第6話 知らせは幸か不幸か
夕方になっても、胸のざわつきは消えなかった。
廃社で見た夜華の横顔。
鴉たちの前で話していた、低く冷たい声。
そして、振り返ったときに一瞬だけ覗いた、底の見えない赤い瞳。
(……夢じゃ、ないよね)
布団に潜り込んでからも、何度も何度もその場面が頭の中で再生される。
「ここは、君が来るような場所じゃない」
肩に置かれた手は、いつも通り優しいのに。
その声だけは、私が知っている夜華じゃなかった。
「……考えすぎ、かな」
そう自分に言い聞かせて目を閉じると、
最後に浮かんだのは、いつもの柔らかな夜華の笑顔だった。
◇
「俺なら、鈴を逃がせる。この村も、これまでの記憶も全部捨てて生きるんだ。」
薄暗い地下。
孤独だけが木霊したような空間で彼は言った。
「鈴、生きて。生きてくれ。」
忘れたくない、大事な思い出のはずなのに。
夢の中ならちゃんと覚えているのに。
――目を開けたら、全部忘れちゃうんだよな。
◇
翌朝、目を覚ます。
昨夜の重たい気持ちはまだどこか引っかかったままで。
「鈴、起きたかー?」
「おはよう、おじいちゃん」
居間に行くと、ちゃぶ台の上にはもう朝ご飯が並んでいた。
焼き海苔に、卵焼き、昨日一緒に買ったキュウリの浅漬け。
味噌汁をよそい、順調に朝食の支度をしていた時だ。
玄関の方で、コン、コンと控えめなノック音が鳴った。
「雲さーん、起きてなさるか?」
おじいちゃんが顔を上げる。
来客が珍しいわけではないのに、どこか緊張が走ったように見えた。
「……鈴、居間にいなさい。」
小声でそう言われ、私は少しだけ首を傾げながらも頷いた。
居間の扉を開け、玄関に向かうおじいちゃん。
少しだけ開かれた扉からこっそりと隠し見るくらい許されるだろう。
おじいちゃんが玄関を開けると、そこには日に焼けた中年の男性――
「ああ楠木か。朝からどうした」
この間、夜華が案内してくれた時に名前を聞いた楠木さんが立っていた。
「雲さん、会合の知らせだ。今日の昼から、役場の広間でな」
「……またか」
おじいちゃんは少し眉をひそめる。
「今年の祭りは特別だからなぁ。なんて言ったって、天守様の花嫁が帰ってき――」
「楠木っ!!」
おじいちゃんの怒号が響いた。
私は思わず声が出そうになった。
あの温和そうなおじいちゃんが声を荒らげるだなんて思ってもみなかった。
それに「天守様」と「花嫁」
そして全部は言ってなかったけど「帰ってきた」の単語
どこかザワつく胸の奥を必死に押さえ込んだ。
「お、おぉ……びっくりしたわ、雲さん。そんなに怒鳴らんでも……」
「余計なことを口にするでない!あの子の前だぞ!!」
(あの子……?私の前?)
楠木さんは、ようやく私が扉から覗いていることに気づき、
「あー……お嬢ちゃんに聞かせちゃまずかったか」
と頭をかいた。
「す、すみません……えっと、花嫁って……?」
私が訊くと、おじいちゃんは一瞬固まって、苦笑いのような困ったような、複雑な顔をした。
「なんでもないなんでもない。村の言い伝えだよ。ただの冗談みたいな話だ」
「おい雲さん、そんな誤魔化し方あるか……」
「楠木……たのむ、これ以上は」
おじいちゃんの声音が、低く震えていた。
楠木さんは「へいへい」と両手を上げて笑い、
「まぁ、とにかく会合だ。祭りの準備で人手がいる。あんたも来てくれよ」
「分かった……行くよ」
「鈴ちゃんも、あー……気にせんでええからな。ほんじゃあの」
そう言って楠木さんは帰っていった。
玄関が閉まると、家の中に静けさが戻る。
――だけど。
心臓だけが、変にざわざわと音を立てていた。
「おじいちゃん……さっきの花嫁って?」
訊くと、おじいちゃんは一瞬だけ私の顔を見る。
でもすぐに視線をそらしてしまった。
「……鈴には、関係ないことだよ。気にしなくていい」
「でも――」
「鈴」
名前を呼ぶ声が、いつもより強かった。
「……どうか、知らないでいてほしい」
まるで“知れば戻れなくなる”みたいな言い方だった。
私はそれ以上、訊くことができなかった。
「今日はなぁ、村でちょいと集まりがあるみたいでな。家を空ける。」
玄関から居間へと戻りながらおじいちゃんはそう言った。
