第26話 覚醒
全長十メートルくらいのバケモノとなったハルちゃんが、「ヒューヒュー」とそよ風のような鳴き声を発した。
植えた肉食獣のように牙を剥いて、大量のよだれを地面に垂らす。
変わり果てたハルちゃんを見上げて、私はその場に呆然と立ち尽くした。
現実を受け止めきれなくて、頭が真っ白になる。
ハルちゃんは充血した赤い目で遠方の景色を見据えると、四つの足で地面を削り取りながら移動を始めた。
末期症状へと至ったエボルシッカーは、無差別に人を襲うようになる。
ハルちゃんは獲物である人々の居る場所を探し求めて、本能のままに動きだしたのだ。
土埃で姿が見えなかったのか、幸い私はハルちゃんに襲われなかった。
今私達がいる場所は第四地区と第五地区の中継地点。
外に人が出歩くことのない第五地区と違って、第四地区や隣町の第六地区は人が密集している。
どうやらハルちゃんは、そこにいる人々を襲おうとしているみたいだった。
「だめ、だめだよ、ハルちゃん。人を襲っちゃ……だめっ」
私が手を伸ばして必死に叫んでも、バケモノとなったハルちゃんの耳には届かなかった。
四つの足を駆使して高速で移動し、赤黒い背中が私のそばから離れていく。
涙で視界がぼやけているせいか、段々とハルちゃんの姿が二つに分かれて見えてきた。
目を擦ってもう一度その姿を視認するも、やはりハルちゃんの姿が分かれて見える。
それどころか二つに見えたハルちゃんの姿が、今度は三つに分かれて見えた。
四つ、五つとさらにその数が増えてきて、私は気付く。
これは恐らく、ハルちゃんの能力だ。
能力の名前は〈分身〉といったところだろうか。
ハルちゃんは能力を使って自分の分身を作り上げ、一気に人を襲うつもりなんだ。
このままじゃ、収容所にいるたくさんの人が命を落とす。どうにかしてハルちゃんを止めなくちゃいけない。
今、末期症状へと至ったハルちゃんの存在を目撃しているのは私一人だけ。
私だけが現状、ハルちゃんをどうにかできる。
でも非力な私が無謀に立ち向かったところで、返り討ちに遭って殺されるだけだ。
私ではハルちゃんを止めることなんかできない。
此処で何もせずじっとしているのが安全だ。
ハルちゃんはきっと、
彼らが駆けつけるまで多少の犠牲は出るだろうけど、仕方のないことだ。
私が立ち向かっても犠牲が一人増えるだけ。
私は何もしなくていい。分かってる。分かってるはずなのに……。
その時の私は、最適解とは真反対の行動を取っていた。
遠ざかっていくハルちゃんの後ろ姿に手を伸ばして、必死に追いかける。
埋まることのないハルちゃんとの距離を少しでも縮めようと、全身を使ってひた走った。
やらなきゃ、やらなきゃ、殺さなきゃ。
私が、殺さなきゃ。ハルちゃんに人を殺させちゃいけない。
お姉ちゃんの私が止めるんだ。私がハルちゃんを、殺すんだ。
そう決意して、私はひた走った。
力も、知恵もない。あんなバケモノに敵うはずないと頭では分かっているのに、体が勝手に動いていた。
だけど四足歩行の巨体に追いつけるはずもなく、あっという間に距離を離されてしまい、やがて後ろ姿すら見えなくなくなる。
「待って!」
悪あがきで叫び、離れていくハルちゃんに手を伸ばした、その時だった。
私の左半身が、真っ白に染まり始めた。
それは、異形化とは少し違う。
私の異形化は脇腹にかけて皮膚が青白く変色するものだ。
今私の身に起きている現象は、そんなものと比べ物にならない異次元な何かだった。
私は真っ白な光を左半身に纏い、体中から信じられないくらいの力をみなぎらせていった。
地面を駆け抜ける速度が増していき、ハルちゃんとの距離を急激に縮めていく。
体が軽い。地面を蹴ると、私の体は宙を舞い、十メートルの巨体の背中を見下ろせるくらいに飛び上がっていた。
棘のある赤黒い背中を見下ろして、私は体中にみなぎる力の正体を知覚する。
