第14話 祖父母の心
老婆は振り向いた
皺の刻まれたまぶたを見開いた。
「…お母さん。久しぶり」
「佳樹…」
佳樹の母が首からかけていた手ぬぐいだけが風に揺れている。全く動きの止まった二人は、
ただ見つめ合った。
襖で仕切られているだけの家。
その一番広い部屋に通された佳樹は座布団の上に正座して、母が淹れた茶を見ていた。
「聞きたいことはいっぱいあるけど…
まずはお母さんが元気で良かった」
「…」
「お父さんは?」
「今、街の病院に入院してる。たいしたことない。
流行り風邪をこじらしただけだ。明後日には
帰ってくる」
20年前よりも一回り小さくなった母が、佳樹の目の前で茶を飲んでいる。
父親のことに安心した佳樹も、湯気の立つ
湯呑みを持ってひとくち飲んだ。
「佳樹」
「はい」
「…コナは…元気か?」
20年間、佳樹はここへ一度も来なかった。
探せなかったのだろう。それが父母の願いでもあったのだが。
ここの住所はコナしか知らない。探せなかった佳樹がここへ訪ねてきたということは佳樹は
コナに会ったということなのだ。
携帯を取り出した佳樹が写真を選んで母に見せる。
そこには
「これは?誰?コナじゃない」
「これは俺の息子の四季」
「息子…」
「コナをお母さんたちに預かってもらった次の年、見合いして結婚したんだ」
瞬きをしながら母が携帯に顔を近づける。佳樹が渡すと両手で受け取って眼鏡をかけた。
「息子の四季が友達を連れて来た。それが偶然にもコナだったんだ」
コナが怒られないように、かといって嘘をつかないように佳樹は言葉を選びながら話す。
佳樹に携帯を返した母が、コナの写真は?と聞いた。
「この前初めて紹介してもらったんだよ。
だから写真は撮ってない。コナって名前を聞いて…名字も
コナは本当はゆりの名字の
佳樹と養子縁組もしていないのになぜ山城姓を名乗っているのか。
ひとつひとつ疑問を解いていくしかなかった。
「お母さん。コナを育ててくれてありがとう。
すごく良い子だった。
いきなりいなくなったのも…俺のことを思ってくれたからなんだよな?」
母がスッと視線をちゃぶ台に落とす。
佳樹は急かさずに母の次の言葉を待った。
「コナがいたら、あんたの人生は終わりだから」
「…」
「かといってまだひとつになったばかりの子を捨てることもできない。だから、身を隠した」
やはりそうだったのか。佳樹には母の大きな愛が苦しかった。
自分の息子に会いたかっただろう。今、四季と離れて暮らすようになった佳樹にはその気持ちが理解できた。
「コナは私らの養子にしている。捨て子を拾ったということにしてな」
「捨て子?」
「逃げたコナの母親はどこにいるのかわからない。
私らは佳樹から "コナ” という名前しか聞いてない。
コナはこれから幼稚園や学校にいかないとならないから私らの養子にしている方がいいと思ったんだ」
コナが話せないのをいいことに、佳樹の両親はここへ越してきてすぐに家の前にこの子がいたと警察に連れて行った。
もちろん誰が捨てたかなどわからない。
そして施設に送られることが決まったコナを
養子にしたいと申し出たのだった。
「逃げた女の名字など汚らわしい。それに私らの養子にしたらちゃんとした戸籍もできる」
佳樹の両親はコナの将来のことを考えていたのだ。
これから大人になって結婚して家庭を持つコナのために孤児にしないために。
コナはかなり虐げられて育ったと蒼から聞いていた。
父親を探すな、と言われたとコナからも聞いている。
父と母はコナが可愛くなかったのか。
いや、可愛くなくて当たり前なのになぜ将来のことを考えて養子にしようとしたのか。
「そうだったんだね。ありがとう。コナのことを考えてくれて」
「コナはそう思ってない。私らを憎んでいるはずだよ。