2人揃って手を合わせ、朝ごはんを食べ始める。
「私は行かなくて平気?」
「ああ、鈴は家でのんびりしておれ」
「ふーん……村の人、何話すんだろ」
「……祭りだよ」
おじいちゃんは曖昧に笑って、箸を動かした。
「祭り?」
箸を持つ手が止まった。
胸が、どくん、と大きく跳ねる。
「……来週、満月の夜じゃ。川っぺりでな、提灯も出て、太鼓も鳴る。小さい祭りじゃが」
「ちゃんとしたお祭りだ……!」
一気に眠気が吹き飛んだ。
祭り。
提灯。
太鼓。
目の前に、夢で何度も見たあの光景がよぎる。
(……いつもの夢の、あの祭りみたいな)
「鈴、祭りは好きか?」
「好き!浴衣とか着て、屋台とかまわって……花火も上がる?」
思わず身を乗り出して聞くと、おじいちゃんは少し困ったように笑った。
「昔はなぁ……今は、どうじゃろ。花火は上がらんかもしれんが……賑やかにはなるさ」
「行きたい!」
即答だった。
新しい土地。
知らない村。
そこで開かれる“祭り”なんて、行ってみたくないはずがない。
「そうか……」
おじいちゃんはほんの一瞬だけ、目を伏せた。
その表情がすぐに消えて、いつもの優しい顔に戻る。
「夜華も、祭りに出るしなあ」
「夜華も?」
「毎年おるぞ。夜華も大事な役割を持ってるからなあ」
夜華が、祭りを歩いている姿が頭に浮かぶ。
黒いワイシャツじゃなくて、浴衣だろうか。
赤いタッセルは、そのままなのかな。
(……見たいな)
胸がじんわり熱くなる。
「……鈴」
「うん?」
「祭りに行くのなら、絶対に夜華から離れちゃいかん。分かったな?」
おじいちゃんの声が、急に真剣な色を帯びた。
「え?」
「独りになるな」
「う、うん。村もまだ慣れないし全然構わないけど……」
「絶対じゃぞ」
真っ直ぐな視線に、思わず背筋が伸びた。
「……分かった。夜華のそばにいる」
そう答えると、おじいちゃんはようやく安心したように笑った。
「よし。……ごめんなぁ」
またその言葉。
胸のどこかが小さく痛む。
(おじいちゃん、何をそんなに……)
聞きたいことは山ほどあるのに、
その背中に刻まれた後悔みたいなものを見てしまうと
どうしても問い詰められない。
味噌汁を飲み干して、息をついた。
「……でも、祭り、楽しみだなぁ」
ぽつりと呟くと、おじいちゃんは
ほんの少しだけ、寂しそうに目を細めた。
「……ああ。鈴にとって、良い夜になればええなぁ」
◇
おじいちゃんが村の集まりに行ってしまったあと、
家の中には、私ひとりだけが残った。
「…………」
静かすぎて、落ち着かない。
窓の外からは、蝉の声と、ときどき聞こえる川の音。
風鈴が、ちりん、と鳴る。
(……夜華に、祭りのこと、話したいな)
そう思った瞬間、体は勝手に動いていた。
サンダルをつっかけて外に出る。
村へ続く階段を降りるのではなく、あの日と同じ――丘へ続く方の道を選んだ。
胸の奥が、期待と不安で妙にざわついている。
(夜華、いるかな……)
丘に続く小道を抜けると、ふっと視界がひらけた。
風に揺れる草。
遠くに見える村の屋根。
そして、その真ん中。
ベンチに座って、空を見上げている黒い背中。
「……夜華!」
呼びかけると、夜華が振り返った。
赤い瞳が、ぱっと柔らかくなる。
「鈴。どうしたの?」
「会いたくて来た!」
胸の中の言葉が、そのまま口から飛び出た。
自分で言っておいて、数秒遅れで顔が熱くなる。
「……!ボクに、会いに?」
「……うん」
「嬉しい」
夜華は少しだけ目を丸くして、それからふわりと笑った。
「ボクも、会えてよかった」
ゆっくりと立ち上がり、すぐ隣まで歩いてくる。
「今日は雲じぃと買い出し?」
「ううん、おじいちゃんは村の集まりに行ってる。私はお留守番」
「そっか」
「それでね!」
胸の中で膨らんでいた言葉を、一気に放り投げる。
「おじいちゃんから聞いたんだ、この村の祭りのこと!」
夜華の表情が、ほんの一瞬だけ固まった。
「……祭り」
さっきまで穏やかだった空気が、すっと冷える。
「来週の満月の夜なんだって。提灯も出て、太鼓も鳴って……夜華も手伝ってるんでしょ?」
「……うん。一応ね。」
露骨に、声の調子が落ちた。
「夜華は、祭り好き?」
少し不安になって聞くと、夜華は視線を村へと向けた。
