第2話 貴公子の変貌
ユリウス・グレンジャーの落馬と、その後に続いた劇的な変化は、グレンジャー公爵家だけでなく、王宮全体に静かな波紋を広げ始めていた。あの完璧主義で近寄りがたかった「氷の貴公子」が、まるで別人のように変わったのだ。
その変化は、まず執務室から始まった。
朝の陽光が石造りの窓枠を通して机上に踊る中、ユリウスは羽根ペンを手に書類と向き合っていた。これまでも完璧に仕事をこなしてきた彼だったが、それはどこか機械的で、効率を求めるあまり、時に周囲に息苦しさを感じさせるものだった。しかし、前世の記憶が混じり合ってからは違った。「営業担当の平社員サラリーマン」としての経験は、彼に「人との関わり方」という、貴族の帝王学では決して学べない視点をもたらしていた。
「失礼いたします、ユリウス様。こちらの書類の進捗状況でございますが……」
若手の文官が、おずおずと声をかけた。以前のユリウスならば、進捗が滞っていることに対し、明確な理由を問い詰め、時には厳しい言葉で叱責することもあっただろう。文官は、叱責を覚悟して肩をすくめた。
しかし、ユリウスの反応は予想外のものだった。
「ああ、ご苦労様です。拝見しましょう」
ユリウスは柔らかな表情で書類を受け取ると、眼鏡の奥の青い瞳で素早く目を通した。羊皮紙の束から漂う淡いインクの香りが、朝の空気に混じっている。
「……なるほど。この箇所で詰まっていますね。資料が不足しているとのことですが、何か他に手立ては考えられませんか?」
彼の声には、相手を責める響きはなく、むしろ共に解決策を探ろうとする温かみがあった。
文官は驚きに目を見開いた。
「は、はい……幾つか案はございますが、いずれも前例がございませんため、ご迷惑をおかけするかと……」
「前例がない?」ユリウスは微かに口元を緩めた。「それは素晴らしいことではありませんか」
文官の手が、書類を握る力を緩めた。
「前例に囚われていては、新たな解決策は生まれません。あなたには、その発想力と、既成概念に囚われない柔軟な思考がある。何か困ったことがあれば、遠慮なく私に相談してください。共に解決策を探しましょう」
文官は呆然としたまま、ユリウスを見つめた。あのユリウス様が、まさかこんな言葉をかけるとは。それは、まるで上司が部下の成長を促すような、親しみのある響きだった。
その日から、ユリウスの周囲の空気は少しずつ変わり始めた。これまで彼を「氷の貴公子」として畏れていた部下たちは、彼に話しかけることを恐れなくなった。ユリウスは書類の不備を指摘する際も、相手のプライドを傷つけないよう配慮し、自身の意見を押し付けるだけでなく、相手の意見にも耳を傾けるようになった。前世で培った「顧客との信頼関係構築」のスキルが、無意識のうちに発揮されていた。
「ユリウス様は、最近、雰囲気が変わられましたね」
「ああ。以前は、完璧すぎて近寄りがたかったが、今は何となく、話しかけやすい」
「恐れ多いことですが、以前よりも人間味が増されたように感じます」
そんな囁きが、王宮のあちこちで聞かれるようになった。ユリウス自身も、その変化を感じていた。以前は、周囲の視線が冷たく感じられ、どこか孤立しているような感覚があった。しかし今は、人々の目が温かい。恐れられることなく、人の輪の中に入っていく感覚は、彼にとって新鮮なものだった。
そして、その変化は仕事の効率にも驚くべき効果をもたらした。部下たちが積極的に意見を出すようになり、情報共有がスムーズになったことで、これまで滞りがちだった案件が次々と解決していく。ユリウスは前世の記憶から得た「データ分析」や「プレゼンテーション」の概念を、この世界の常識に当てはめて応用し始めた。複雑な外交交渉では、相手の利益とこちらの利益を客観的に分析し、互いにメリットのある落としどころを見つける。領地経営では、具体的な数値を基にした改善案を提示し、効率的な生産体制を築き上げた。
仕事が充実していく中で、ユリウスは確かに満足感を得ていた。ゼノンへの切ない恋心を忘れようと仕事に打ち込んだ結果、彼の心は満たされていくかのようだった。
◆
しかし、ゼノン・シュヴァルツだけが、その変化に戸惑いを隠せずにいた。
王宮の廊下で、ユリウスの姿を見かける機会は以前と変わらずあった。だが、ユリウスはゼノンの姿を認めると、すっと目を逸らし、足早に立ち去ってしまう。視線も合わせようとしない。
(やはり、俺は嫌われている)
ゼノンの胸には、鉛のような重みがのしかかった。以前は、ユリウスが自分に厳しい言葉を投げかけてくるたびに、嫌われていると認識した。だが、それでもユリウスの視線は、確かにゼノンを捉えていたはずだった。時に苛立ち、時に軽蔑するようなその視線すら、ゼノンにとっては「自分に向けられたもの」であった。それが、今は完全に消え去った。
まるで、ゼノンの存在自体が、ユリウスの視界から消えてしまったかのように。
「ゼノン殿、何かご不安なことでも?」
同僚の騎士が、珍しく浮かない顔をしているゼノンに声をかけた。
「……いや。何でもない」
「それにしても、最近のグレンジャー様は、随分と雰囲気が変わられたな。以前よりも、話しかけやすくなったと評判だ」
同僚の言葉に、ゼノンの表情はさらに曇った。
(俺とだけは、話したがらないくせに)
ユリウスが周囲に慕われ、人々の輪の中心にいる姿を見るたび、ゼノンの胸には言いようのない焦りと困惑が募っていった。以前のユリウスであれば、彼に嫌われていると確信しても、どこか諦めがついていた。だが、今のユリウスは違う。彼は変化し、より魅力的になっている。その変化は、ゼノンにとって「なぜ俺だけが遠ざけられるのか」という問いを、より強く突きつけるものだった。
昼食の時間、遠目に見える食堂で、ユリウスが他の貴族たちと楽しげに談笑している姿が目に入った。その笑顔は、かつてのユリウスからは想像もつかないほど柔らかなものだった。ゼノンは、手にしていたパンを無意識に握りしめた。
(なぜ、俺には一度も、そんな顔を見せてくれない)
ユリウスが自分を避ける理由が分からず、ゼノンは日に日にその存在を意識せざるを得なくなっていった。ユリウスの変化は、皮肉にも、ゼノンの心に深く根を張り始めていたユリウスへの感情を、より確固たるものへと変えつつあった。彼は、自分がユリウスのことで、これほどまでに心が乱されるとは思ってもみなかった。
王宮の隅で、ゼノンは静かに空を見上げた。青い空はどこまでも広がり、ユリウスの瞳の色を思い出させた。その美しい瞳が、もう自分を捉えることはないのだろうか。
ゼノンの中で、ユリウスへの「嫌われている」という思いと、「なぜ避けられるのか」という疑問、そして「彼に近づきたい」という強い欲求が複雑に絡み合い、心を締め付けていく。彼はまだ、それが「恋」だとは全く自覚していなかったが、その感情は、彼の硬い心を確実に蝕み始めていた。
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