でも、そうなってもらわないと困るから」
「え?」
余計なことを言った、と思ったのか、母は
ちゃぶ台を杖に立ち上がり台所へ行った。
佳樹は、今母が言っていたことを考えてみる。
憎んでもらわないと困る、とはどういう意味なのか。
そしてコナに憎まれるために冷たく厳しくコナを育てたというのか。
四季の写真を見せた時にコナの写真はないのかと聞いた母。
元々口数の多い人ではないのに開口一番コナは元気か?と聞いた。
今も必要最低限のことしか話さない母を佳樹は理解しようと必死だった。
急須に茶を入れて母が台所から戻ってきた。
空っぽになっていた佳樹の湯呑みに熱い茶を注ぐ。
佳樹はじっとそのシワの深い手を見つめていた。
「お母さん。ここへ行くと言った時にコナに言われたことがあるんだ」
母は両手に包んだ湯呑みをじっと見つめていた。
「おじいちゃんとおばあちゃんを怒らないで、って。
ひとりだったら今頃生きられてない。
おじいちゃんとおばあちゃんに感謝している、って」
湯呑みを見つめていた母の頭がだんだんと垂れていき、ちゃぶ台に突っ伏す。
肩を震わせて声を押し殺して母は泣いていた。
「コナも大人になったから…わかるんだよ」
「う…うぅ…」
「お母さん」
「私らのことは…忘れさせないとならない。
コナは優しい子だから、情があると私らを捨てれん。
あの子に私らの面倒を見させるわけにいかない」
憎まれるように恨まれるようにした。
大人になってここを出て行きたくなるように。そして二度とこんな田舎に戻ってこないように。
自分たちのことはキレイさっぱり忘れるように。
それなのに、コナは。
首にかけていた手ぬぐいを目を押し当てて母は泣いた。
泣き崩れている母を見て佳樹の頬にも涙が落ちた。
母が少し落ち着いたの見て、佳樹は聞かなければならないことがあることを思い出した。
「養子にしてくれてありがとう。
コナの生年月日はどうなってるの?」
「捨て子だ、って届けたし、私らもわかんなかったから、あんたから預かった日をあの子の
生まれた日にしたんだ」
コナと四季は同じ歳ということになっているが、実際にはコナが一歳11ヶ月上。
約二歳離れているのでこれで計算も合う。
両親は自分たちの人生を費やして必死でコナを守ってくれた。
コナと馴れ合わないように。なんの後腐れもなく、そしてこれからも関わらなくてもいい、とコナが思うように。
全てはコナのことを想ってのことだったのだ。
「俺がいるからもうなにも心配しなくてもいい。
コナのことも、お母さんとお父さんのこともこれからは俺がちゃんとする」
「しなくてもいい。佳樹は佳樹の生活を守れ」
「ありがとう。でも、お母さんが思ってるより稼いでるんだよ」
佳樹が笑うと母もやっと口元で笑った。
コナのこと佳樹のこと。今まで張り詰めていたものがこれから少しずつ柔らかくなっていくのかもしれない。
いつのまにか夕陽が縁側に差し込む。
草が伸び放題の中庭でコナの自転車がキラリと光った。
「いきなり来て悪いけど、今夜泊めてくれる?」
「晩ごはん、ろくなのないよ」
「なんでもいいよ。お母さんの作ってくれるもんなら」
台所へ向かう母の小さな背中。
佳樹は、ありがとうございました、と頭を深く下げた。
次の日の昼、帰る佳樹に母が封筒を渡した。
「なに?」
「コナに渡してくれ」
佳樹が中身を確認すると10万円入っている。
小遣いか、と思ったがそれにしては封筒は新しいものではなかった。
「コナがここを出ていく時に置いて行った。
一生使うつもりはなかったけど、あの子の足しにしてほしい。
私からじゃなくて佳樹からと言って渡してくれ」
コナがバイトで一生懸命稼いだ金だ、と母は言った。
コナはおそらく世話になったお礼にこれを置いていったのだろう。
「お母さんとお父さんに置いていったんだろ?
