第3話  避け続ける日々



 ユリウス・グレンジャーの日常は、以前にも増して充実していた。前世の「営業担当」としての記憶がもたらす知恵は計り知れず、貴族社会のしがらみや非効率な慣習も、彼にとっては改善すべき「課題」でしかなかった。革新的な改革案は次々と実を結び、公爵領の財政を潤した。王宮での評価も高まり、周囲の貴族や文官たちは、もはや彼を「氷の貴公子」とは呼ばず、「グレンジャー様」と尊敬の眼差しで見つめる。


 人の輪の中にいる心地よさ。これまでの人生で感じたことのない、温かな感覚だった。


 しかし、その充実感の裏で、ユリウスの心は常に痛みを抱えていた。ゼノン・シュヴァルツ。その名前だけが、彼の心を未だに支配していた。


 王宮でゼノンを見かけるたび、ユリウスは反射的に身を硬くした。通路の向こうに彼の姿を認めれば、さりげなく別の道へ足を向ける。執務室の前でばったり出くわしそうになれば、急に用事を思い出したかのように踵を返す。徹底して、ゼノンとの接触を避け続けた。


(これでいいんだ。彼に会わなければ、この感情もいつか薄れるはずだ)


 自分にそう言い聞かせていた。しかし、現実は全く逆だった。避ければ避けるほど、ゼノンの姿を探してしまう自分がいる。遠くから彼の背中を見つけた瞬間、胸が締め付けられるように苦しい。


 あの時、街で見たゼノンと令嬢の姿が、鮮明に脳裏に焼き付いている。あの優しい笑顔——自分には決して向けられることのない微笑みが、ユリウスの心を深く、深く傷つけた。


 夜、自室で書類に目を通しながらも、彼の視線は宙を彷徨う。羽根ペンを握る手が止まり、インクの匂いだけが静寂を満たしていく。


(シュヴァルツ卿は、今頃何をしているだろう)


 そんな思考が、頭の片隅から離れない。理性では「望みのない恋など忘れるべきだ」と理解しているのに、感情がそれに追いつかない。この苦しみから解放されるには、一体どうすればいいのか。



 ◆


 一方、ゼノン・シュヴァルツは、ユリウスに避けられ続ける日々に、深い困惑と苛立ちを抱えていた。


(何がいけなかったんだ? なぜ、俺だけを避ける?)


 仕事の合間にも、ゼノンの頭の中はユリウスのことでいっぱいだった。王宮の廊下を歩けば、無意識にユリウスが通りそうな道を探し、食堂では彼の席を目で追う。石造りの廊下に響く足音の中から、彼の歩調を聞き分けようとする自分がいた。


 ユリウスが他の貴族たちと親しく話している姿を見るたびに、ゼノンの胸にはチクリとした痛みが走る。あの冷たかった彼が、今では柔らかな笑顔を浮かべている。その変化は、ゼノンにとって、彼の存在がどれほど自分の中で大きくなっていたかを、嫌というほど突きつけていた。


 ある日のこと、ゼノンは訓練場で剣を振るっていた。いつもならば、その鍛錬は彼の心を無に帰し、集中力を研ぎ澄ませる貴重な時間だった。しかし、この日は違った。剣風が空気を裂く音も、汗の匂いも、どれもが虚ろに感じられる。どれだけ剣を振るっても、ユリウスの冷たい視線と、遠ざかる背中が脳裏から離れない。


「ゼノン、どうした? いつになく、荒れているな」


 先輩騎士が、心配そうに声をかけてきた。


「……何でもありません」


「そうか? 顔色が優れないようだが。最近、グレンジャー殿は随分とご機嫌な様子だと聞くが、何かあったのか?」


 その言葉に、ゼノンの剣の動きがぴたりと止まった。


(ユリウスは、ご機嫌……。俺を避けて、ご機嫌なのか)


