【カクヨムコン11短編】夢の狭間で 君を想う
茅野 明空
1
頭の中で、誰かが叫んでいる。
その胸を引き裂かれるような叫びは尾を引きながら遠のいていき────俺は目を覚ました。
水中から上がった時の様に、はぁっと思い切り息を吸い込んだ。そのまま荒い呼吸を繰り返す。一呼吸つくたびに、夢の中に埋まっている自分というピースを、この世界に再構築させるような感覚を味わう。
「夢でよかった……」
しかし次の瞬間には、俺はもう夢の中の出来事をすっかり忘れていた。ただ、嫌な夢を見たという感覚はあった。悪夢を見た後はいつもそうなるように、頭がぼうっと重苦しい。
痛む頭を片手で支えながら、俺はゆっくりと起き上がった。
一人には広く感じるセミダブルのベッド。とっさに左隣に目をやるが、そこには主のいない枕がぽつんと置かれているだけで、なんだか寂しい空間がある。
あれ、七海はどうしたんだろう。
訝しく思い、俺はベッドから立ち上がった。おぼつかない足取りで部屋を出て、リビングに向かう。
そして、リビングのソファで体を縮めるようにして眠っている七海を見つけた。
ソファの前に置かれているローテーブルの上に、何本か缶酎ハイの空缶が置いてあるのを見て、ドキリとする。
七海のやつ、一人で飲んだのか?
心なしか、彼女の瞑っている目の周りが、泣きはらしたように赤い。
喧嘩、したんだっけか。
不思議なことに、昨日の記憶がさっぱり抜け落ちていた。不安が増していく。
七海がこうしてソファで寝るのは、俺と喧嘩した時と決まっていた。俺が寝室に行くまで、一人無言のままリビングで映画を鑑賞し、そのままソファで寝るのだ。大概、次の日になるとケロリとして、何事もなかったように話しかけてくるのだが。
七海を起こそうと伸ばした手を、寸前で止めていた。
ふいに、七海の涙交じりに叫ぶ声が頭の中に響き渡ったのだ。
『佑真のそういうずるいところ、本当に嫌い!』
胸がひきつるような声だった。
少しだけ、記憶が蘇ってきた。脳から絞りだされるように、七海との喧嘩のやりとりが思い出される。
きっかけは、七海が何気なく放った一言だった。
「私、三十歳までに結婚したいな」
七海が友達の結婚式に出た話を聞いていた時かもしれない。聞いていた、といっても、俺はいつものように仕事に追われ、リビングのテーブルでパソコンに向かって作業しながらだったので、ちゃんとは聞いていなかった。
「へぇ、そうなんだ」
「そうなんだって……」
適当な返事をしてしまってから、返ってきた七海の声のトーンがだいぶ下がったことに気付いて、しまったと思った。
七海と付き合ってから三年。同棲を始めてから一年ほどになる。
俺は三十二歳で、七海は二十九歳。彼女は今年の十月で三十歳になる。今は冬も終わりかけの春先なので、彼女は言外に、あと半年の間には結婚するかどうかを決めてほしいと俺に伝えていたのだ。その返事が「そうなんだ」では、怒るのも仕方がない。
だけどさ、今じゃないだろうよ、と俺は焦ると同時に、少しイラつきながら思った。もう見慣れているから何も思わないのかもしれないが、俺は今仕事中なのだ。
もちろん、俺も七海との結婚を全く考えていなかったわけではない。
七海は頭がよく、ユーモアがあって、一緒にいて楽しい。すらりと背が高くて、パーマをかけたふわふわの茶色い髪がよく似合う、どちらかというと美人なタイプだ。きっと彼女と生きていく人生は素晴らしいだろう。ウエディングドレスに身を包んだ彼女を見たい、とも思う。
だけど、今ではない。こんな雑多な業務に追われている今のままでは、そんなこと、考えられない。
男なら、自分から格好良く彼女にプロポーズしたいと思うし、俺の思うタイミングでことを進めたい。それは、全男性が思うところではないだろうか?
