東京モルグ
久近久遠
第1話
面倒だから、まずは結論から話そうと思う。
自殺しようとした女子高生を助けようとして、僕は一緒に死んだ。
目を覚ましたら、そこは自殺者だけが落ちる死後の東京、《モルグ》。
《インプ》と呼ばれる怪物が徘徊し、命そのものが通貨になる、狂った世界だった。
今だから言えるけど、この世界には都合の良い救いも、安っぽい幸せもなかった。
これからモルグに落ちる君たちへ。
せめて始まりだけは正確に話しておこうと思う。
僕がモルグに魅入られた夜、最初は確か……。
──────
駅のホーム。
ひび割れたベンチに腰掛ける。
ネオンが闇に溶け、空気は重く湿っている。
電車の音が遠雷のように遠ざかる。
サラリーマンが歩いている。
重心が右に偏り、革靴の右側だけ踵がすり減っている。
肩凝りと腰痛を庇った歩き方。
階段を降りてきた女性、右足を引きずっている。
靴擦れ。
左右で足のサイズが違うのだろう。
左目が赤く、鼻も赤い。
左手で顔を拭いたせい。
左利きだ。
人間観察は良い。
人間ドラマを覗き込む、背徳的な楽しさがたまらない。
それに何より、金がかからない。
なんて、他人のことより今は自分のことをどうにかしないと。
自身を取り巻く不安に押し潰されて、心臓がホームの汚れた地面にくっついた気分だ。
全財産は財布の中にピッタリ三千円。
今日も結局、バイトの面接に落ちた。
住所不定無職ってのが、やはり厳し過ぎるらしい。
スマホもそろそろ停められる。
……家に帰ればババアの小言が待っている。
いや、もうババアはいないんだった。それに帰る家もない。
頭の中がこんがらがっている。
育ての親の祖母が死んだ。
高校を卒業したその日に死んだ。
人間観察にはそれなりに自信があってもババアの死期は読めなかった。
卒業式の後、家に帰ったら布団の中で動かなくなってた。
そう言えば、死ぬ直前のババアの目。
希望を使い果たしたような、空っぽの目。
あれは死人の目だったのかもな。
これから死人になる人間の目。
最期の言葉は……もう忘れた。
困ってる人がいたら助けろ。
やると決めたらやり通せ。
その二つの教えは覚えているけど、こんな時代じゃお人よしなんてバカを見るだけだ。
遺産なんてもちろん一銭もない。
箪笥貯金が少しあったけど、葬式を上げたら底をついた。
お先真っ暗を辞書で引いたら、今の僕が出てくるはずだ。
そんな時だった。
今にも死にそうなくらいに気怠い僕の目を引いたのは、一人の少女だった。
制服姿──高校生か。
ホームの端に立ち尽くすその姿は、まるで幽霊のように不安げで、風にふらつくほど頼りなかった。
髪の毛にツヤがない。
頭がほんの少しだけ、不規則に揺れている。
視線が定まってないからだ。
貧血……?
いいや、違う。
変な薬でもやったか?
僕の不安を駆り立てるように、不吉な音色のチャイムが響いて、電車がホームに入ってくる。
少女の足元が覚束ない。
右手と右足が同時に出た。
彼女の目は──
ババアと同じ目。
──空っぽだ。
おいおい。
嘘だろ?
今から死ぬ人……。
いや少し違う。
今から死のうとしている人。
……なんて。
え、マジで?
まさか──
──「危ない!」
次の瞬間、彼女の身体がふらつき、レールへと傾いた。
咄嗟に腕を掴んだ僕も、その勢いで引きずられる。
あり得ない!
これが華奢な女子高生に出せる力か!?
必死で抱き寄せたのに、逆に抗えないほどの力に引っ張られて──
──困っている人がいたら助けろ。
瞬間、ババアの声が頭をよぎった。
──眩い光、一本の線のように迫るヘッドライトと甲高いブレーキ音。
僕と彼女を切り裂く白刃のような光芒。
夏の夕立を切り裂く雷鳴のような轟音。
なるほど。
実際は走馬灯とかってないんだ。
ババアの顔すら思い出さないや。
あっけなく。
本当にあっけなく、僕と彼女の身体は電車に飲み込まれた。
気がつくと、僕は薄暗い空間に寝転んでいた。
背中に伝う冷たい床の感触。
とりあえず、電車に轢かれたわけじゃないっぽい。
夢……?
