第一部
第1章:すべてが消えたあとで
~(記憶がゼロになっても、世界は優しくなんてしない。)~
完全な記憶喪失で一番辛いのは、自分が誰だったかを忘れることではない。自分の名前、両親の顔、家の匂い——それらは確かに痛いが、まだ言葉にできる。本当に壊れるのは、世界を理解するための「言葉」を失うことだ。スプーンの使い方。人が笑う理由。「学校」の意味。全てが謎のパズルになる。そして今日が、和泉にとっての、まったく新しい世界の最初の朝だった——太陽に照らされた一粒の塵から始まり、なぜだか胸を刺す一つの名前で終わる朝。
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暗黒。
ゆっくり…とてつもなくゆっくりと…
『約束を忘れないで…』
囁きか、あるいはただの風か——暗闇をかすめた何かが消えていく。
闇はぼんやりとした天井の輪郭へと変わった。イズミの瞼が震え、ついに開かれる。朝日の光がこぼれ込み、白く褪せた壁に影を落とす。
「…?」
ゆっくりと起き上がり、ベッドの端に腰かける。胸の中に、理解できない何かが詰まっている。手の平を見つめる。
「これは…?」彼は呟いた。
空虚。
温かみがない。
ただ、痛いほどにはっきりとした静寂があるだけ。
突然——
トン、トン、トン。
扉をノックする音に、彼は少し体を震わせた。
「…イズミ…」
女性の声が遠くから聞こえ、扉がゆっくりと開く。
黒髪の女性が入ってきて、薄く微笑む。
「イズミ…起きたのね」
イズミはただ純粋に彼女を見つめる。
目の前に立つ人物が誰なのか、認識できない。
女性が近づき、イズミの顔を見て少し立ち止まる。
「…あなた…泣いてるわ」
イズミは驚き、慌てて指先で頬を拭う。
濡れている。いつからそこにあったのか。
女性はほっとしたように小さく微笑む。
「心配したよ。昨日、本屋で倒れたんでしょ?カオリが連れて帰ってきてくれたんだ。ずっと起きなくて…本当に心配した」
「本屋…?カオリ…?」その言葉は空中に漂い、虚ろだ。
「イズミ…」女性は優しく彼を見つめる。
「もし学校に行けるなら、行きなさい。でも無理はしないでね」
「学校…?」
女性はまた薄く微笑み、そっと扉を閉めて出ていく。
部屋は再び静けさに包まれる。
イズミはベッドの端に長い間座り、心の中にはただ一つの言葉が渦巻いている——
「ここは…どこ…?」
「これは全て…何のために…?」
答えはない。
ただ静寂だけ。
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彼がしばらく石化したように動かなくなった後、本能が動き始める。ゆっくりとベッドから降り、ドアの方へゆっくりと歩き始める。ドアを開けると、奇妙な香りがする。でもそれが何かわからない。
興味を引かれ、イズミはゆっくりと階段を下りる。そこには、先程の女性——母親が——紅茶を注ぎながら微笑んでいる。男性——父親が——新聞をたたんでいる。
温かいご飯が一皿、彼の前に置かれる。「あなたの大好物よ」イズミはうなずき、親しみのない味のご飯を一口。一方、二人の大人はイズミには理解できない言葉で話している。その言葉は虚ろな反響のようで、まるで本当にそこにいないような気がする。
自分の皿の食事が終わると、彼は女性が皿を流しに持っていくのを横目で見る。イズミは一言も発せずに彼女の後について行く。
しかし突然、女性が再び話し始める。
「イズミ、もし気分が良くなったなら、早く学校の準備をした方がいいわ」
「でも、もしまだ気分が悪いなら、家で休んでいてもいいのよ」
何と答えればいいかわからない。学校に行くのは、自分がすべきことのように聞こえる。結局、彼はためらいながらうなずく。「僕…行きます」
しかし、奇妙な感覚が腹を襲う。その感覚は強まり、彼を落ち着かなくさせる。そしてついに彼は気づく。
トイレに行きたい。
イズミはまだ部屋の中央に立っている。左右を見回し、家の廊下が迷路のように感じられる。
