第2話 友人川崎イチロウと山田家

 山田安吾アンゴの友人川崎一郎かわさき いちろうは、隣のマンションの一室に住む年下の友人だった。そもそも安吾アンゴは、大学受験の折に原因不明の高熱で倒れ、三年間意識不明の時期があった。その間に何度も病院や自宅へ見舞いに来てくれていたひとりが彼である。


          ••✼••


 父と母は、ある日、自室で倒れていた安吾アンゴを見つけ、大いに嘆き悲しんだ。

 夕暮れに、三島由紀夫の『美しい星』を手に、床に転がっていたのだ。妹はしくしくと泣き、毎日病院へ見舞いに駆けつけた。


 それまで、普通の主婦であり、スーパーの生鮮売り場でパートの仕事をしていた母のミドリは、突然占いをはじめた。ミドリは息子の異変を、地球に降りてきた宇宙人が身体に馴染むまで、この異変は続くと導き出した。


「だから、心配しないで。きっと戻ってくるの。お兄ちゃんは三年で戻ってくるわ。そのときには、盛大にお祝いしましょう。誕生日パーティーよ。地球に生まれるの」

「お母さん、お兄ちゃんは何が原因で眠ってるの? 毒リンゴを食べて眠るお姫様みたいだね」

「それはね。身体の波長が、この地球に合わなかったのね、それで少しのあいだ眠ることにしたの」

「お母さん、その三年という数字は、どこからきたんだね。三島由紀夫のあの本は、なぜ彼の手にあったんだ」


 父のソウセキは、息子の原因不明の意識喪失と、建築設計士としての理詰めの論理と、文学者としての諦念の間で、激しく動揺していた。彼は、病室の小さなテーブルにある『美しい星』を手に取り、その表紙を指でなぞった。


「地球を救いに来た宇宙人……だと? 三島由紀夫の退廃的な美意識が、アンゴの身体を拒絶したのか、あるいは取り込んだのか」

「お父さん、理屈はいいのよ。三島由紀夫が重要ではないの。美しい星という言葉が、メッセージなんだわ。この美しい星に戻ってくる時間を、お兄ちゃんは過ごしているの」


 母ミドリは、自宅に占いの道具を揃え、儀式のようにキッチンの隅のテーブルを祀り始めた。そのテーブルには満天の星の絵柄のテーブルクロスを敷き、カードと、いくつかの水晶や、ろうそく型の灯りや、家族の写真を置き、ドライセージを焚いた。

 彼女の強烈な前向きさは、夫の虚無と娘の常識を、ねじ伏せてしまう力を持っていた。ミドリにとって、この「宇宙人」という解釈こそが、現実の悲劇から逃れるための唯一の公念だった。


「お父さん、あなたはこれを悲劇だと思う? あなたの好きな退廃は、この時間をどのように位置づけるの? これは私たち家族に与えられた、大事なターニングポイントなの」


 妹のサキは、病院の白いベッドで眠る兄の手を握りながら、何度も母に尋ねた。


「お兄ちゃんが目を覚ますとき、本当に『お兄ちゃん』に戻るの?」

「大丈夫よ、サキ。三年という周期は、この地球では成長と再生のサイクルのひとつなの。彼は生まれ変わって戻ってくるわ。ただ、少し言葉遣いが変わっているかもしれないけれどね」


 イチロウは、隣のマンションの一室に住む年下の友人だったが、安吾アンゴの家族とは、血の繋がった弟のように育ってきた。その前の年に、彼の母が病で他界したばかりのイチロウにとって、安吾の家族は心の拠り所でもあったのだ。


 彼は、安吾の突然の異変と、それにより崩壊寸前となった山田家を見て、「家族というものは、病や悩みを抱えて、孤立し、意識をすべて持っていかれると、簡単に壊れてしまう」ということを、骨身に染みて理解していた。


 イチロウは、安吾が倒れてから、毎日欠かさず病室に来て、季節の果物や、瑞々しい花を置いていった。それは、眠る安吾のためだけではなかった。


「ミドリさん、今日も綺麗な花を持ってきましたよ。今日の花は、シンビジウムです。白も黄色も綺麗でしょう。アンゴには、明るい色がいいですよね」

「素敵なグラデーションね。白は「深窓の麗人」、黄色は「誠実な愛情」、ピンクは「素朴」だわ」


 イチロウは、「公念(人のため)」という言葉を知らなかったが、彼の行動はまさしく公念だった。母を亡くした彼にとって、安吾の家族は、守るべき「公的な存在」になっていたのだ。


 ある日、イチロウがソウセキにリンゴを手渡すと、ソウセキは疲弊しきった顔で尋ねた。


「イチロウくん。君は、なぜこんなに毎日来てくれるんだ。君の優しさは、虚無の前で虚しくならないのか?」


 イチロウは、目を伏せた。


「僕は、母が倒れたとき何もできませんでした。でも、アンゴの家は……僕の家みたいだから。家族が病気になるって、残された人がどうしようもない悲しみを抱えるって知ってるから。アンゴが戻ってきたとき、家族が笑ってないと、寂しいでしょう」


 その言葉を聞き、ソウセキは文学や理屈ではない純粋な心に触れ、顔をやわらげた。サキは、そんなイチロウの姿を見て、「優しいお兄ちゃん」として強く慕っていた。


 安吾アンゴが三年間の眠りから覚め、大学に復帰するまでの間、川崎イチロウのあたたかい思いが、山田家という脆弱なシステムを、支え続けていたのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る