夢というには、リアル過ぎる。
「……ここ、どこだ?」
声を漏らすと、隣から低い声がした。
「起きたか」
振り向くと、短髪の青年がいた。
歳は僕とほとんど変わらない、二十歳くらいだろうか。
灰色のノースリーブのパーカーに同じ色の短パン。
清潔感があって、どこか頼りがいのありそうな雰囲気だった。
「俺は一条。お前は?」
名前を聞かれ、言葉に詰まる。
知らない場所で知らない人間に自分の名前を口にするのって普通のことなのだろうか?
「……言いたくない」
一条は驚いた顔をしたが、すぐに笑って肩をすくめた。
「そうか。まあいいさ。ここに集められたのは、どうやらワケアリばかりらしいからな。かく言う俺もそうだし」
彼の言葉に、僕はあの女子高生を思い出す。
……いない。
彼女はここに来ていないのだろうか。
この場にいるのは10人だけ。
スウェットにクロックスを履いた女の子がいるが、さっきの女子高生とは違う。
彼女はキョロキョロと辺りを伺っている。
半数はまだ目を覚ましていない。
目を覚ましている人も、自分の置かれた状況に理解が追いついていないような表情だ。
一人だけ、メガネをかけたおじさんが直立不動の状態で立ち竦んでいる。
きっちりとシャツをズボンに入れていて、服にはシワひとつない。病的な完璧主義の現れ。
僕は一条に向き直って彼を観察する。
ガタイが良い。
指の付け根のタコはダンベルやベンチプレスで作ったもの。
ジム通い。
足に独特の日焼け跡。
脛のあたりにレガースの痕跡、サッカーだな。
「……あんた、サッカー選手?」
「いや、プロじゃない。だがよく分かったな、サッカーは大学でちょっとな」
そのやり取りの間に、他の人間たちも次々と目を覚まし始めた。
「なんだ、ここは……」
中年の男性が震え声で呟く。
量販店で買える安いスーツは皺だらけで、疲労の色が濃い。
革靴に目立つ汚れ、ネクタイは曲がりシャツの裾はズボンから出てる。
仕事が出来る人ではないし気が利く人でもない。
「私……死んだはずじゃ……薬で……」
小太りの中年女性が青ざめた顔で呟いた。
そこまで考えて、ふと背筋が冷える思いがした。
──死んだはず?
それは僕も同じだ……。
女子高生を助けようとして死んだ……はず。
この場の十人。
年齢も性別もバラバラだったが、全員に共通しているのは絶望的な表情だった。
そんな顔するなよ。
僕なんか全財産3千円、無職で家無しだぞ。
てか、あれ?
財布ないんだけど。
……落とした?
ものの数秒で全財産ゼロ、無職、家無しのオールゼロに回帰した。
僕の資産、服とスマホだけか。
さっきのが現実なら命すら怪しいぞ。
そのとき、澄んだ声が響いた。
「皆さま、ようこそ」
いつの間にか、痩せた男が立っていた。
漆黒のスーツにシルクハット。
場違いなほど上品な笑みを浮かべている。
まるで舞台上の役者のようだった。
ただ、この人から感じたのはそれだけ。
それだけだ。
この人、何だ?
誰しもが持つ動きの癖、服や目線から漂うその人の背景が見えてこない。
極限まで洗練されている反面、生の気配が全くない。
まるで何かが薄皮一枚で人間になりすましているような……。
「自殺者の皆さま、はじめまして。私、モルティスと申します。ここモルグにおけるコンシェルジュでございます」
自殺者……?
「……モルグ?」
誰かが漏らした呟きに、モルティスは優雅に頷いた。
「ええ、モルグ。生と死のあいだに設けられた街……いえ、舞台、とでも申しましょうか。皆さまが自ら命を投げ捨てた、その対価あるいは代償として辿り着く場所です」
ざわめきが走る。
自殺者の街、モルグ……?
