第3話 行きも怖けりゃ帰りも怖い

いつも同じ夢を見る。


祭囃子が響き渡り

提灯のほのかな明かりが夜を淡く彩る。


喧騒だけがうるさいくらい耳に届いて

いつも耐えられなくて耳を塞いで蹲る。


早く終わって

早く帰りたい

早く、早く


そう願っているとふわりと身体が浮く。


『もう大丈夫だ』


低く、艶やかな声。

顔は見えないその彼の声だけは

いつもうるさくて仕方のない喧騒を遮るように

はっきりと聞こえる。


『――。』


名前を呼ばれ、顔を上げれば

目の前には夜空に咲き誇る光の華々。


「おにいさん、なまえなんていうの?」


『俺は――。』


いつも同じ夢を見る。

小さい時の嘘の様で本当かもしれないひと時の白昼夢。



朝、目を開けた瞬間に、昨日の出来事が一気に押し寄せてきた。


夜華の赤い瞳。

繋いだ手の温度。

「離したくないなら、離さなくていい」という声。


布団の中でひとり、思い出しては、じんわり顔が熱くなる。


「……今日も会えるかな」


天井を仰いで小さく呟いてから、布団をはいだ。

体は軽い。ここに来る前のあの鉛みたいなだるさは嘘みたいだ。


階段を降りると、台所から味噌汁の匂いがした。


「おはよう、鈴」


「おはよう、おじいちゃん」


テーブルの上には、焼き魚と漬物、卵焼き。素朴だけど、どこかほっとする朝ごはんだった。

湯気の立つ味噌汁をひとくち飲むと、体の芯がじんわりと温まる。


「具合はどうだ?どこか痛いところはないか?」


「ううん、大丈夫。すっごく元気」


「……そうか、なら良かった。ごめんなぁ」


「また謝ってる」


苦笑いしながら箸を動かした。


朝ごはんを食べ終えて、食器を流しに運ぶ。

洗い物を手伝おうとするも


「鈴は外の空気吸ってきなさい。こっちはじいちゃんがやっとくから」


と追い出されるように背中を押された。


「じゃあ、ちょっとだけ行ってくるね」


玄関に出ると、朝の空気がひやりと肌に触れた。

日差しは強いはずなのに、山の影と木々のおかげで思っていたよりも涼しい。


ふと、家の横に伸びる石段に目を向ける。


村へ降りる階段じゃない。


昨日、夜華と降りたのとは逆方向。

崖の上――滝の始まりのあたりへと続く、上りの階段。


おじいちゃんが言っていた。


『この上にはな、大社がある。村を護ってくださる、えらい神様のなぁ』


この村に来てから体調が良くなったのは、もしかしたらその神様のおかげなのかもしれない。

そう思うと、少しだけお礼を言いに行ってみたくなった。


「……ちょっとくらいなら、いいよね」


独り言のように呟いて、一段、足をかける。

苔むした石の階段は、少しひんやりとしていた。


その時だった。


「――鈴?」


名前を呼ばれて顔を上げる。


朝日を背に、階段を下ってくる人影。

昨日もみた黒いワイシャツに赤いタッセル。火花みたいな赤い瞳。


「夜華?」


自然と声が弾んでいた。

自分でも分かるくらい、胸の奥がふわっと軽くなる。


「おはよ。もう起きてたんだ」


「おはよう夜華。……朝からどこ行ってたの?」


問いかけると、夜華は一瞬だけ視線を上にやった。

私の正面――階段の先にあるはずの大社の方角に。


「ちょっと、用事」


「用事?」


「うん。鈴は気にしなくていい用事」


ふんわりと笑ってそう言うけれど、その目の奥は、どこか冷たく光っている気がした。


「鈴は?上に行こうとしてた?」


「うん……この村に来てから体調が良くなったから、その、お礼?言いに行こうかなって。大社の神様に」


そう口にした瞬間、夜華の表情がわずかに変わった。

笑みはそのままなのに、空気が、ひやりと冷たくなる。


「……そうなんだ」


「ダメ、だった?もしかして立ち入り禁止とか?」


恐る恐る聞くと、夜華は何でもないような顔で階段を降りきり、私の目の前に立った。

そして、ごく自然な動きで、私の手首を掴んだ。


「――鈴は行かない方がいい」


「え?」


「社に行くの。鈴が行くには、まだ早い」


「まだ早いって……お参りするだけだよ?」


「それでも」


声色は柔らかいのに、その手の力は思っていたよりも強い。

まるで、このまま階段を上がらせたら二度と戻ってこられないとでも思っているみたいに。


「どうして?」


問うと、夜華は少し困ったように目を伏せた。


「鈴、昨日言ってたでしょ。ここに来るまで、ずっと具合悪かったって」


「……うん」


「ここの空気が合ってるなら、それはたぶん――この村全てのおかげであって、あの神だけの功績じゃないよ」


「え?」


「山とか、川とか、風とか。……雲じいだってね」


くく、と小さく笑う。


