第23話 甘い香りの向こう側

 ソウセキが朝日がオレンジ色に照らす関内の街へ消え、安吾(方谷)とイチロウ(正蔵)が「知恵の逆流」を開始しようとしていた頃。  

 山田家のリビングでは、別の種類の儀式が始まっていた。


「お母さん、今日は静かだねえ」  

 サキがボウルを抱え、キッチンスケールで小麦粉の量を計りながら言った。

 テーブルの上には、卵と小麦粉と砂糖、ベーキングパウダー、ケーキの型、泡立て器、スプーンなどが置かれている。


 窓の外では、マンションの隙間の朝日の影に紛れた者たちが、壁を這い上がろうとしていたが、ミドリやサキの耳には届かない。もちろん方谷と正蔵は、タブレットという文明の利器を手に、映し出される景色に集中し、気がついていない。


 ゲイリーだけは、壁の振動を聞き、眉を八の字に歪めたが、ステッキでコツコツと何度か叩き、ふわりとサキの肩に飛び乗った。


「そうね。お札さんたちが、良いお仕事をしてくれているのかもね」  


 ミドリは微笑みながら、冷蔵庫から無塩バターを取り出した。  


 玄関に設えた、多国籍な神仏由来のお札の混ざり合う祭壇は、今まさに外からの呪術的な干渉を、無秩序な情報の壁で弾き返そうとしていた。

 「天心唯我会」が放つ冷たい私念は、玄関の扉を一枚隔てた先で、行き場を失い霧散していく。


 ゲイリーもまた、その和やかな戦いに加わることにした。  

 彼は小さな身体全体を使い、絞り器を持ち、天板の上に星の形の生地を器用に絞り出していく。

「ジャパニーズ・オフダの効果は絶大だ。クッキーの型抜きに集中できる、そうだろう、レディ」


「うん。クッキー生地二色作っておいたから、ゲイリーのその色が終わったら、ココア色ね」


「おお。それは頑張って絞り出さねばな」


 ゲイリーが絞り出した星の横に、サキが丁寧に型取った動物たちのクッキーが並ぶ。リス、ウサギ、タヌキ、クマ、イヌ、ネコ。腹の部分には『HAPPY!』という文字を組み合わせたコテで、印字していく。


 サキが卵と砂糖を混ぜ合わせるカチャカチャ、チャチャ、チャというリズムが、結界の波紋のようにリビングの空気を刻んでいく。  


 そして、ミドリが琥珀色の瓶の蓋を開け、白い生地にバニラエッセンスを一滴落とした、その瞬間だった。


 ふわり、と。  

 リビングは濃密で甘い、幸福な香りに支配された。


「……何んじゃ? こん香りば、嗅いだことがなか」


 方谷と真剣なやり取りをしていた正蔵が、鼻をひくつかせ、思わず振り返った。  明治の世に、石炭の煙と潮風の中で生きた男にとって、それは天国の匂いに等しかった。


 ミドリは、にこやかに返事をした。

「正蔵さんと言ったかしら。これはと言います、蘭の実の香りだそうですよ。お兄ちゃんは、バニラの香りのクッキーが大好きだったわ」  

 方谷が厳しい表情を和らげた。

「甘い良い香りじゃのう」


「さあ、オーブンは170度。どれから焼こうかしら」

 

「サキとゲミちゃんのクッキー! 小さくて、すぐに焼けるでしょ? ケーキが焼けるのを待ちながら、お父さんが戻ってくるのを待てるよね? それに、ケーキのいい匂いの中でクッキーを食べるのは最高!」


「正解! いろんなお菓子を作るとき、小さいものから焼くと、効率的にできるわね。手袋を使って入れてね」


「はーい」

 サキが慣れた手つきで、オーブンの扉を開けて、星と動物のクッキー生地をセットした。


 ジジジ……。


 小さなタイマーの音が、この家を護る新たな鼓動となった。


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