第5話
『18:30、うちね』
さっきスマホに届いたその一行を、俺はたぶん三十回は見返した。
行くに決まってるのに「了解」の二文字を送信するまでに三分くらい掛かったのは、秘密にしておこう。
◇
時計が、18時27分を指した。
「……もう行ってもいいよな」
小さく呟いて立ち上がる。
鏡の前で前髪をいじってみるけど、すぐやめた。
日陰の死んだ魚が今さらセットとか、うけるだろ。
制服のまま、ドアを開けて一歩外に出た。
反射的に、隣の家の二階を見上げてしまった。
白いカーテンの向こうに、淡いオレンジ色の灯りがにじんでいる。
その程度のこと。
それだけなのに。
なんで俺は、少し喜んでいるんだろうか。
◇
――ピンポーン。
押した瞬間、内側から鍵の回る音が聞こえた。
扉が開いて、顔を出したのは――
「やほ」
制服姿の葵川波留だった。
いつもと同じブレザーだけど、ネクタイは少し緩めで、髪も学校にいるときよりふわっとして見える。
「やっ……す」
「なに『やっす』って?」と波留が呆れた顔で笑う。
「今のは忘れてください」
思わず、視線を逸らしてしまった。
「あれ、今日、おじさんは?」
「工場。今日は遅くなるって。昨日は運が良かったのかもね」
「ふーん」
ん、ということは、今日は完全に二人きりってことだよな。
え、マジで?
「どうぞ」
手招きされて玄関に上がると、靴箱の上に立てかけられた古い写真が、ちらっと目に入った。真ん中で笑ってピースしている小さい頃の波留。その横で笑う進さんと、波留のお母さん。
「なに?」
波留が首をかしげる。
「あ、いや……なんでもない」
そう言って、写真から視線を外した。
◇
「どうぞ」
カチャ、とドアノブを回して開けると、昨日とほぼ部屋の景色が広がった。
ローテーブルの上には『アオ春サイダー』が、きっちり一本だけ置かれている。
「疲れたー……」
そう言って、波留がベッドにばふっと倒れ込んだ。
制服のスカートの裾がふわっと浮いて、白い太ももがチラリ。
二秒くらい眺めたあと、少し前かがみになって昨日座ったほうの座布団まで歩く。
腰を下ろすと、背中のあたりにベッドの縁の硬い感触が伝った。
後ろから「すー……」という波留の息遣いが聞こえてきて、さっきの太ももが脳内再生――
って違う違う、何かちょうどいい話題。
『プリどうだったの?』
……ナシだな。プリクラの話出す男子ってどうなんだ。てか、もしこの話題になったらそれはそれで困るのは俺だ。
『どこで俺の連絡先を?』
もっとナシだろ。……だがまあ、気になるっちゃ気になる。
サイダーを見つめながら、沈黙と脳内シミュレーションを続けていた、その時。
「……っと」
視界の端、右肩のすぐ上辺りから、白い腕がすっと伸びた。
――は?
そのあとすぐ、俺の頬をさらりとした黒髪が掠った。
柑橘っぽいシャンプーの匂いが、ふわっと鼻先をくすぐる。
その腕がサイダーをつかんで、またすぐ後ろに戻っていった。
冷えたペットボトルの水滴が、一滴だけ肩に落ちた。
――プシュッ。
すぐ背中の向こうで、キャップをひねる音。
ゴク、ゴクと喉を鳴らす音が、背骨に響いてくる。
「はい、どーぞ」という声と共に、視界の端からペットボトルが差し出された。
振り返ると、波留がベッドに座り直して、足を投げ出しながら俺を見下ろしていた。
「四谷?」
――え?
「いや。えっ、てなにが?」
どうやら声に出ていたらしい。
「サイダー。飲まないの?」
サイダー?
「あ、えぇ、あ、なるほど、サイダーね。あ、ありがとうございます」
サイダーを受け取るとき、ほんの一瞬、指先が触れて「うぉっ」なんて間抜けな声が飛び出た。
両手で持って飲み口を眺める。
いや、見るな見るな。
見ていると余計なものばかり頭に浮かんでくる。
波留の唇とか、さっきの腕とか、太ももとか。
視線を逸らして、その辺の棚に置かれたコスメを見る。
そのまま、一口。ゴクリ。それで、ようやく変な気持ちが落ち着いてきた気がする。
「ねえ」
ペットボトルをテーブルに戻しかけたとき、波留がぽつりと言った。
「昨日さ、『友達なら普通』って言ったの覚えてる?」
「……言ったっけ?」
「は? なに誤魔化してんの。覚えてるくせに」
「――ゴホッ」っと少しむせた俺を見て、波留がくすっと笑った。
覚えてるに決まってる。
ただ、素直に「覚えてる」って白状するのは、なんか負けた気がしただけ。
「……で、今日も普通なの?」
「普通って?」
「これ」
波留が、俺の手の中のサイダーを顎でちょんと指した。
「こうやって飲むの。友達なら、普通なのかって?」
さっきより、少しだけ真面目な声。
「……まあ。友達なら、普通なんじゃないの」
少し間を置いてそう答えると、「ふーん」と気の抜けた返事が返ってきた。
「普通、なんだ」
「普通、なんだろ。昨日そっちが言ったんじゃなかったっけ?」
「まあ、そうだね」
なんて言い合いながら、波留の声はどこか楽しそうに聞こえた。
――今なら……聞ける気がする。
「そういえばさ」
「ん? なに」
「あ、いや。どうやって俺の連絡先、知ったのかなって」
「え?」という声と共に、波留のまつげがぴくっと揺れた気がした。
「いや、だってID交換してないよな。 ……俺たち」
自分で言っておいてなんだが、少し意地悪な質問だったかも。
なんて思っていると、少し低い声で「……そういうこと、普通、女子に聞く?」と、ジトっとした目で言われた。
「わるい。純粋に疑問に思っただけで」
「はぁ……」と小さく溜息をついてから、波留が続ける。
「クラスのグループ」
「グループ?」
「四谷も入ってるよね。入学式の日、誰かが作ったやつ」
ああ、あれか。
入学初日、たまたま隣だった男子に「クラスのグルチャ入れるから」と言われて、QRコードを読み込まされたやつ。そのあと通知がうるさすぎて、速攻でミュート&非表示にしたっけ。
「そこから追加しただけ」
波留がクッションの角を指でいじりながら、小さめの声で続けた。
「直接『ID教えて』って言うの、ちょっとね」
「まあ、俺には一生無理だけど」
「知ってる」
即答された。
「だって、高校までずっと一緒の学校だったんだよ? ……今さら『教えて』とか、言えないって」
……まあ、それもそうだな。
「意外と、そういうとこあるんだな」
「どゆこと」
「いや、なんでもないです」
「すぐ誤魔化す」
文句を言いながらも、声も顔もちゃんと笑ってる。
「まあ、その……ありがと、ございます的な、アレだよ」
「え?なんて?」と波留の碧い目がニヤっと細くなる。
「なんでもない」
「二回目、それ禁止」
「はぁ」と小さく息を漏らし、観念して答える。
「……友達の追加、普通に嬉しかったから」
自分で言った「友達」という言葉がなんか恥ずかしい。
一拍おいてから波留が「ふーん」といった。
ぽつりと落ちたその言葉は、少しだけ温かく聞こえた。
「だって友達でしょ、私たち」
そう言って、波留は俺の手からサイダーを奪って一口飲む。
ペットボトルの中は、もう、きっちり半分くらい減っていた。
たぶん、昨日より。
俺と波留の距離は、ほんの少しだけ近づいた気がした。
サイダーの一口分くらい。
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