「この街で生き残る限り、あなた方は再び生きることを許されます。逆を申せば、ここで朽ちれば──今度こそ終わり。救済も、次の幕もありません」
「私たちは死んでないってことですか……?」
初老の女性の震える声に、モルティスは首を横に振る。
「いえいえ、正確には皆さまは既に死んでおられます。ただし、ここは死と生の”狭間”。皆さまは死んでいながら生きている、と言った方が正確でしょうね。皆さまが捨てた残りの人生を、私どもが少々……活用させていただく、そういう場所です」
一人の男が血相を変えて叫んだ。
「ふざけるな! 何がもう一度だ! 勝手に生かすな! 俺は死にたかったんだ!」
まあ、確かにな。
自殺した連中に生き残れなんて、無茶な要求だ。
ここにいる人たちは理由はどうあれ『死ぬほど辛い思いをして、本当に死を選択した』人たちなのだから。
モルティスは困ったような表情を浮かべ、小さくため息をついた。
「それは残念です……。しかしながら、皆さまにもメリットはございますから、きっとご理解いただけるかと」
彼は一人納得したようにうなずいて、優雅に指を鳴らした。
「今回は特別に、デモンストレーションをさせていただきましょう。皆さまが理解しておくべきは、インプ、マルス、ジンの3つの要素です」
次の瞬間、霧の奥から何かが這い出てきた。
黒い、案山子のような何か。
人の形をしているが、顔には目も鼻もない。
ただ口だけが裂けるように開いている。
口、と言っても、まるで何かを吸い込むためだけに造られたような、雑な造形の真っ黒な穴だ。
「な、なんだ、これ……!」
男が後ずさる。
「これが《インプ》です」
モルティスは淡々と告げた。
「皆さま同様モルグの住人であり、皆さまのマルス……つまり資産を狙う捕食者です」
インプがゆっくりと男に近づく。
「や、やめろ! 来るな!」
男は逃げようとしたが、足がもつれて転んだ。
インプの腕──というより触手のようなそれが、男を捕らえてその身体に食い込む。
「ぎゃああああああっ!」
男の悲鳴、いや、絶叫。
そんなものはまるで聞こえないかのように、モルティスは柔かな笑みを浮かべながら手を叩く。
男の頭上に、数字が浮かび上がった。
《残りマルス:268,450》
「ご覧ください。本来、他者には見えませんが、こちらの数字がこの男性のマルスの残量です」
僕は思わず目を擦る。
男の頭上にはやはり、光る数字が表示されている。
案山子の化け物……インプが男の身体に触手をより深く食い込ませた。
「うぎゃあああああああ!」
《残りマルス:268,450→146,580》
数字が、見る見る減っていく。
《残りマルス:146,580→126,806》
「お分かりですか?」
モルティスの声が響く。
「インプが今まさにこの方から吸い取っているのが《マルス》。皆さまの命の残量であり、同時に通貨でもあります。ダメージを受ければ減り、もしマルスが尽きれば──」
《残りマルス:126,806→65,805》
「ぎゃああああああ!」
「──モルグからは追放となります」
《残りマルス:65,805→42,050》
「た、助けてくれ! 誰かあああ!」
男が叫ぶ。しかし誰も動けない。
「ですが、大丈夫です!」
モルティスは大仰に両手を広げる。
「我々は皆さまに何の備えもなくインプと戦えなどとは申しませんとも!」
モルティスは口まで裂けるような笑みを浮かべ、続ける。
「《ジン》をお使いください。皆さま一人ひとりに与えられた特殊な力です」
「じ、ジン! どうやって!」
男は苦しみながら、モルティスを縋るような表情で見る。
《残りマルス:42,050→25,600》
「スマホのアプリを起動なさってください。早くしないと破産してしまいますよ」
男は痛みと恐怖に震える手でスマホを取り出し、必死に画面を操作する。
《残りマルス:25,600→10,550》
「スマホだ! どうすればいい!? どうすれば──」
モルティスは邪悪な笑みを湛えたまま叫ぶ。
「ハッピーモルグのアプリを起動してください! 皆さまのスマホにはすでに、インストールされているはずです!」
「は、ハッピー!? ど、どこに……!」
《残りマルス:10,550→5,800》
「落ち着いてください。ハッピーモルグを起動し、ご自身のジンを発動するのです! インプに対抗するにはジンを使うのが最も効率が良いのですから!」
「な、ない! ないぞ! そんなアプリ!」
《残りマルス:5,800→1,550》