私は今、能力に目覚めたんだ。
この白い光は、私の能力が生み出したものなんだろう。
どうしてこのタイミングで目覚めたんだろうか。
いや、考えるのは後にしよう。今は他に、やるべきことがある。
私はハルちゃんの赤黒い背中の上に飛び移ると、引き剥がされないよう背中に生えた棘を掴んだ。
流石に私の存在に気付いたのか、ハルちゃんは私を振り払おうと体を揺らして暴れ回り始めた。
周りにある建物に背中から向かって突撃し、私を圧死させようとしてくる。
私は真っ白な光を纏う左手の先から、一本の刀を生み出した。
これが、私の能力。さっき目醒めたばかりだから使い方なんて分からないはずなのに、私は本能的に行使することができた。
それは、実体のない刀だった。真っ白な光から生み出された、鞘のない刀。
その刀の形状は心なしか、ミナトが持っている刀とよく似ていた。
頭がふわふわする。気分が心地良い。今なら、なんでもできる気がする。
私は左手に持った刀を、ハルちゃんの背中に突き刺した。
実体のない刀は血を一滴も流させることなく、ハルちゃんの体の奥深くへと潜っていく。
そして私は、ミナトの真似をしてこう唱えた。
「〈
その時、刀に刺されたハルちゃんの体が真っ白に染まった。
※ ※ ※
同時刻。
矢田食堂から帰ってきてキクリの手作り飯を貪っていたコウヘイは、外から妙な物音を聞き付けて外の様子を窺った。
するといきなり、目の前が真っ白な光に覆われる。
「なんだ、こりゃあ」
真っ白に染まった収容所の景色を眺めて、コウヘイは驚嘆の声をあげた。
耳にかけたボロボロのサングラスを外して、直接その光景を目に収める。
それは収容所中を照らしてしまうほどの光であったが、不思議とあまり眩しくなくて目に優しかった。
「コウヘイ、大変!」
幻想的な白い光に魅入っていたコウヘイの元に、キクリが張り詰めた顔をして駆け寄ってくる。
「町中で大量の末期症状者が暴れてる!」
「なんだって?」
歓迎されない報告を聞いて、コウヘイは口元を歪めた。
「“能力”で捉えたから間違いないわ。というか、この白いの何?」
「知らねえよ。末期症状者の能力じゃねえのか。害はねえみたいだけどよ」
「ミルカの能力だよ」
困惑しているコウヘイとキクリのそばにミナトが現れて、そう語る。
「どうして分かるんだ?」
「なんとなくだよ。そんな気がする」
ミナトは周囲を舞う光の粒に手で触れて、確信めいた表情を浮かべた。
「今町中で暴れているのはミルカの妹だ。だからきっと、ミルカも近くにいるんじゃないかな」
「妹ぉ? アイツ妹いたのかよ。つか何人妹いるんだよ。しかも同時に末期症状になるなんてどんな奇跡だ?」
「妹は一人だけだよ。同時に複数体暴れてるのは妹の能力のせいだ。俺はミルカの妹とは前から知り合いだから、彼女の能力についてもよく知ってる。能力は〈分身〉。末期症状になった妹が……ハルカちゃんが無限に分身を作って多方面で暴れ回ってるんだよ」
「そいつは脅威的な能力だな。早く止めねえと。キクリ、緊急事態だ!」
「それさっきアタシが言ったよね!?」
頬を膨らませて怒りを露わにしながら、キクリはコウヘイ達よりも一歩前へと出た。
「ああムカつく。アタシまだアイツに何も相談してもらってないんだけど。これが終わったら絶対に聞き出してやるんだから!」
キクリは最近会えていない雑用係の顔を思い浮かべながら、地面に手を添える。
目を閉じて息を整えながら、唱えた。
「〈
キクリの能力、〈
生物や物体の位置、熱の探知や人の呼吸などの些細な動きに至るまで、ありとあらゆるものを認識する。
その効果範囲は、本気を出すと半径五キロ以上は捉えることができる。
キクリは能力を使い終えると、目を開けてコウヘイ達の方に向き直った。
「分身体は全部で二十二。今もどんどん増え続けてる」
「位置は?」
