ずっと置泥になりそこねて
錯千メイハ
第1話:ビニール傘に将来は決められない
将来の夢はと聞かれても「交通事故に合わないことですかね」ぐらいのことを答えてきた。
そんなことは言ったことないけど、それくらいのレベルのこと。
そんな私だから高校の進路相談は苦痛でしかなかった。
将来が定まらないことに悩んでいたし、半面輪郭がくっきりとしてくることにも拒絶反応を示していた。
それに何より、秘密主義とまでは言わないけど、パーソナルな内面を人に晒すことに対する抵抗が人より強かった。
思春期ということを差し引いても、である。
「どんな音楽聴いてるの?」とかはもう最悪である。どういうヘッドホンで聴いているのか知られることすら億劫だった。
私がどんな音楽に救いを求め、夜な夜な耳を傾けているのか。あるいは、次の小遣いでどこのメーカーの、どんな周波数特性を持ったヘッドホンを買おうと画策しているのか。
それらは魂の柔らかい部分であり、他人に値踏みされるなんて、裸で大通りを歩くよりも恥ずかしい。
私が選ぶヘッドホンも、私が歩むはずの将来も、すべては私の皮膚の内側にあるべきもので、誰かに浸食される筋合いはないはずだ。
相談に乗ってくれる担任の先生には申し訳ない。
でもそれがあたかも生徒の義務であるかのような空気感が私には窮屈だった。
そんな折、私は交通事故に遭った。
神というのは意地悪だ。
憂鬱で押し潰されそうな時に限って、さらに追い打ちをかけるような理不尽な試練をお与えになる。
私がどんよりと曇った空の下を、覇気もなくとぼとぼと歩いていたから、こんな目に合わせたのだろう。
他の要因としては、私が信号無視したことや、お気に入りのヘッドホンを付けて外界の音を遮断していたことなどがあげられる。
――一瞬、何が起きたのか、さっぱり分からなかった。
私は減速し止まりかかった車のボンネットの上を、まるで羽毛か何かのようにふわりと、驚くほど軽く撥ね上げられた。
そして、ベシャッ。
カエルの死骸のような情けない音を立てて、私は濡れたアスファルトに尻もちをついた。
え?
小雨が、冷たく頬を打ちはじめたのを覚えている。
アスファルトの冷たさが、ズボンの布地を通してお尻にじんわりと染みてくる。
体はどこも痛くない。ただ、代償はあった。
私の手の中で盾のように握られていた、まだ透明度が高く輝いていた新品のビニール傘。
それが車の前に立ちはだかり、勇ましく散っていた。
骨という骨が四方八方にねじ曲がり、ビニールは鋭い爪で引き裂かれたかのように無残に裂け、見るも無惨な姿で路上に転がっていた。
私はその変わり果てた傘の亡骸を見つめながら 「まだ買って二日目だったのに」 と嘆いた。
運転手の対応は、驚くほど迅速だった。
すぐに車から降りてきて「大丈夫ですか?」と声をかけつつも、その手はすでに携帯電話を操作し、警察と病院へテキパキと連絡を入れている。
「あ、はい、場所は〇〇交差点で、被害者の意識はあります」
失礼かもしれないが、なんだか「人を撥ね慣れている」ような手際の良さであった。
もっとも私一人なら「わわわ、どうしよう、死ぬのかな」とオロオロするばかりであったろうから、ある意味ツイていたのかもしれない。
その後警察官と合流し、一応の処置として病院へ連行された。
「うん、どこも異常ないですね。骨も折れてないし、よかったね」
レントゲンやら何やら一通り調べられたが、医者はあくびを噛み殺しながら、たいして興味もなさそうな顔でそう言った。
そこへ、知らせを受けた母が飛び込んできた。
母は私の手にある残骸を見て言った。
「あの傘買ってまだ何日?」
生まれて六千日ばかりは経過しようかという命より、二日目のビニール傘を案じる母。
