第5話 夢か現か幻か

朝から空は少し曇っていた。

昨日まであれほど真夏の陽気だったのに、どこか湿った風が頬を撫でていく。


「鈴、今日は一緒に買い出し行くか?」


味噌汁をすすりながら、おじいちゃんがふと声をかけてきた。


「おじいちゃんと?行きたい!」


「よしよし。村のやつらにも挨拶しとこうな」


そう言うおじいちゃんの声色は明るいのに、どこか影が落ちている気がして、胸が少しざわついた。



おじいちゃんの家から階段を下り、村の通りに入る。


昨日、夜華と並んで歩いたあの道。

今日はおじいちゃんと並んで歩いているからか、どこか空気が違う。

重いような、軽いような、なんとも言えない違和感。


「この先の八百屋でキュウリ買って、それから米屋だなぁ」


「おじいちゃん、紙袋持とうか?」


「鈴は手ぇ空いとけ。何かあってもすぐ動けるようにな」


「……?」


すぐ動けるようにとはどういうことだろうか。

体調もここのところ調子がいい。

よほどの事がなければ倒れることなんてないはず。


「ああ、いや。倒れた時に手が塞がってたらまずいだろう」


とどこか誤魔化すように笑った。

おじいちゃんの本心は分からない。

どこかぎこちない笑顔に「それもそうだね」と合わせて笑う事しかできなかった。



小さい村だからか少しするとすぐに八百屋についた。

店先に立つと、軒先の風鈴が軽やかに音を鳴らした。


「いらっしゃい」


中から、すらりと背の高い女性が出てくる。

優しそうな顔なのに──私を見ると、その目がすっと細くなる。


ああまただ。


心の中で小さく呟く。

昨日の役所でもそう、駄菓子屋の時もそうだった。

何とも言えないこの視線は居心地の良いものではない。


いつもなら夜華が隠してくれた。

いつもなら夜華が手を引いてくれた。


彼が何もしなければきっと今みたいに、

この独特な視線を全身に受け続けなければならなかった。


遅れて感じる彼の優しさが身に染みた。


「……雲津さんのとこの子か。帰ってきたんだね。」


「……ああ。」


「次はちゃんと見ておいてくれよ、こっちにまでとばっちりが来るのは勘弁さ。」


そう告げる店主の視線は氷のように冷たかった。

私の頭のてっぺんからつま先まで、まるで“品定め”するようにじろじろと見てくる。


(……なんでこんなに見られるの?それに、帰ってきたって…?)


ぞわ、と背中に鳥肌が立った。


野菜を買って店を出たあとも、通りを歩くたびに同じような視線を感じる。


洗濯物を干していたおばあさん。

道端で談笑していた若い夫婦。

畑で腰を曲げていたおじいさん。


みんなが一度、私を見る。


そして──

すぐ目を逸らす。


まるで、見てはいけないものを見たように。


「おじいちゃん……おじいちゃんは何か知ってるの?記憶がなくなる前の私について。」


ぽつりと呟くと、おじいちゃんはわずかに肩を揺らした。


「……すまんなぁ」


「え?」


「本当は、鈴をこんなところに……」


そう言いかけて、口を噤む。

こんなところとは何のことだろう。


この村の人も

おじいちゃんも

夜華も


どこか様子がおかしい。


「おじいちゃん?」


「いやいや!なんでもない!ほれ米屋行くぞ!」


強引に話を切られた。

やっぱり何か、隠している。


けれど聞く勇気もなく、私はただ黙って後をついて歩いた。



米屋を出るときだった。


「……あれ?」


ふと横道に黒い影が横切った。

一瞬の出来事だったのに、不思議と目が離せなかった。


(……鴉?)


黒くつやめく羽。

鋭い眼光。

音を立てずに舞い降りたその鴉は──

村外れの廃社へ向かう細道にすっと消えていった。


それも1羽ではない。

ぱっとみ4.5羽はいた気がする。


「鈴?どうした?」


「……鴉が、いた気がして」


「鴉?ああ、山のやつだな。たまに村に降りてくる」


そう言いながら、おじいちゃんは米袋を肩に担いだ。


「さて、帰るか……」


「おじいちゃん先に帰ってて。ちょっとだけ、見たいものがあるの」


「鈴?」


「すぐ戻る!ほんとにすぐ!」


おじいちゃんはしばらく悩んだあと、溜め息をついた。


「……絶対、道を外れるんじゃないぞ。村の中だけな」


「うん!」


返事をして駆け出した。


走ってすぐ、私は足を止めた。

村外れの廃社。昨日、一昨日と夜華に案内された時のことを思い出した。


大嶽丸が一度目に封印された社。


それがここだと言っていた。

辺りは背の高い木々に覆われているからかどこかほの暗く冷えていて、じめっとしていた。


次第に辺りは霧で包まれ、遠くにある半壊した汚れた社だけが一段と目立っていた。


「――ですので、そのまま続けます。」


(……声?)


風に混じって、かすかな声。

人の声。でも、人の話し方ではない。


低く、湿った音。


(……え……?)


音のする方へと歩いていく。

廃社の屋根が見える。


そして、


その前に──


黒い下駄。

黒いワイシャツ。

赤いタッセル。


「夜華……?」


声が漏れた。


夜華は、私の方を向いていない。

視線の先には──さっきの鴉たち。


けれどその鴉は、ただの鳥ではないようだった。

背を丸め、翼をゆっくり広げ、夜華の前に恭しく頭を下げていた。


まるで──

『主』に対するように。


「……そうか。でもボクのものだから。」


夜華は低い声で呟く。


昨日までの柔らかい声ではない。

あたたかくもない。


どこか……別のものを見ている声。


「――だれにも渡さない。」


「……夜華?」


名前を呼ぶと、夜華がぴたりと動きを止めた。

ゆっくり振り返る。

赤い瞳が、私を捕えた。


その瞳は、昨日まで見ていた“優しい夜華”ではなかった。


冷たく、深く、底の見えない赤。


「鈴……?」


小さく瞬きをしてから、夜華はほんの一瞬、驚いたように目を見開いた。


もういつもの夜華の瞳だ。

優しくて、あたたかい。

普段の彼が戻ってきていた。


「ごめん。驚かせた?」


「えっと……鴉と、話してた?」


「ああ……ちょっとね。特殊技能」


軽い声。

軽い笑み。


でも──

さっきの瞳は軽くなんかない。

底知れない冷たさと、何かを抱えた瞳。


「ねえ夜華……」


「鈴は、こんなとこに来ちゃだめだよ」


夜華は私の肩に触れた。


優しく。

けれど逃がさないというような強さで。


「ここは、君が来るような場所じゃない」


「えっ……?」


「ほら、行こ。雲じいが心配する」


そう言って、夜華はいつもの柔らかい笑顔を作った。

作られた笑顔だ、とすぐに分かった。


私の手を取り、村の道へと戻っていく。

けれど歩きながら、夜華は一度だけ廃社を振り返った。


その目は、獲物を見据える猛獣の眼をしていて。


(……夜華って、ほんとに──)


(──人間?)


みえた彼の影に胸の奥がざわりと揺れた。

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