 胸の奥に、これまで感じたことのない、じりじりとした痛みが広がった。それは、嫉妬にも似た、苦い感情だった。



 ◇


 ユリウスは、ゼノンを避ける日々が続く中で、この苦しさから逃れるには根本的な解決が必要だと感じ始めていた。仕事に邁進するだけでは、ゼノンへの恋心が消えることはない。それどころか、会う機会が減ることで、彼の存在がより一層、心の中で肥大化していくのを痛感した。このままでは、精神が持たない。


(いっそ、当主代理を辞めて、王宮通いもやめれば……)


 そうすれば、この状況に苦しまずに済む。ゼノンと顔を合わせる機会がなくなれば、この望みのない恋も、いつか必ず忘れることができるはずだ。ユリウスは、弟のセドリックに家督を譲ろうと決心した。


 翌日、ユリウスは父である公爵と、弟のセドリックを呼び出した。


「父上、セドリック。私には、お話がございます」


 ユリウスのあまりにも真剣な表情に、公爵は何か重大な事態が起きたのかと身構えた。ユリウスはこれまで、決して自分の弱みを見せることなどなかったからだ。


「この度、当主代行の任を解かれ、家督をセドリックに譲りたく、父上にご許可をいただきたく存じます」


 ユリウスの言葉に、公爵とセドリックは驚愕に目を見開いた。


「ユリウス、何を言っておるのだ! お前ほど当主代行に適任な者はいないではないか! 最近の領地経営の改革も、王宮での評価も、目覚ましいものがある。病にでもなったのか?」


 公爵は、ユリウスの顔を心配そうに覗き込む。


 ユリウスは、長年培ってきたプライドの高い振る舞いを鳴りを潜め、どこか諦めたような、しかし憔悴しきった表情で首を横に振った。


「病ではございません。ただ、最近は心労が重なり、このままでは公爵家にご迷惑をおかけするやもしれぬと……。セドリックは聡明ですし、きっと立派に務めてくれるでしょう」


 その言葉は、ユリウスにしては珍しく、家族への気遣いに満ちていた。感情を押し殺し、常に他者より優位に立とうとしていた彼が、これほどまでに弱々しく、そして家族を思いやる言葉を口にするとは。


 公爵は、長年見てきた息子の変化に、深く心を痛めた。ユリウスがどれほど完璧であろうと努力し、公爵家の重圧に耐えてきたかを、彼は知っていた。きっと、その重圧と、何か隠された心労が限界に達したのだろう。


「そうか……ユリウス。お前は、本当によく頑張ってきたのだな。その言葉を聞いて、父は胸が痛む」


 公爵は深いため息をついた。


「家督のことは急がずとも良い。だが、お前がそこまで言うのなら、一度、ゆっくりと療養した方がいいのかもしれないな」


 セドリックもまた、兄の顔色の悪さと、これまでの彼からは想像もつかない弱々しい姿に胸を締め付けられた。


「兄上、無理はなさらないでください。父上のおっしゃる通り、一度お体を休めてください。公爵家の仕事は、僕が必ず務めてみせますから」


 ユリウスは、家族の心配と、彼らの提案する「療養」という言葉に、一つの光を見出した。王都から離れる口実になる。ゼノンから完全に距離を置くことができる。


(……療養か。それならば、この苦しさも、いずれ終わるのだろうか)


 ユリウスは、小さく息を吐いた。蝋燭の炎が微かに揺れ、書斎に薄い影を落とす。


「……そこまでおっしゃるのならば。祖父の暮らす辺境の地へ、しばらく身を置きたく存じます」


 公爵は安堵したように頷いた。


「そうか……。確かに、祖父の地は静かで良い。そこで心ゆくまで休むが良い。公爵家のことは、我々に任せておけ」


 こうして、ユリウスの「療養」のための辺境行きが決定した。彼はこの選択が、自分にとっての解放だと信じていた。


 だが、彼がこの時まだ知る由もなかったのは、彼の出発が、遠く離れた王都にいる一人の騎士の心を、激しく揺さぶることになるという事実だった。そして、彼の出発を告げるその噂が、彼の知らないところで、とんでもない尾ひれをつけ始めることも——。

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