「なんだ、つまらん」という退屈そうな空気が周りから漂いすぎている。
私は無傷であることを詫びなければならないような気分になった。
それから一行は、警察署へ向かうことになった。
警察署。
その響きだけで、善良な市民である私の背筋は凍る。
自動ドアを抜けると、そこにはほんのり埃っぽい独特の事務的な空気が漂っていた。
もちろん、こんな場所に足を踏み入れるのは、人生で初めてだ。
廊下を行き交う警察官たちの靴音は、なぜか皆、重りをつけているかのように重々しく響く。
カツ、カツ、カツ。
そのリズムが、私の心臓の鼓動を不規則に早める。
背中のあたりがムズムズして仕方がない。ひどい居心地の悪さである。
かっこ悪い。猛烈にかっこ悪い。周りの視線が痛い。
車にぶつけられたのだから、ここに来るのは手続き上間違っていないはずなのだけど、この圧倒的なアウェイ感はどうだ。
ここでオドオドしていたら、それこそ「とろい奴」として、警察官たちに心の底から舐められてしまう。
これはいかん。
断じてナメられてはいけない。
そう瞬時に判断した私は、キュッと口を真一文字に引き結び、眉間に彫刻刀で掘ったような深いしわを寄せ、目に殺意に近い力を込めた。
そして、口角の片方だけを器用にニヤリと吊り上げる。
完璧だ。鏡を見なくてもわかる、このアウトローなオーラ。前科三犯くらいの貫禄は出ているはずだ。
隣にいる母は、私のその決死の表情を見るなり、周りの警察官に向かってペコペコしながら言った。
「この子、日首を寝違えたみたいで」
――いよいよ私たちは、テレビドラマでしか見たことのないような、殺風景な取調室に通された。
スチール製の机とパイプ椅子。
見ると、その机の向こう側には、私なんぞの付け焼き刃のオーラなど足元にも及ばない、歴戦の猛者のような刑事が座っていた。
前科十犯どころではない。その顔に深く刻まれたシワの一本一本が、これまで解決してきた凶悪事件、あるいは迷宮入りさせてしまった事件の数を物語っているような、圧倒的な「デカ」がそこにいた。
「君は、あの、車がちゃんと来てるのがわからずに、目の前の信号が真っ赤っかだった横断歩道を、スタスタと渡っちゃったということで、これはもう、間違いない?」
デカは、まるで牛が反芻するかのようなゆっくりとした口調で話し始めた
「はい」 私はニヒルな顔を崩さずに短く答えた。
「うんうん、それは君が悪かったねぇ。赤信号っていうのはね、止まれって意味だから。ルールなの。それを無視したら痛い思いをするんだよ。わかる?」
前科三犯というか、言葉の通じない三歳の幼児に言い聞かせるような、ねっとりとした口ぶりである。
彼はゆっくりと目を上げ、眼鏡の奥からじろりと私を見た。
ぐぬぬぬ。私がさらに悪い顔を煮詰めようとした、その時だった。
「まぁまぁ、そんな怖い顔しないでください。びっくりしちゃってるじゃないですか」
スッと、まるで春一番のような、爽やかな風が吹いた。
声のした方を振り向くと、人当たりの良さそうな若い刑事が立っていた。
「いやー、でもさ、車に生身でぶつかって無傷なんて、運がいいよ」
髪が今風にツンツンしていて、バンドマンのような、ちょっとチャラチャラした雰囲気すらある。
「でもね、信号無視は本当に危ないからさ、体を大事にするためにも、次からは気をつけるってことで、そういうことで、終わりでいいですか?」
恐怖のどん底に突き落としておいて、一気に優しさで包み込んで懐柔する。
これがアメとムチというやつか。
多分この人に「君が轢いたんだよね」と聞かれたら私は「はい、そうです。私がやりました」と答えてしまっていただろう。
まあそれは嘘だけど。
聴取というほど大げさなものでもない「それ」がつつがなく終わり、私たちが席を立って帰ろうとした時だった。
