第2話:セキュリティホールはすぐそこ
ええい、開けても開けてもだ。段ボールの山は一向に減る気配を見せない。
ガムテープの端を爪でカリカリと探り当て、ベリベリベリッという不快な摩擦音と共に乱暴に剥がし、薄暗い箱の中を覗き込む。
古新聞特有のインクの匂いと共に、厳重にくるまれた白い皿だの、背表紙が日焼けしてもう一生ページをめくる気がしない高校時代の参考書だのが顔を出す。
果ては
「一体全体、どんな精神状態でどこの骨董市でこんなガラクタを買ったのだ?」
と過去の私を小一時間問い詰めたくなるような、塗装の剥げかけた不気味なブリキ人形などが、パンドラの箱から溢れ出る災厄のように溢れてくる。
指先は乾燥してカサカサだし、腰は悲鳴を上げている。
埃が午後の西日に照らされてキラキラと舞うのを見て、もう、心底ウンザリである。
引っ越しという儀式は、どうしてこうも人間の生気吸い取っていくのだろうか。
期待と不安が入り混じる大学一年生の春。
新生活への胸の高鳴りなど、とうの昔に段ボールの隙間に挟まって消え失せた。
私の孤独で果てしない、まるで賽の河原の石積みのような開梱作業を中断させたのは、突然の来訪者だった。
ピンポ~ン……。
間の抜けた、しかも電池が切れかかっているのか、半音階ほどズレてふやけたようなチャイムの音が静寂を引き裂いた。
はて。
私は記憶の糸を必死に手繰り寄せる。何か頼んだ予定など、あったであろうか。いや、ない。断じてない。
私はのっそりと重い体を起こしフローリングの冷たさを足の裏に感じながら玄関へと向かった。
薄汚れた鉄製の玄関のドアスコープに、片目をぎゅっと押し当てる。
が、薄暗い廊下の照明のせいでよく見えない。
顔の判別はつかないが、なんだか口元だけが三日月のように大きく裂けた人がそこに立っていることだけはわかった。
私はチェーンロックをかけたまま、ドアを五センチほど用心深く開けた。
隙間から、生ぬるい風と共に知らない人の顔がヌッと現れる。
「どうもどうもお疲れ様です! これ、何かと入用だと思いますので、よかったら使ってください!」
口を挟む隙間などなくまくし立てられた。
ただの大学の近くにある、夏は暑く冬は寒い、コンクリート打ちっ放しの古びたワンルームである。
表札も出していない私の素性など、この人に分かるはずがない。
その人は私の戸惑いや警戒心などお構いなしに、チェーンの隙間からずいと顔を近づけてきた。
「この辺りって学生も多いけど、気を付けたほうがいいっすよ。戸締まりとか。じゃあ、お疲れ様です!」
そう言い残すと、足音荒く去っていった。
私の手に残されたのは、近所の激安スーパーの派手なロゴが入ったビニール袋。
中身は謎の軍手と、トイレットペーパーであった。
結論から言うと、その人は私の大学の先輩であり、バイト先の古本屋の先輩であった。
あとで聞いた話だが、店長から大学の後輩である私の住所を聞き、いやそんなの個人情報泥棒だし、絶対にやってはだめだと思うのだが、ご親切にも来てくれたらしいのである。
いやそれならそうと、最初にドアを開けた瞬間に名乗ってくれればいいものを。
「どうも、バイト先の者です」と一言あれば私も「ああ、それはそれは。ご親切にどうもありがとうございます、わざわざこんなむさ苦しいところまで恐れ入ります」くらい、愛想笑いを浮かべて言えたというものだ。
いや、嘘だ。
私にそんな気の利いた台詞は言えない。精一杯の引きつった笑顔で会釈するのが関の山だ。そもそも個人情報渡すっておかしいでしょう。
でも、やっぱり最初に言ってくれれば。
いやしかし、後日店で会った時に
「あの時は驚きましたよ、次からは、ちゃんと先に名乗ってくださいよ」
と言えない私も私なのだ。
――ある日のこと、その古本屋から一冊の高価な本が盗まれた。
鈍器としても十分通用しそうなほど分厚く、革の装丁もどっしりと重々しい、拷問史のなんとかという、なんとも物騒な本である。
万引き犯も、高価とはいえよくもまあこんな本を盗んでいこうと思ったものだ。
店長は度の強い丸眼鏡の奥の小さな目をさらにしょぼしょぼとさせながら、窓の外の雲を眺めながら言った。
「いやあ、びっくりしたねぇ。あんな広辞苑より重くて分厚い本を盗むなんて、相当な腕力と根性がいるよ。きっと今頃、逃げる途中で腰をグキッとやって、ぎっくり腰になって唸ってるんじゃないかなぁ。だとしたら、なんだかちょっと気の毒なことをしちゃったねぇ。湿布代くらい渡してあげればよかったかなぁ」
なぜか被害届を出すことよりも泥棒の腰椎の健康状態を心から心配していた。
冗談でなく本気で同情したような顔をしていたのだ。
そもそも、この店の人たちはお金や物に対する執着というものが完全に欠落している。
レジの周りを見てみるといい。本来ならば店の売上として金庫に厳重に管理されるべき百円玉や十円玉が、まるで部屋の隅に溜まる埃の塊かのように、床のあちこちに無造作に転がっている。
歩くたびに、靴底で硬貨を踏んで「チャリン、ジャリッ」と小気味いい音がする。それは本来、商売の場であってはならない音である。
さらに酷いのはクーポンだ。
どう計算機を弾いたって、どうシミュレーションしたって店の経営を圧迫し利益を食いつぶすだけの、まさに自滅行為としか思えない割引券を、満面の笑みでばら撒いている。
私は若さゆえもあって、この店のあまりの鈍感さと危機感のなさが許せなかった。
このままでは、店の活動そのものが続けられなくなる。
立ち行かなくなり、最後には路頭に迷い、野垂れ死ぬ。それをわかっているのだろうか。
中でもあの店長は、絶望的なまでにお人好しで、世話焼きで、救いようがない。
きっと重そうな本を抱えて脂汗をかいている泥棒の背中を見ても
「おや、重そうだなあ、駅まで運ぶのを手伝ってあげようか」
などと思って、わざと見逃したのではないだろうか。
でも、私が何を言えるというのだろう。
「そもそも、商売というのは利益を追求するものであって」
なんて講釈を垂れたところで、あるいは
「私の住所を勝手にバイトに教えちゃだめです、それは犯罪です」
と正論で忠告したところで、彼はキョトンとして鳩が豆鉄砲を食らったような顔をし、全く理解しないのではないだろうか。
たとえに拷問器具に閉じ込めて尋問したとしても、性格は変わらないだろう。
人間界の常識なんて通用しない、別の時間が流れているのである。
それならいっそ私もここの住人になってやろうと、半ばヤケクソでクーポンをガンガン客に配るようにしていた。
どういう仕組みなのかわからないが、クーポンは無尽蔵にあった。
その翌週。
遅番だった私は、あろうことか、店の入り口のシャッターを下ろし、鍵を締めるのをすっかり忘れて帰宅した。
開けっ放しの店を見て腰を抜かした店長から電話があり、私は普通にこっぴどく怒られた。
そこは常識的だった。
――そんな暮らしにも慣れ始めて、正月。
先輩からの頂きもので大掃除をしている最中。
ブリキ人形はアイアンメイデンのオブジェだということに気付いた。
翌年店は普通に潰れた。
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