「だから、焦ってあいつにだけお礼言いにいく必要は、ない。」


「でも……」


「それに」


言いかけて、夜華はふっと顎を上げた。


階段の先、まだ見えない大社の方を見上げる横顔。

その視線は、どこか刺すように鋭かった。


「案外さ、あの神はなんもしてないかもよ?雑魚だし。」


「……え?」


あまりにも軽い口調に、耳を疑う。


「ちょ、ちょっと!そんなこと言ったらバチが当たるよ!」


慌てて声を上げると、夜華は「冗談冗談」と肩をすくめた。


「怖がらせるつもりはなかったんだけどなぁ」


「怖いよ!だって、この村を護ってくれてる神様なんでしょ?」


「そういうことになってるね」


「そういうことに……?」


首を傾げる私を見て、夜華はふっと笑みを深めた。


「――鈴」


「なに?」


「その神様の話、聞きたい?この村を護ったとされる神の話。」


「神様の話?」


「うん。大嶽村に伝わってるおとぎ話みたいなやつ」


おとぎ話。


そう言われると、少しだけ胸が高鳴った。

知らない土地に来て、その土地にしかない昔話を聞けるのは、なんだか特別な体験みたいに思える。


「……聞きたい」


「じゃあさ」


夜華は私の手首からそっと手を離し、代わりに指先だけを絡めとった。


「社に行くのは、その話を聞いてからでも遅くないでしょ?」


「……うん」


「今日は村の方、降りよ。どうせ役所にも行かなきゃいけないし」


そう言うなり、夜華はいつものように私の手を引いた。

階段の上に向けていた足が、くるりと方向を変えさせられる。


ほんの少しだけ名残惜しくて、振り返って階段を見上げた。


鬱蒼とした木々の間に、薄暗い石段が口を開けている。

さっきまで何も思わず見上げていたのに、今はなぜだか、その先に何があるのか、知りたくないような気さえした。


「……鈴」


呼ばれて前を向くと、夜華の赤い瞳がまっすぐにこちらを見つめている。


「行こう?」


「……うん」


もう一度だけ階段を見上げてから、私は夜華に引かれて村へ降りていった。



村役場の中は思っていたよりもこじんまりとしていた。

小さな郵便局と併設されたような建物で、ガラス戸を開けると、涼しい風とインクの匂いが迎えてくれる。


「こんにちはー」


夜華が先に中に入ると、奥から男性が顔を出した。

四十代くらいだろうか。半袖のシャツに、よれたネクタイ。


「おや、夜華くん。それに……」


私を見るなり、その目がほんの一瞬だけ細められる。


「あの、雲津鈴です。昨日、引っ越してきました」


ぺこりと頭を下げると、彼はすぐににこりと笑った。


「ああ、知ってるよ。手続きだよね?」


「はい……」


事務的な説明が続く。

住民票の異動とか、保険証の住所変更とか。

よく分からないところは、横で夜華がさらりとフォローしてくれた。


「ここにサインして」


「う、うん」


ペンを握る手が、少しだけ緊張で震える。

自分の名前だけは忘れなかったはずなのに、こうして書類に書く度、紙の上の「雲津鈴」という文字が、ほんの少しだけ自分から浮いて見えた。


「大変だったね、鈴ちゃんも。」


書類を確認しながら、職員の人が言う。


「身体の具合、まだ悪いのかい?」


「え、いや……」


「本調子じゃないらしくて、手続きこれで終わりだよね?…鈴、戻ろ。」


被せるように会話を続ける夜華。

当たり障りのない会話。

なんてことない会話、なのに夜華ではなく、間違いなく私に向けた興味の目。


――背中に、じりじりとした視線を感じる。


ちらりと振り返る。

待合用の長椅子に座っていたおばあさんが、おじいさんが。

子どもを抱っこした若い女性が、職員の男性が

みんな、じっとこちらを見ていた。


目が合うと、すぐに逸らされる。

胸がざわつく。


違和感と不安を抱えていると夜華に腕を取られる。

腕を引かれて役場を出ると、外の空気が少しだけ重く感じられた。


「……大丈夫?」


夜華が横で聞いてくる。


「うん。慣れないことばっかりだからかな、ちょっと疲れたや。」


「偉いよ。よく頑張ったね。」


そう言って、ぽん、と頭に手を乗せられた。


「ちょ、子ども扱いしないでよ」


「ボクからしたら鈴は子どもだよ」


「むっ…夜華もそう変わらないのに!」


頬をふくらませると、夜華は楽しそうに笑った。


「じゃあ、ご褒美あげる」


「ご褒美?」


「うん。……ボクの一番好きな場所に連れて行ってあげる」


「夜華の?」


「そう。そこでさっき社の神様の話、聞かせてあげる。」

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