さっきのチャラい刑事が、パタパタと軽い足音をさせて廊下を追いかけてきた。
「君の傘、さっき見たら、もう、なんていうか、芸術作品みたいにバラバラで、再起不能って感じだったからさ。これ、新品じゃなくて申し訳ないんだけど、よかったら使って。もう雨は止んでるけど、また降るかもしれないし」
彼が差し出したのは、ごく普通の、どこにでもある、何の変哲もないビニール傘だった。
我ながら単純な細胞でできていると思うのだが、そのビニール傘一本の親切心で、私はすっかりご機嫌になってしまった。
この最悪な一日にも何か意味があったのだと思いたくなった。 私は感謝の気持ちを込めて、彼にとびっきりのリップサービスをしてあげることにした。
「あの、警察官ってどうやったらなれるんですか? 」
なんて健気で、純粋で、可愛らしい子供なんだろうか。
我ながら百点満点の質問だ。こんなことを目を輝かせて真正面から聞かれたら、大人はイチコロだ。
この人はきっと「おっ、未来の警察官の卵か!」と感動のあまり涙ぐみ、仕事がいかに素晴らしく、正義とやりがいに満ちているかについて、夕日が沈むまで熱く、熱く、語り出してしまうに違いない。
まったくもって罪作りな人間だ。
なにせ、警察官になる気など、砂漠の砂粒ほどもないのだから。
責任とか義務とか、そういうカロリーの高そうなものはなるべくなら全力で避けたいのが本音だ。
もし仮に「実は毎日署でお昼寝して、夕方になったらおやつを食べてるだけで、お給料がガッポガッポ入ってくる、夢のような仕事なんだ」と、驚天動地の裏事情をこっそり聞かされたとしたら、その時はちょっとは考えてもよかったかもしれないが。
そんなふてぶてしい妄想を頭の中でグルグルと繰り広げていたほんの数秒後。
チャラい刑事は、キョトンとした顔で私を見つめ、極めて事務的にこう答えた。
「え? 警察? ……えーっと、そういう公務員の試験があるから、それに受かったらなれるけど」
申し訳ないけど、つまらない人だ。
折角勇気を振り絞って将来の相談をしている、という設定なのに。
なんと無機質で、夢も希望もない、乾ききった答えだろうか。
ただまあ、私は分別のある大人なのでそんなこと口には出さない。でもこう思う人も多いのではないだろうか。
警察署を出た途端、隣を歩いていた母はぼそりと言った。
「つまらない人ね」
――肝心の進路相談だけど、その後、滞りなく……というか「はぁ」「さぁ」「別に」という私の適当にもほどがある相槌に、一年生の頃から熱心に世話になっていた担任の先生も、すっかり辟易としていたようだった。
最後に先生はファイルをパタンと閉じ、吐き捨てるように言った。
「人とのつながりの大切さとか、そういう、もっと人間的に大事なことに気付いてほしかったんだけど」
こんな捨て台詞吐かれる生徒がどれだけいるだろう。
先生もまた私のことを「まったく、つまらない子だ」と、心底思ったのかもしれない。
その後、当然のことながら警察官など目指すはずもなく、つまらない大学に進学した。
つまり、この一連の体験は、私の人生に何ら影響を及ぼさなかったと言っても過言ではない。
ビニール傘を見るたびにセンチメンタルな気分になる……なんてことも、残念ながら、まったくない。
ビニール傘はあくまで消耗品であり、雨が降れば使い、風が吹けば壊れ、そしてまた新しいものを買えばいい。
人生なんて、そんなことの積み重ねでできているのかもしれない。 そう思うと、少しだけ気が楽になるような、ならないような。
とりあえず、街中でヘッドホンはやめようと、それだけは固く心に誓っているのである。
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