丘の下の、まだ何も飾られていない通りをじっと見つめる。
「……好き、とは言いにくいかな」
「え?」
「ああでも、鈴のいる祭りは好きかも。」
「私……?」
「うん、鈴と見る花火や屋台は楽しいだろうね。」
「だったら一緒に行こう!私、屋台とか出るの知らないけど、それでも行ってみたい!」
空を見上げる。
夢の中で何度も見た、あの祭りの光景。
いつも、喧騒が怖くて耳を塞いでいた。
でも今は、そのざわめきでさえ恋しい。
「夜華、一緒に行ってくれる?」
「…………」
しばらく返事がなかった。
横を見ると、夜華はぎゅっと唇を噛んでいた。
何かと言い合っているみたいに、目線を落としている。
「……夜華?」
「……鈴はさ」
やがて、ぽつりと口を開いた。
「もしその祭りで危ない目にあっても……それでも行きたい?」
「え?」
「もし、怖い思いをするかもしれないって言ったら……それでも、祭りに行きたいって思う?」
胸がきゅっとした。
「怖い思い……?」
「うん、怖い思い。」
夜華の声は、やけに静かだった。
「この村の祭りは……昔から続いてることが多すぎる。良いことも、悪いことも、セットで」
「悪いこと……?」
夜華がなんの事を言っているのか分からない。
それはもしかしたら「天守様」や「花嫁」に関係するかもしれない。
「それでも」
それでも――
「行きたい」
自分でも驚くほど、迷いなく言葉が出た。
「私、この村のこともっと知りたいもん。大嶽村のことも、夜華のことも。夜華が毎年どんな祭りを見てきたのかも、一緒に見たい。」
夜華がゆっくりこちらを向いた。
赤い瞳が、まっすぐに私を見つめる。
「……鈴は、ほんと、危機感ないね」
「え、褒めてないよねそれ」
「褒めてない」
くすっと笑う。
少しだけ、さっきまでの重たい空気がやわらいだ。
夜華は一歩近づき、私との間の距離を詰める。
「いいよ、行こう。ボクも鈴と一緒に行きたい。」
「うん」
「……鈴はボクが守るよ、ずっと」
それは、約束の言葉みたいに聞こえた。
「離れない?」
「離れない」
「ずっと?」
「ずっと」
ひとつひとつ確かめるように重ねると、夜華はほんの少しだけ笑って、息を吐いた。
私の頭に、そっと手が置かれる。
いつもみたいに軽くぽん、と叩くんじゃなくて、
そっと包み込むみたいな手のひら。
「祭りの夜、鈴はボクと一緒にいること。絶対に約束」
「うん。約束」
「どんなに楽しくなっても、はぐれそうになっても。……どんなことが起きても」
最後の一言だけ、声がかすかに震えた。
「夜華?」
「俺の手を離さないで」
いつも見ている赤い瞳が花火のように弾けた気がした。
繋がれた冷たい手に私の温もりが宿る。
「楽しみにしときなよ。鈴が見たことない夜になるから」
「え、何それ。脅し?」
「さぁ?」
いたずらっぽく笑う横顔を見ていると、不思議とさっきまでの不安が少しずつ薄れていった。
(夜華が一緒なら、大丈夫だよね)
根拠のない安心。
でも、胸の奥にはっきりと根を張っている。
丘の上で並んで座り、少し先の未来の話をする。
「浴衣、着てもいいかな」
「絶対似合う。雲じい、泣いて喜ぶよ」
「夜華は?」
「ボクは……どうしよっかな」
「着てよ、浴衣。絶対かっこいい」
「鈴がそこまで言うなら考えとく」
他愛もない会話。
なのに、ひとつひとつが、胸の中に大事にしまっておきたくなる。
その夜。
縁側に座っていると、村の方から太鼓のような音が微かに聞こえてきた。
「……練習かな」
提灯の準備だろうか。
人の声も、笑い声も、時折風に乗って届く。
胸がふわりと高鳴る。
(祭り、楽しみだな)
目を閉じると、夢で見る祭りの光景と、来週の祭りが重なった。
提灯。
太鼓。
人のざわめき。
そして、花火みたいな赤い瞳。
「……夜華」
小さく名前を呼んで、私は布団に潜り込んだ。
この時の私はまだ知らない。
あの夜交わした「そばにいる」という約束が、
あの祭りの夜、どれほどの意味を持つことになるのかを。
奇妙で、不思議で、少しだけ切ない夏は
静かに、確実に、祭りの夜へと向かっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます