第19話 時代の交差点とカオスの防壁
食事が終わり、片付けの手伝いをしながら、サキはソワソワしていたが、「わたし、イチロウくん、見てくるね」と、キッチンを飛び出していった。
しばらくして、サキの叫ぶ声が聞こえた。
「おにーちゃん、おかーさん、イチロウくんが」
大急ぎで駆けつけると、イチロウは横になって、虚空を仰ぎながら頭を左右に動かしている。
「……こいは、どこか。……ここは、どこな。夢を見ちょるのか」
「イチロウくん、誰!?」
「なんと……!」
「おやおや……」
••✼••
食卓に、もう一人の「重力」が加わった。
寝ぼけ眼でリビングに現れたイチロウ(川崎正蔵)は、重い足取りでフローリングに歩み寄ると、そのまま膝をつき、掌で床をなぞった。その背中には、朝から方谷を悩ませていた「鉄の匂い」の正体——半透明の、鈍く光る細い糸が、血管のように脈打ちながら外へと繋がっている。かすかに潮の匂いが混じり始めている。
「……こいは、見事なもんじゃ。なんと美しい
正蔵はそのまま視線を上げ、大型の冷蔵庫をペタペタと触る。自動で開き、頭にぶつかりそうになり、のけぞった。
「この大きな水屋は、なんとなめらかな硝子じゃ……。冷気まで閉じ込めておるとは」
呆然と呟く正蔵の姿は、まるで初めて黒船を見た少年のような輝きを帯びていた。彼はふう、と深く息を吐き、独り言をこぼす。
「……こん世界にも、
方谷は、パンケーキの皿を静かに片付け、居住まいを正して正蔵と向き合った。 「……松方? 松方正義という御仁を知っておられるか?」
ゲイリーはコーヒーカップの縁に捕まりながら、方谷をチラリと見つめたが、何も言わず、ただ静かに髭を整えた。
正蔵はゆっくりと振り返り、方谷を凝視した。
「松方を知っちょるのか?
「ワシは山田方谷。松方という男、知っておるぞ」
二人の偉人の視線がぶつかり、火花が散る。
そして、正蔵の首からは細長いほんのり光を帯びたジェル状の糸が玄関、その先にまで繋がっている。
「お兄ちゃんたち、仲良くだよ?」
見かねて、サキが口を挟んだ。
「大丈夫じゃ。ワシら仲良しじゃけん」
「おうよ」
••✼••
その緊張感を破ったのは、玄関の方から聞こえてきた鼻歌だった、
玄関先で、ミドリは宝物を扱うような手つきで、白い半紙の包みを解く。
中から現れたのは、色も形も、そして綴られた言語もバラバラな、お札の山だった。その横にもイチロウの首から伸びているジェル状の糸は垂れ、床に長く這いつくばっている。
彼女は一枚ずつ、まるで雛人形を飾るように祭壇へ立てかけていく。茶色のニスの塗られた骨組みに横板。赤い祝詞の書かれた和紙。鮮やかな朱色の印が押された道教の硬い霊符、力強い墨跡の梵字、そして羊皮紙に記された幾何学的な西洋の護符。
白い小皿に立てた盛り塩。どこで手に入れたのか、色鮮やかな異国の魔除けの布。
それぞれが異なる神の沈黙を湛えているが、ミドリの手によって並べられ、タープのように張られると、不思議と一つの拒絶の意志となって、外廊下の空気をピリリと引き締めた。
「よし。これで、ここらへんの『結界』は完璧かな」
「お母さん……それ、神様たちがケンカしない?」
サキが玄関をのぞいておずおずと尋ねる。
「大丈夫よ。興味の赴くままに集めてきたお札たちが、こんなに役に立つ日が来るなんて思わなかったわ。……ええと、これはタイの寺院でいただいた魔除けでしょ、こっちは下町の古本屋の奥で眠っていた梵字の写し。みんな一緒に並べれば、にぎやかでいいじゃない」
ミドリは、どこか魔女のような妖艶な微笑を浮かべた。マンションの玄関、子供の自転車の脇に設えられたその「多国籍祭壇」は、もはや宗教の枠を越え、見る者に「触れてはいけないもの」と直感させる圧倒的な圧
を放っている。
「みんなでイチロウくんとサキを守ってもらうんだから。多国籍なチームの方が、今の時代には合ってるでしょ?」
ソウセキが静かに立ち上がった。合気道の足運びを思わせる、重力を感じさせない軽やかな所作で、玄関の鏡に向かってネクタイを整える。
「……なるほど。お母さん、これは『建築学的』にも実に面白い。意味の通じないものが混在することで、侵入者の思考を『機能不全』に陥らせるね。優れた動線設計の真逆、いわば意識の迷路だね」
「あら、あなた。おでかけ?」
「ああ。私は少し、この町の『古い知人』に挨拶に行ってくるよ。地元の再開発の折に、少しばかり設計上の便宜を図ってやった……いや、失敬。美しい街並みを守るための『約束』を交わした連中がいてね。アンゴ、正蔵さんとごゆっくり」
「行ってらっしゃい」
「父上殿、行ってらっしゃい」
「お父さん、いってらっしゃーい、またね!」
ソウセキはジャケットをひらりと羽織ると、軽やかに外へと消えていった。
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