「イズミ、なんでまだそこにいるの?」
「あの…ここから出たい」彼の声は小さく、ズボンを握っている。
女性は小さく笑い、イズミの奇妙さに気づく。「トイレに行きたいの?あらまあ、裏よ、左側。そんなに緊張しないで、坊や」
イズミはうなずき、示された方向に歩く。小さな部屋には見慣れない道具が並んでいる。
用を足し終えると、彼はシャワーの前に立ち尽くす。水道の蛇口を疑わしげに見つめ、右手が壁のつまみへと自然に向かう。ゆっくりと回す。冷たい水が突然体にかかり、彼は少し跳び上がる。
終わるのにいつもより時間がかかる。
部屋に戻り、クローゼットに準備された服を一つずつ着始める。でもどのステップも間違っているように感じる。ボタンは不揃いで、ネクタイは斜めだ。
彼が諦めかけている時、ドアが少し開き、母親が顔を覗かせる。イズミの服の状態を見て、女性は小さく笑い出す。「あらまあ、どうしたの?普段はこんなことないのに」
「まだ少し眩暈がするのかもしれないね。大丈夫、こっちにおいで、お母さんが手伝うから」
イズミはゆっくりとうなずき、女性に制服を整えてもらう。「ほら、きちんと見えるわ。さあ、カバンを持って出かけなさい」
家を出ようとする時、母親がまた呼ぶ。「イズミ!何か忘れてるよ!」
彼は困惑して振り返る。「何を忘れたの?」
「靴よ、坊や」母親は彼のまだ裸足の足を指さす。
イズミは下を見て自分の間違いに気づく。急いでドア近くの靴を探し、見つけるとぎこちなく履く。母親は少し不思議そうにしながらも、優しく微笑む。
ようやく家を出ると、朝日が彼を迎える。
「僕は一体どこへ行くべきなんだ?」
彼は考えながら、同じ制服を着た他の生徒たちの流れにただ従って歩き続ける。学校だと思われる大きな建物へと。
他の生徒たちについて大きな建物の中に入ると、困惑が再び訪れる。目の前には、灰色の金属ロッカーが長く並んでいる。各ロッカーには小さなドアがあり、上に番号が表示されている。
イズミはただ棒立ちになる。彼の目はロッカーを掃い、それから他の生徒たちを見る。彼らの動きは自然に見えるが、どうすればいいかわからない。彼の手がついに動く——ゆっくりと、ためらいながら——ロッカーのドアを開ける。
「え?イズミ?」
イズミはゆっくりと振り返る。同じ年頃の少年がそこに立っている。彼は少し身を乗り出してイズミを見つめる。
「お前…なんで他人のロッカー開けてるんだ?」
イズミは凍り付く。
「あ、あの…何をすればいいの?」
少年はまばたきし、突然小さく笑う。彼の声は軽快だが、イズミにははっきり聞こえない。
「ははは、マジで?昨日突然学校から消えたくせに、今度は記憶喪失のフリか?」
昨日。
その言葉がイズミの頭に刺さる。昨日とは何か?今日以前に何かあったのか?
彼は長い間少年を見つめ、ついに少し大きめの声でもう一度尋ねる。
「…僕、本当にわからない。何をすればいいの?」
少年の笑みが広がり、今は困惑が混じっている。後頭部をかきながら近づき、くつろいでイズミの肩をポンと叩く。
「お前ってやつは…まったく。冗談やめろよ。お前のロッカーは23番、ここから二列目だ」
彼の言葉は軽く聞こえる。イズミはうつむき、ロッカーの番号を見つめる。数字は見慣れないが、数字であることはわかる。ゆっくりと歩き、ついに23番のロッカーを見つける。
冷たい金属のドアに触れる時、彼の手はためらう。ゆっくりと開けると、中に白い靴が一足。しばらくそれを見つめ、それから他の生徒の動作を真似する。
一方、先程の少年は靴を履き替え終え、素早くロッカーを閉める。
「終わった?さあ、教室まで連れていってやる。先生にまた怒られるなよ」
イズミは顔を上げる。長い間少年を見つめる。この人が誰なのか、記憶がない。でも彼の足はただ従う。その人について行けば、すべての空虚が見つかるような気がして。
学校の階段が前に広がる。少年は速く歩く、タッ、タッ、タッと、足音が壁に反響する。イズミはついていこうとするが、足が硬く、慣れていない。