モルティスは笑顔を引っ込め、怪訝そうな顔をした。
「おっと……これは失礼──」
モルティスが優雅に一礼した。
顔を上げたモルティスの顔に、下卑た笑みが貼り付いている。
「ぎやあああああああ!」
男の断末魔が響く。
《残りマルス:5,800→0》
男の身体が、淡い光の粒子となって霧散し、インプの口に吸い込まれた。
場が静まり返る。
インプは男を光に変えると、満足そうに身体を震わせ霧の中へと消えていった。
モルティスは男が消滅したのを確認するように、一拍置いて淡々と言い放った。
「──アプリのインストールはまだでした」
モルティスは何事もなかったかのように言った。
スウェットの女の子が声にならない悲鳴を上げ、フードを目深に被った男は嘔吐した。
初老の女性が震えながら「嘘よ……嘘よ……」と呟いている。
女子大生くらいの女性は青ざめて、へたり込んだ。
一条だけが、目の前の凄惨な光景に立ち向かうように、じっと前を見据えている。
モルティスは悪びれることなく咳払いをして続ける。
「つまり、インプはこのようにマルスを求めて皆さまを襲って来ます。それをジンという特殊能力で討伐するのです。減らされたマルスはインプを攻撃すれば、逆に彼らから奪えるでしょう」
皮肉めいた笑みは、闇より冷たかった。
「最初にお断りしておきますが、命を捨てたのはあなた方自身。その命を拾い、どう使うかは──わたくしたちの裁量でございます」
モルティスは微塵も悪びれない。
「油断すれば先ほどの男性のように一瞬で全財産を失い、死に至る。ただし──」
モルティスの目が鋭く光った。
「──モルグで稼いだマルスは現実世界に持ち帰り、現実の通貨としてご利用いただける。命を切り売りして得る報酬、とお考えください」
「借金を……返せるかもしれない……?」
「うちの子に……お金を……」
希望と絶望が入り交じった声が響く。
モルティスは恭しくお辞儀をした。
「我々は皆さまに幸せになって欲しいのです。現実世界で死ぬほど辛く惨めな思いをした皆さまに」
その顔に哀れみがある。
取ってつけたような慈悲、そんな表情。
「莫大な資産、社会的地位、好きな異性の好意、なんだって買えます。マルスという通貨で買えるものに、際限はありません。皆さまの持つ現実での願いなど、そのほとんどが叶えられるでしょう」
サラリーマン風の男が乾いた笑いを漏らした。
「まるでゲームみたいだな」
「ゲーム、ですか」
モルティスの笑みが深まる。
「似ているかもしれませんね。ただし──コンティニューもセーブデータもございません。それが現実との、致命的な違いでしょう」
彼は言葉を続ける。
「そして肝心の《ジン》。皆さま一人ひとりに与えられた特殊な力です。戦闘や探索の際にお役立てください。詳細は──各自でご確認ください」
モルティスが指を鳴らすと、全員のポケットから一斉に通知音が響いた。
スマホの画面には、可愛らしいヤギのアイコンが現れている。
アプリ名は《ハッピーモルグ》。
「このアプリでご自身のジンを確認できます。ご安心を──利用規約を読む必要はありませんし、月額料金も目障りな広告もございません。なにしろ死者向けのサービスですので」
モルティスが軽やかに笑う。
半信半疑で人々はスマホを操作し始めた。
サラリーマンは「鉄の……箱……?」と呟き、初老のおばさんは「グラディウス……? 何かしら、私のは何かの剣みたいだけれど……」なんて言っている。
戸惑いと期待が入り交じる中、一条は小さく呟いた。
「グラキエス・スパティウム……? 氷の能力と書いてあるが……」
僕も震える手でヤギのアイコンをタップする。
真っ赤な画面に、大きな黒い文字が躍っている。
一瞬、意味がわからなかった。
一条が心配そうに覗き込む。
「どうした? なんて表示されてる?」
僕はただ、スマホを握りしめて固まるしかなかった。
他の人たちは次々と自分のジンを確認し、希望と不安の入り交じった表情を浮かべている。
しかし僕の画面だけが、この意味不明な文字列を表示し続けていた。
これは……何の能力なんだ。
めちゃくちゃ弱そうなことは分かるが……。
これが夢だとしても気になり過ぎるだろ。
僕のスマホには『最強無敵のあたし様! 華麗に登場!』と、それだけが書いてあった。
氷や剣の隣にコレ?
絶対ハズレじゃん。
そう思った次の瞬間、僕のスマホの画面から光の粒子が漏れた。
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