山田と川崎と星の記憶

柊野有@ひいらぎ

第1話 強制覚醒 04:00:00

 横浜市中区。高層マンションの一室で、山田安吾やまだ あんごは目覚めた。

 南側の窓のカーテンを開けるまでもなく、まだ外は暗い。早朝の四時だった。


 彼の肉体は、一ヶ月前の二十二歳の誕生日を境に、山田方谷やまだ ほうこくという異質な意識体に乗っ取られていた。本来の安吾自身は方谷の意識の下で、眠り続けていた。

 彼の脳内には、厳格な山田家家訓が、極限まで詳細な生体プログラムとしてインストールされていた。


          ••✼••


        山田家家訓


 献上米二合を毎日なすべきこと

 御神仏初穂はこれまで通りなすべきこと

 衣類は木綿に限るべきこと

 三度の食事は一度はかす、一度は雑炊、一度は麦飯、最も母上には三度とも米をすすめ、夫婦の米は倹約すること

 酒の嗜みは無用のこと

 客の饗応は一汁一菜かぎり

 労働は朝七つ(午前四時)より夜は九つ(夜中十二時)まで

 履き物はわらぞうり、引下駄はわら軸にかぎること

 から湯、さかやきは月三度。瓶つけは倹約に徹すべし

 もろもろの勝負事はかたく無用

 芝居その他の見物ごとは無用

 遊芸はいっさい無用


          ••✼••


 名利みょうりためニスル私念しねんズレバ、

 縦令たとい驚天動地きょうてんどうち功業こうぎょうアルトモ、

 一己いっこわたくしスニギズ。


 (もし仕事や行いの出発点が

  名声や利益といった 自分だけの欲 から生まれたものであるなら、

  たとえ世をあっと驚かすような大きな功績を残したとしても、

  それは結局、

 「自分ひとりのためにやったこと」にすぎない)


          ••✼••


 このプログラムは、安吾の肉体に清貧と公念を強制的に課すこととなった。その最も過酷なあらわれが、毎朝午前四時ちょうどのけたたましい内部アラームによる強制覚醒だった。さらに夜中十二時には、強制シャットダウンされてしまう。これは現代の労働基準法を完全に無視した仕様である。その日から、安吾(方谷ホウコク)は、シンデレラよろしく十二時までに大急ぎで帰宅しなければならなくなった。


 安吾(方谷ホウコク)のこの異変に対し、家族はそれぞれ独自の方法で解釈し、対応していた。

 母のみどりは、スーパーの生鮮売り場で、魚を捌くパートの仕事をしている。その傍ら、タロットとルノルマンカードに傾倒する極度の占い依存症だ。友人を集めて占い魔女集会と称し、毎月のティーパーティーをする。

 彼女は、息子が突然麦飯を食べ、木綿しかまとわなくなった行為を、オカルト的な幸運の兆候と捉えた。


「お兄ちゃん、最近変な言葉を喋るけどね、中身は変わりないでしょう? 急に麦ごはんを食べたりお粥を毎日食べたいとか、粗食とか、木綿の服しか着ないとか、お母さんには理解できないけどね。でも、お兄ちゃんの『清貧の運気』が上がってるって、ルノルマンカードの『魚』と『星』のカードで出たのよね。これは、金運じゃなくて『魂の進化』の開運行動なの」



 父蒼石そうせき(五十一歳、建築設計士)は、坂口安吾に傾倒し、「人生は薄い布一枚」と哲学する文学かぶれである。退廃をこよなく愛すると自ら言うが、今では妻に頭があがらず良く働き、結果として良きマイホームパパだった。

 安吾に、この名前をつけた張本人だ。

 

 安吾自身はさほど気にしていなかったが、安吾に方谷が乗り移ったとき、方谷はひどく気落ちしていた。


「なんじゃと? あんごじゃと? 松山でいうたら、大馬鹿もんゆうことじゃが」


 安吾(方谷ホウコク)が「贅沢は悪じゃ」と断じると、彼女は「その通り! デパ地下の惣菜は邪気!」と返した。

「じゃあお兄ちゃんが、週の半分は晩ごはん担当ね」

「ん? 構わんが」

 その日から、方谷は、月、水、金の晩ごはんを粥に変えた。卵、梅、鮭、をローテーションとした。そして、漬物一枚と、一汁一菜をかたくなに守った。


「お兄ちゃんの晩ごはんは、うちの家計に優しいの。お粥と麦ご飯になってから、身体が軽くなったわ」

 安吾(方谷ホウコク)の財政思想は、ミドリのオカルト思想と、奇妙な形で共存していた。


 父の蒼石そうせきは、小さな会社で働く建築設計士でありながら、常に厭世観をまとう文学かぶれだ。妻には弱いが。彼にとって、息子が「方谷」になったことは、人間性の虚無の新たな具現化に過ぎなかった。

 父は息子に言った。

「アンゴ。お前が別人のようになってしまったことは、皆、知っている。だが、虚無の前では、方谷だろうと安吾だろうと、薄い布一枚だ。ややこしいから、私は長い物には巻かれろ派で黙っている。お前が何をしようと、この人間の原風景としての諦念には勝てん」

「何を言っとるんじゃ。諦念など武士には必要ないじゃろ」

「やれやれ。息子がよもや武士になるとは」


 ソウセキは、四角い顎を触りながら、きりりと強い眉を八の字に下げ、ぼやく。安吾(方谷ホウコク)は、中身が変わろうとも、鼻筋が整い柔らかい頬のラインを持つ穏やかな顔のミドリに似た顔だった。

 父ソウセキにとって、方谷の「公念」は、自身の「虚無」という名の私念を刺激する、不快なノイズでしかなかった。


そして、妹のさき

このカオスな家庭で唯一、現代の常識を盾に戦う防波堤である。


「お兄ちゃん、お願いだから唐揚げの日をもっと増やして。毎日毎日、お粥と麦ごはんに漬物だけじゃ、育ち盛りの私には足りないの。あと、『お父さんの虚無は私念』っていうのもやめて。お父さん、また哲学的な二日酔いになってるだけだから」


 安吾(方谷ホウコク)は、この占いと虚無と常識が渦巻く家庭こそ、現代における最初の戦場だと認識していた。


「ワシはここを戦場と決めた。私利私欲を捨て、文明の持続可能性という公念を求めるぞ」


 こうして、山田家は変わり始めた。


 そのきっかけとなったのは、山田安吾アンゴの異変と、彼の友人が巻き込まれたある事件であった。

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