第5話

『18:30、うちね』


 さっきスマホに届いたその一行を、俺はたぶん三十回は見返した。

 行くに決まってるのに「了解」の二文字を送信するまでに三分くらい掛かったのは、秘密にしておこう。



 時計が、18時27分を指した。


「……もう行ってもいいよな」


 小さく呟いて立ち上がる。

 鏡の前で前髪をいじってみるけど、すぐやめた。


 日陰の死んだ魚が今さらセットとか、うけるだろ。


 制服のまま、ドアを開けて一歩外に出た。


 反射的に、隣の家の二階を見上げてしまった。

 白いカーテンの向こうに、淡いオレンジ色の灯りがにじんでいる。

 その程度のこと。

 それだけなのに。


 なんで俺は、少し喜んでいるんだろうか。



 ――ピンポーン。


 押した瞬間、内側から鍵の回る音が聞こえた。

 扉が開いて、顔を出したのは――


「やほ」


 制服姿の葵川波留だった。

 いつもと同じブレザーだけど、ネクタイは少し緩めで、髪も学校にいるときよりふわっとして見える。


「やっ……す」


「なに『やっす』って?」と波留が呆れた顔で笑う。


「今のは忘れてください」


 思わず、視線を逸らしてしまった。


「あれ、今日、おじさんは?」

「工場。今日は遅くなるって。昨日は運が良かったのかもね」

「ふーん」


 ん、ということは、今日は完全に二人きりってことだよな。

 え、マジで?


「どうぞ」


 手招きされて玄関に上がると、靴箱の上に立てかけられた古い写真が、ちらっと目に入った。真ん中で笑ってピースしている小さい頃の波留。その横で笑う進さんと、波留のお母さん。


「なに?」


 波留が首をかしげる。


「あ、いや……なんでもない」


 そう言って、写真から視線を外した。



「どうぞ」


 カチャ、とドアノブを回して開けると、昨日とほぼ部屋の景色が広がった。

 ローテーブルの上には『アオ春サイダー』が、きっちり一本だけ置かれている。


「疲れたー……」


 そう言って、波留がベッドにばふっと倒れ込んだ。

 制服のスカートの裾がふわっと浮いて、白い太ももがチラリ。

 

 二秒くらい眺めたあと、少し前かがみになって昨日座ったほうの座布団まで歩く。

 腰を下ろすと、背中のあたりにベッドの縁の硬い感触が伝った。

 後ろから「すー……」という波留の息遣いが聞こえてきて、さっきの太ももが脳内再生――


 って違う違う、何かちょうどいい話題。


『プリどうだったの?』

 ……ナシだな。プリクラの話出す男子ってどうなんだ。てか、もしこの話題になったらそれはそれで困るのは俺だ。


『どこで俺の連絡先を?』

 もっとナシだろ。……だがまあ、気になるっちゃ気になる。


 サイダーを見つめながら、沈黙と脳内シミュレーションを続けていた、その時。


「……っと」


 視界の端、右肩のすぐ上辺りから、白い腕がすっと伸びた。

 

 ――は?


 そのあとすぐ、俺の頬をさらりとした黒髪が掠った。

 柑橘っぽいシャンプーの匂いが、ふわっと鼻先をくすぐる。


 その腕がサイダーをつかんで、またすぐ後ろに戻っていった。

 冷えたペットボトルの水滴が、一滴だけ肩に落ちた。


 ――プシュッ。


 すぐ背中の向こうで、キャップをひねる音。

 ゴク、ゴクと喉を鳴らす音が、背骨に響いてくる。


 「はい、どーぞ」という声と共に、視界の端からペットボトルが差し出された。

 振り返ると、波留がベッドに座り直して、足を投げ出しながら俺を見下ろしていた。



「四谷?」



――え?


「いや。えっ、てなにが?」


どうやら声に出ていたらしい。


「サイダー。飲まないの?」


 サイダー?


