第2話 繋いだ手と手に
太陽が山の向こうに沈みかけ、
村全体が金色に染まっていく。
昼間の暑さはようやく落ち着いたけれど、
どこか胸の奥だけがそわそわとざわめいている。
夜華と並んで歩く帰り道は、
たったそれだけのことなのに、不思議と胸に熱が灯るようだった。
「今日はありがとう。いっぱい案内してくれて」
「ん?いいよ。鈴だから。」
「私のため?」
「どちらかと言うと、ボクのため」
あまりにも自然で、当たり前みたいで、
他の意図がないと分かっていても、少し顔が熱くなってしまう。
夕暮れのオレンジが彼の横顔を照らしていて、
細い睫毛の影が頬に落ちていた。
何度見ても綺麗で、
息を吸うのを忘れそうになるくらいだった。
「鈴、疲れてない?」
「ううん、大丈夫。むしろ……なんだか元気になった気がする」
「それなら良かった」
彼はそう言って、
大袈裟でない程度に歩幅を合わせてくれる。
たぶん無意識なんだろうけど、
その優しさが毎回、心に刺さってくる。
家までは階段をのぼればすぐなのに、
そのすぐが妙に長く感じた。
ずっとこのままでいたいような、
帰りたくないような。
そんな気持ちを見透かしたみたいに、
夜華が立ち止まり、振り返る。
「……涼しいね」
「そうだね。さっきまであんなに暑かったのに」
「山だからかな……鈴が来てくれて、今日の風は機嫌がいいんだよ」
「なにそれ。風って機嫌あるの?」
「あるよ。鈴が笑ってる時は特に」
「…………」
そんな言い方、ずるい。
胸の奥がきゅっと縮むように熱くなる。
思わず俯いた私に、夜華が一歩寄った。
「ごめん、嫌だった?」
「ち、違う……!嫌じゃないよ」
「なら良かった」
夜華は、ほっとしたように笑う。
その笑顔を見るだけで、
世界から全部の雑音が消えたみたいに思えた。
胸の奥が微かに軋んだ気がした。
気づけば、繋いでいた手がほどける。
離されるのかと思って指先を見つめた瞬間、
夜華は一瞬だけ迷うような仕草をしてから、
——そっと、私の手の甲に触れた。
「……鈴」
名前を呼ばれるだけで、
胸の奥に甘い痺れが広がった。
「家に着く前で悪いけど……」
夜華は少しだけ躊躇うような目をした。
これまでの余裕げな態度とは違って、
ほんの少しだけ子どもみたいな表情。
「……もう少しだけ、このまま歩こう?」
「え……?」
「鈴と離れるの、今ちょっとだけ嫌だから」
心臓が跳ねた。
こんなに静かな声で、
こんなに真っ直ぐ言われたら、
どう反応すればいいのか分からない。
でも夜華は、気まずそうに見えるどころか、
どこか照れたような、寂しそうな笑顔をしていた。
「今日さ、いっぱい案内したでしょ?」
「う、うん……」
「楽しかった?」
「……すごく」
「そっか。なら、よかった。」
言ってから「ああ、でも」と夜華が笑う。
「……もうちょっと鈴と歩きたかったってだけ」
風が頬に触れる。
セミの声も遠くなっていく。
「ねえ夜華」
「ん?」
「なんか……初めて会った気がしないや。ずっと前から知ってたみたい…」
「……そうだね」
一瞬、夜華の瞳が揺れた。
その揺れはすぐに隠され、
夕日に透けた赤い瞳が柔らかく細められる。
「鈴がそう思ってくれるなら……嬉しいよ」
「私たち、どこかであったこと…ある?」
気づけば階段下に着いてしまっていた。
あと数十段のぼれば、もう家だ。
「どうだろうね…君の消えた記憶の中にもしかしたらいたのかもしれない」
「夜華、」
このまま終わるのが嫌で、
無意識に夜華の服の裾をつまんでしまう。
「……ねぇ、もう少しだけ」
自分でも驚くほど小さな声。
夜華は目を丸くして、それから微笑んだ。
「うん。鈴がそう言ってくれるなら、いくらでも…」
「…………」
「離したくないなら、離さなくていい」
その言葉と同時に、夜華の手がそっと私の手を包み直す。
階段を上がる間も、
家の前に着いても、
夜華は離さなかった。
私の親指に、自分の親指を触れ合わせるようにゆっくり重ねてくる。
その仕草があまりにも優しくて、胸がじんわりと熱くなる。
「……鈴」
夜華が近くで囁く。
「今日はありがとう。鈴のおかげで楽しかった」
「え……私の?」
「うん。鈴が笑うと…… ボクも嬉しいんだ、すごくね」
指先にじんわりと熱が宿る。
夜華が少しだけ身を屈めた。
顔が近い。
心臓が痛いくらいに跳ねる。
「じゃあ、また明日」
ふっと離れていく。
あっけなさはあるのに、余韻だけがずっと胸に残るような声。
だけどその時——
「鈴、帰ったのか?ん…?夜華も一緒か」
階段の上から、おじいちゃんの声が飛んできた。
びくっとした私とは違い、夜華は涼しい顔で一歩下がり、まるで何も動揺していない。
むしろ、少し楽しそうにすら見える。
「こんばんは、雲じい。鈴のお届けだよ」
「すまんな夜華。」
「いいのいいの。ボクも可愛い子とデートできて楽しかったし」
「えっ!ちょ、夜華!」
私が慌てて言うと、夜華はくすっと笑った。
「じゃあ鈴、また明日。無理はしないでね」
最後に、ほんの一瞬だけ、指先で私の手を掠めるように触れ
——夜華は踵を返した。
夕暮れの中を歩き去るもう見慣れた黒いシャツと赤いタッセル。
夏の陽炎に紛れて出会った彼は
星々を背に夜に紛れるようにして消えていった。
その背中を見送るだけで、
胸の奥がぽうっと温かく、寂しく、満ちていく。
また明日。
そのたった一言が、
こんなにも嬉しいなんて知らなかった。
奇妙で、不思議で
懐かしくて、優しくて
——少しだけ切ない夏の始まりだった。
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