そういう苛立ちもあった。それと同時に、結婚のことを全然考えていないと七海に思われるのも怖かった。彼女と別れるなんて、考えられない。
そんなごちゃごちゃした考えのまま、頭の大部分は仕事の方に気をとられていたため、俺の返事はさらに悪い方に突き進んでしまった。
「大丈夫。俺は七海と結婚するって決めてるから」
「……はぁ?」
七海の地を這うような低い声が、俺の足元をひやりと冷たくした。今度こそやばい、と思ったが、時すでに遅し。
「俺は決めてるから大丈夫って何⁉ なんなのその飼い殺しみたいな言葉! っていうか、なんでそんな上から目線なわけ⁉」
「あ、いや、今のは言葉の綾っていうか……」
「ううん、きっとそれが、佑真の本音なんだよ! すっごく佑真らしいもん」
七海の瞳がきらりと光った。
「自分のペースを狂わされるのが嫌で、頑固で、でも臆病だから自分から行動に移したりしない。でもそういうずるい言い方をして、私のことをつなぎとめようとする。私は、いつまで待っていればいいの? 本当に佑真のこと、信じていいの?」
七海は苦しそうにそう胸の内を吐き出すと、最後に例の言葉を叫んで部屋を飛び出したのだ。
喧嘩の流れの一切合切を思い出した俺は、足音を忍ばせてマンションの部屋を出た。
今回の喧嘩は、いつものようになし崩しに落ち着いてくれなさそうだと、胸のざわめきが教えてくれた。
逃げる様に家を出てから、気が付いたら無意識に駅に向かい、電車に乗っていた。休日にいつもぶらりと足を運ぶ繁華街がある駅に向かっている。
俺はそこの映画館に足を運ぶことが多かった。そこでは、月ごとに古い映画のリバイバル上映を行っているのだ。その映画の選別もセンスが良い。一人で観に行くこともあるし、七海が興味のある映画をやっているときは、二人で観に来ることもある。映画が共通の趣味である俺たちには、恰好のデートスポットだった。
結婚かぁ。
重苦しい頭で考える。結婚。けっこん。しかしその言葉は、どうも現実味を伴わないただの言葉の羅列として、俺の頭の中をジェットコースターのように駆け巡るだけだ。
世の既婚男性たちに聞きたい。どういうタイミングで、彼らはこの曖昧模糊とした結婚ってやつをしようと決断できたのだろう?
そりゃぁ、好きで好きでしょうがなくて、ずっと一緒にいたいっていう気持ちはわからないでもない。
もちろん俺も、七海に対してそういう気持ちを持ったことはある。だが、付き合いが長くなるほどに、彼女が自分のそばにいることが当たり前の様に思えてしまって、しかも同棲を一年続けている今となっては、結婚なんて紙切れ一枚だすか出さないかの違いじゃないかと、どこか冷めた気持ちで思ってしまうのだ。
七海の両親に気に入ってもらえるかどうかも不安だし、結婚した後、もし七海が仕事をやめる選択をした場合、俺の稼ぎだけでやっていけるのだろうか? じゃぁ給料がいくらになれば安心して結婚に踏み切れるのかというのも、よくわからないが。
というか、そうなのだ。どうすれば結婚に踏み切れるかという正解が、この世にはない。俺が得意だった数学みたいな、確実な答えがこの問題にはないのだ。
本当に情けない話だが、それがどうしようもなく、怖い。
七海のいう通りだ。俺は、どこまでも頭でっかちで、臆病で、石橋をたたき壊すのも怖くて中途半端に叩いて安全を確認したうえで、結局渡ろうとしないような男だ。そんなこと、嫌って程わかってる。
だけど、七海だってだいぶ身勝手だ。三十までに結婚したいって、またどうせ、女たちの言う“三十路までに結婚できない奴は行き遅れ”みたいな風潮に感化されたんだろう。友達の結婚式に行って、色々思うところがあったのかもしれない。女同士の見栄の張り合い? くだらない。そんなものに巻き込まないでくれ。
「あーぁ、めんどくせぇ」
無意識に、そんなつぶやきが漏れてしまっていた。慌てて周りを見回すが、電車の中は人気もまばらで、俺の声に気付いた人はいないようだった。
目をつぶって、一旦考えるのを辞めることにした。頭が、まだ悪夢のせいでぼんやりしてるし、重苦しい。
電車の心地よい揺れに身を任せていたら、いつの間にかうたた寝していたようだった。冗談のような夢を垣間見た。俺が七海の前に跪いて、ダイヤの指輪を差し出し、プロポーズする夢。俺の手がどうしようもなく震えているのが、滑稽だった。
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