「あ、えぇ、あ、なるほど、サイダーね。あ、ありがとうございます」


 サイダーを受け取るとき、ほんの一瞬、指先が触れて「うぉっ」なんて間抜けな声が飛び出た。


 両手で持って飲み口を眺める。


 いや、見るな見るな。


 見ていると余計なものばかり頭に浮かんでくる。

 波留の唇とか、さっきの腕とか、太ももとか。


 視線を逸らして、その辺の棚に置かれたコスメを見る。

 そのまま、一口。ゴクリ。それで、ようやく変な気持ちが落ち着いてきた気がする。


「ねえ」


 ペットボトルをテーブルに戻しかけたとき、波留がぽつりと言った。


「昨日さ、『友達なら普通』って言ったの覚えてる?」

「……言ったっけ?」

「は? なに誤魔化してんの。覚えてるくせに」


 「――ゴホッ」っと少しむせた俺を見て、波留がくすっと笑った。


 覚えてるに決まってる。

 ただ、素直に「覚えてる」って白状するのは、なんか負けた気がしただけ。


「……で、今日も普通なの?」

「普通って?」

「これ」


 波留が、俺の手の中のサイダーを顎でちょんと指した。


「こうやって飲むの。友達なら、普通なのかって?」


 さっきより、少しだけ真面目な声。


「……まあ。友達なら、普通なんじゃないの」


 少し間を置いてそう答えると、「ふーん」と気の抜けた返事が返ってきた。


「普通、なんだ」

「普通、なんだろ。昨日そっちが言ったんじゃなかったっけ?」

「まあ、そうだね」


 なんて言い合いながら、波留の声はどこか楽しそうに聞こえた。


 ――今なら……聞ける気がする。


「そういえばさ」

「ん? なに」

「あ、いや。どうやって俺の連絡先、知ったのかなって」


 「え?」という声と共に、波留のまつげがぴくっと揺れた気がした。


「いや、だってID交換してないよな。 ……俺たち」


 自分で言っておいてなんだが、少し意地悪な質問だったかも。


 なんて思っていると、少し低い声で「……そういうこと、普通、女子に聞く?」と、ジトっとした目で言われた。


「わるい。純粋に疑問に思っただけで」


「はぁ……」と小さく溜息をついてから、波留が続ける。


「クラスのグループ」

「グループ?」

「四谷も入ってるよね。入学式の日、誰かが作ったやつ」


 ああ、あれか。

 入学初日、たまたま隣だった男子に「クラスのグルチャ入れるから」と言われて、QRコードを読み込まされたやつ。そのあと通知がうるさすぎて、速攻でミュート&非表示にしたっけ。


「そこから追加しただけ」


 波留がクッションの角を指でいじりながら、小さめの声で続けた。


「直接『ID教えて』って言うの、ちょっとね」

「まあ、俺には一生無理だけど」

「知ってる」


 即答された。


「だって、高校までずっと一緒の学校だったんだよ? ……今さら『教えて』とか、言えないって」


 ……まあ、それもそうだな。


「意外と、そういうとこあるんだな」

「どゆこと」

「いや、なんでもないです」

「すぐ誤魔化す」


 文句を言いながらも、声も顔もちゃんと笑ってる。


「まあ、その……ありがと、ございます的な、アレだよ」


「え?なんて?」と波留の碧い目がニヤっと細くなる。


「なんでもない」

「二回目、それ禁止」


「はぁ」と小さく息を漏らし、観念して答える。


「……友達の追加、普通に嬉しかったから」


 自分で言った「友達」という言葉がなんか恥ずかしい。


 一拍おいてから波留が「ふーん」といった。

 ぽつりと落ちたその言葉は、少しだけ温かく聞こえた。


「だって友達でしょ、私たち」


 そう言って、波留は俺の手からサイダーを奪って一口飲む。

 ペットボトルの中は、もう、きっちり半分くらい減っていた。


 たぶん、昨日より。

 俺と波留の距離は、ほんの少しだけ近づいた気がした。


 サイダーの一口分くらい。

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