「十体くらいが此処から西側の第四地区、花の庭園あたり。他の十二体が第六地区の繫華街あたりで暴れてる。大体二、三体で群れになって行動してるし、図体がでかいから行けばすぐに分かると思う」
「分身じゃなく本体がどこにいるか分かる?」
「一体だけ体温が高くて、周りより足の速い奴がいた。それが本体かも。第五地区と第四地区にいる。多分だけど、近くにアイツ……ミルカもいる」
「……そうか。なら、邪魔しない方がいいかな。俺は第六地区の分身を相手にするよ。俺より動き回れるコウヘイはキクリを連れて第四地区付近を頼む。分身が増えたらその位置を特定して向かってくれ」
「「了解」」
コウヘイはキクリを抱えて第四地区へと、ミナトは単騎で第六地区の繁華街へと。
各々の仕事を果たすべく、
※ ※ ※
私の刀に刺された分身体のハルちゃんが、真っ白な光に包まれながら地に伏せた。
塵となって消失する姿を見届けていると、背後から別の分身体が二体同時に襲いかかってくる。
私は刀を振るい、刀身から白い光の斬撃を放った。二体の分身体にそれが直撃し、塵となって消失する。
その後も絶え間なく分身体のハルちゃんが襲いかかってきて、そのたびに私は刀で薙ぎ払っていった。
どの分身体も一撃で消えていくけれど、無尽蔵に湧いてくるからキリがない。
分身体はハルちゃん本体から生み出されているようで、分身体からは分身体が生まれないようだった。
この戦いを終わらせるには、本体のハルちゃんを倒さなければいけない。
じゃないと永遠に分身の相手をする羽目になる。
私は軽く地面を跳躍して数キロ先の景色を見下ろせるくらいにまで飛び上がると、本体がどこにいるか隈なく探してみる。
分身は私の近くだけじゃなく、幾つか群れを成して他の町や人にも襲いかかっていた。
大体二、三体くらいで固まって行動している中で唯一、十五体以上の分身を引き連れている集団を見つける。
その先頭にいる個体は他の分身よりも俊敏な動きをしていて、群れを引き連れて収容所の町を破壊していた。
その個体から新しい分身が生み出された瞬間を目撃した私は、即座にその群れに攻撃を仕掛けようとした。
すると、地上にいた分身達が四方から私に飛びかかってくる。
「〈
私は刀を振りかざして分身達を一撃で薙ぎ払うと、すぐさま本体を追いかけた。
刃先が本体に届く距離まで近付くと、もう一度刀を振るう。
だがその時、右斜め後方から一体の分身が現れて、私の体に突撃してきた。
どうやらさっきの攻撃で討ち漏らした分身がいたみたいだ。
分身の赤黒い頑強な顎が、私の背中めがけて迫ってくる。
私は腰を思いきり捻って回転すると、間一髪のところで分身の攻撃を避けた。
そのままの勢いで刀を振り、迫り来る分身の顔面を切り裂く。
一撃で呆気なく消失する分身の頭部を踏み台にして空中を飛び上がると、私は再び本体を追いかけた。
左半身に纏った真っ白な光を撒き散らしながら空を駆けて、地上にいる本体を一点狙いしようとする。
しかしその時、一気に十体くらいの分身が四方から襲いかかってきて、私の攻撃を阻んできた。
「邪魔っ」
いくら薙ぎ払っても懲りずに襲ってくる分身達。
本体が目前にいるのに、私の生み出した真っ白な光は分身達に邪魔されて届かない。
これ以上戦いが長引くのはまずい。
町の建物は破壊されていく一方だし、そこにいた人達にも被害が及んでいる。
このままじゃ、死者が出かねない。
それだけは駄目だ。絶対にあっちゃいけない。妹を、ハルちゃんを、人殺しにさせちゃいけない。
私が止めなきゃ。私が、殺さなきゃいけないんだ。
意識を集中させ、呼吸を整える。
両手で刀の柄を力強く握り、バケモノとなったハルちゃんめがけて振り下ろした。
そして、こう唱える。
「〈
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