彼らはついに次の階に到着する。長い廊下が広がり、音が積み重なり、イズミの耳を刺すような低いうなりになる。
少年に従い、彼は生徒で賑わう部屋に入る。動く顔、話す口、変わる表情。でも彼にとって、それらはすべて影に過ぎない。まるで音のない人形を見ているかのようだ——耳が騒音で満たされているのは明らかなのに。
先程彼を導いた少年が窓の近くで止まり、空いている机をポンポンと叩く。
「ほら、ここがお前の席だ。ここに座れ。また記憶喪失の役やろうってな。続けたら、本当に役者になれるぞ」
彼はまた小さく笑い、イズミのすべての困惑がただの冗談だと本当に思っているように見える。
イズミはただその机を見つめる。
何を感じればいいのかわからない。
「マジで言うけどさ、お前が本当にこんな風に変わろうとしてるなら、少なくともそんなに説得力を持たせるなよ」と少年は小さく笑いながら言う。
彼は自分の席に座り、カバンを置き、くつろいで寄りかかる。
イズミはゆっくりと振り返り、一瞬彼の顔を見て、再び自分の椅子を見つめる。
ゆっくりとした動きで座る。何かを壊すことを恐れるかのように。
手が机の表面に触れる。
冷たい。
滑らか。
まるで誰にも触れられたことがないかのように。
イズミの顔はゆっくりと窓の方に向く。もっと彼を惹きつけるものがある。そこには青空が見える。
雲がゆっくり動く。
イズミは長い間それを見つめる。まるでそれがこの部屋で唯一意味をなすものだと思っているかのように。
---
長いチャイムが学校中に響き渡る。すべての生徒が自動的に自分の席に戻り、騒音は消える。
教室のドアが開く。
中年の男性が穏やかな足取りで入ってくる。彼の顔は真剣で、目は何か——薄い黒いフレームに二つの透明なレンズ——で隠されている。それが鼻にかかっている。
命令もなく、すべての生徒がそれぞれのカバンから本を取り出す。イズミはうつむき、椅子の横の黒いカバンを見つめる。手はためらうが、それから真似をする——ファスナーを開け、分厚い本を取り出す。表紙は硬く、表題がはっきり読める:高校2年数学。
男性は——低く落ち着いた声で——黒板に何かを説明し始める。彼の声は規則的で、言葉は明確だ。白いチョークで数字を書く。すべての生徒が注目し、一部はメモを取り、一部はただ黒板を見つめる。
イズミも見ているが、彼自身の中では、すべてが反響のように感じられる。
時間がゆっくりと進むように感じられる。
ついに、男性が少し止まり、クラスを見つめて振り返る。
「イシダ」
イズミは少し驚く。前方を見る。前の席の生徒——先程助けてくれた少年、イシダなのか?——今まで、イズミはその生徒の頭が何度か小さくうなずくのを見ていた。
「は?え、はい…」少年は椅子から跳び上がる。
「イシダ、この問題を解いてみろ」
イシダは困惑した顔で黒板を見つめるが、言葉が出てこない。周囲の何人かの生徒が笑いをこらえ、一部は口を手で押さえる。
「おい、お前…今まで何聞いてたんだ、はあ?!」男性の声が高くなり、何人かの生徒は本当に微笑みを抑えきれなくなる。小さな笑いが教室の隅で沸き起こる。
イズミは平然と彼らを見つめる。なぜ彼らが笑っているのかわからない。何が面白いのか?
先生は長く息を吐き、失望した。
「それでは…イズミ」
イズミは驚く。体が硬直する。
すべての生徒の視線が今、彼に向けられる。
「イズミ」
「この計算の結果は?」
イズミは黒板を見つめる。数字はまだそこにある。
彼は何かを思い出す…さっきの男性の声の断片、彼の手の書き方、ゆっくりと説明された手順。
想像しようとする。その数字を割り、足し算する。
「…二十七」
一瞬、部屋が静かになる。すべての人が先生の反応を待つ。
「正解。二十七だ」
何人かの生徒が小さく叫び、一部は安堵の息を吐く。
イズミは変わらず黙っている。
安堵を感じない。誇らしく思わない。何も感じない。
しかし、密かに、彼の頭の中で。二十七…正しい?その言葉が空っぽの思考の壁に張り付くように感じる。
それが彼のすべての困惑への答えなのか?
