電話は繋がらなかった。

ただ、手元の取材メモを見返していて、一つだけ気になっていたことがあった。


現地に行った際、私は四階の部屋の並びを見た。

四〇一、四〇二、四〇三。

そして階段を上った先には、のっぺらぼうの鉄のドア。

だが、外からマンションを見上げた時、私は確かにベランダの数を数えたはずだ。

一番上の階、つまり四階部分のベランダは、四つあったような気がするのだ。


四〇一、四〇二、四〇三。

あともう一つ、どこかに部屋があったのではないか?

あるいは、あの「屋上へのドア」の奥に、本来あるはずのない空間が広がっているのではないか。


私の思考を遮るように、パソコンがメールの着信を告げた。

件名は『取材協力の件』。

送り主は、まったく別の企画で募集していたアンケートの回答者だった。

ハンドルネームは「大学生A」。


『はじめまして。記事の募集を見て連絡しました。

僕の住んでいるアパートで、ちょっと気味の悪いことが起きていて……。

毎日のように、頼んでもいない宅配便の不在票が入っているんです。

宛名は、以前ここに住んでいた人みたいなんですが、

管理人に聞いても、その部屋はずっと空室だったと言われて……』


私はメールを読み進めるうちに、奇妙な感覚に襲われた。

この「大学生A」の住所。

それが、先ほど地図で確認した、あの「更地」のすぐ隣の区画だったからだ。


牧村氏の騒音トラブルと、この不在票の怪。

無関係に見える二つの事象が、地図上の空白地帯を中心に、見えない糸で繋がろうとしている。

私は、牧村氏への追及を一旦保留にし、この「大学生A」に会ってみることにした。


それが、引き返せない泥沼への入り口だとも知らずに。


(第1話 了)

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