なぜ彼は話す時にそんなに確信に満ちているように見えるのか?まるですべての答えが彼にあるかのように。多分…もしイズミが彼に尋ねることができれば、すべての困惑の意味を見つけられるかもしれない。
しかし、イズミが何かをする間もなく、またベルが鳴る。金属音が響き、授業の終わりを告げる。
男性は本を閉じ、書類を整え、多くを語らずに教室から出ていく。
イズミは彼の背中を見つめる。彼が振り向くのを、あるいは何かを残していくのを待っているかのように。でも違う。ただドアが静かに閉まり、その人物はあっさりと消える。
彼は誰なんだ…?とイズミは心の中で思う。
その疑問が、彼の中の空虚にまた一層を加える。
その男性が消えた後、教室の雰囲気が突然変わる。
先程まで静かだった生徒たちが動き出し、椅子がきしみ、騒々しい音が戻ってくる。一部は急いで教室を出て行き、一部は留まる。小さく笑う者もいれば、大声で話す者もいる。カバンを開けて小さな箱を取り出す者もいる。中に食べ物がある。先程助けてくれた少年も去っていく。彼はクラス対抗のサッカーの試合があると言うだけだ。
イズミはただ彼の去り行く姿を見つめる。
彼の頭の中には、ただ一つの言葉が絶えず回り続けている:二十七。
まるでその数字が、彼にとってあまりにも見知らぬ世界の中で、握りしめるために残された唯一のものであるかのように。
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時間は方向なく流れる。授業が変わるが、その数字はまだくっついている:二十七。
ついに最後のベルが鳴る。新たな騒動。生徒たちは荷物をまとめ、急いで出て行く。イズミはまだ座っている。目は空白で机を見つめる。誰もが目的を持っているように見える。自分以外は。
前方から、椅子がきしむ。
「イズミ」その声が静かに呼ぶ。イシダという生徒——さっき先生に呼ばれた——が立ち、彼を見つめる。「お前、さっきから…普段と違うぞ」
イズミはゆっくりと顔を上げる。答えが出てこない。
「普段は冷たいんだよな、お前…でも今は…空っぽだ」イシダは目を細める。「もし演技してるなら、その演技がリアルすぎる」
その言葉はぼんやりとした影のようだ。冷たい?空っぽ?イズミはその意味がわからない。唇が少し開くが、声が出ない。
それを見て、イシダはむしろ短く笑う。「多分、まだ眩暈がするんだ。さあ帰ろう。俺が送ってやる」
帰る?家?本能が彼の中で囁く:ただ従え。
歩道で足音がリズムを刻む。通りは賑やかで、車の音、会話、子供たちの笑い声。すべてが生き生きとしている。
「イズミ、いったい何が起こったんだ?」イシダの声が静寂を破る。
イズミは少し驚く。その質問が、今までただ「従え」と囁いていた本能を揺さぶる。
「何が起こった?」彼は自分自身に問う。答えはない。ただ空虚だけ。
イシダは暮れ始める空を見つめる。「なんだかね…今日は俺にも変な日だ。すごく静かに感じる。人々は賑やかなのに、それでも…寂しい」
「静けさ」という言葉は、イズミにとって親しみがありながらも見知らぬものに感じられる。まるで彼が理解できない何かを描写しているかのように。
ついに、彼らの歩みはイズミにとって繰り返し感じられる場所にたどり着く。今朝目を覚ました場所だ。
「ここ…最初の場所だ」
イシダはくすくす笑い、振り返りながら彼の肩をポンと叩く。
「もちろんさ。ここはお前の家だよ、イズミ」
「お前はたくさん休む必要があるんだ。そんなに深刻になるなよ、頭が本当に壊れちゃうぞ」
彼は手を振り、歩き去る。「じゃあな、また明日」
しかし数歩進んだところで、何かを思い出したかのように、彼の足が止まる。
「イズミ…」
イシダは振り返らず、ただうつむく。
イズミは彼を見つめる。
「実はな、ずっとお前に聞きたかったことが一つあるんだ…」イシダは息を吐く。「ナツメと別れてから…お前はすごく変わった。冷たくなった。距離を置くようになった。俺だってお前と友達になりたかったのに」
その言葉——「ナツメ」——が夕暮れの空気を突然の一撃のように打ち抜く。
イズミは息をのむ。胸が詰まる。一つの名前。見知らぬはずの名前なのに…なぜ思い出せない悪夢からの呼び声のように感じるのか?
イシダはその空白の表情を見て、ゆっくりと首を振る。
「ああ、忘れてくれ。まだ時じゃないみたいだ」彼は小さく微笑み、歩き続ける。今度こそ本当に去っていく。
イズミはゆっくりと手を上げ、止めようとする——しかしイシダはもう遠くへ歩いている。
彼の手は一瞬空中にぶら下がり、それから無意識に胸に移り、心臓が激しく鼓動しているまさにその場所を押さえる——まるで出て行こうとする何か、あるいは入ってこようとする何かを抑えようとするかのように。
「友達?」
「どういう意味?」
「ナツメ…」
「ナツメって誰…?」
彼はそっと口にする。その音節は、まるで何千回も繰り返してきたかのように、舌に馴染んでいる。
その名前が繰り返されるたび、胸の圧迫感が増す。息は浅い。見えない手が心臓を握りしめているかのようだ。
誰?
なぜその名前を口にするたびに胸が詰まるのか?
そしてなぜ…その痛みは親しく感じるのか——まるで古い傷が再び開かれるようで、傷ついた記憶はないのに?
夕暮れの風がそっと吹き、初夏の木々の葉を揺らす。でも今、それはただ空気以上のものを持ち運んでいる——忘れられた約束と、記憶を要求する一つの名前を。
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