なら、使ってやらないと」
「使えるわけない」
「じゃあせめて持っててやったら?その方が
絶対に喜ぶ」
封筒を母の手に握らせて佳樹は錆びた門を開けた。
「近いうちに来るよ。今度はお父さんにも会いに」
「忙しいんだから来なくていい」
「もう若い子たちに仕事は任せてるから割と暇なんだよ」
来なくていいと言った母が顔の前で手を合わせて頷く。
昨日ここへ来た時よりも風が気持ちいい。
佳樹はずっと見送っている母に時折振り向きながら畦道を歩いて行った。
一ヶ月後、
手術の前と同じように枝折とコナ、そして
「再発予防のために術後に抗がん剤を半年するという選択もあります。ただ、絶対ということはもちろんですがありません」
「しない人もいるんですか?」
抗がん剤の説明が書かれたパンフレットが机の上に置いてある。
コナはそれを見ながら主治医に質問した。
「いますよ。そこにも書いてますが副作用の出る方は出ます。出ない方もいますがそれを懸念する方もいますので」
「吐き気、倦怠感…」
コナが副作用のところを読み上げる。隣で聞いていた枝折が何かを考えているように腕を組んだ。
「するのであれば体力がじゅうぶん回復してから始めます。
なので次の診察まで考えておいてください」
飲み薬になるので入院などはしなくてもいい、と主治医が付け加えた。
枝折が退院してから篤子とコナはいろいろと調べた。
枝折は他人事のように店を開ける準備を少しずつ進めている。
店に立つことが枝折の気力となるのだろう。
篤子とコナはそんな枝折を見て微笑んでいた。
退院して半月してから枝折はbranchを開けた。
コナが毎日掃除していたおかげで仕入れだけで開けることができた。
もちろん酒は飲まないが、客と楽しそうに話している枝折がコナにはいきいきと感じる。
枝折の生きる場所はここだ。そしてコナは枝折とずっとここで働けることを願っていた。
「枝折さん。明日診察だけど」
売上の計算をしている枝折がパソコンから顔を上げた。
「早起きしなきゃね。起きれるかしら」
「それもだけど、どうするの?抗がん剤。
篤子さんはなんて?」
「した方がいいんじゃない?って。副作用が辛かったらその時やめればいいって」
「なるほど」
篤子とコナは調べたことを共有していた。
篤子はコナには抗がん剤を受けさせるべきだ、と強く言っていたが、枝折には軽い感じで伝えたようだ。
コナももちろん同じ意見だったが決めるのは
枝折だ。
それ以上何も言わずにコナは片付けを続けた。
グラスを棚に片付けるコナがだいぶん様になってきたのを見て枝折が微笑む。
今ではもうコナがいないとここにいる意味がないと思えるほど、枝折はコナを頼りにしていた。
「ねえ、ゆりさんのこと、何の連絡もないの?」
何かわかれば弁護士の
コナがそのことを何も言わないのが気になっていた。
「調べてはくれてるみたいなんだけど、
手がかりが少なすぎるみたい」
「そっか」
ゆりが外国籍だというのが枝折はずっと引っかかっていた。
外国籍ということは帰化していないということだ。
永住許可を得ている場合は外国籍のまま、期限なく日本に住むことはできる。
もしゆりが永住許可を得ていないとすると、
なぜ日本に来たのだろう。
何が目的でやって来たのか。
「ゆりさんは山城さんの会社を受けた時の
履歴書に生年月日を書いてたわよね」
「うん」
コナが蒼から送られて来たラインを見返す。
ゆりに関するまとめたものの中にゆりの
生年月日が書かれていた。
「1981年だね」
「ということは、コナを22歳で産んだことになるわね」
22歳。大学に行っていれば大学4年。
もし、ゆりが永住許可を得ていないとしたら。
「そのあたりの年代で、日本に留学してきた人って調べられないかな」
「留学?」
「コナをひとりで育てないとならないってことは頼れる身内が日本にいないってことよね。
まあ反対されてたってこともあり得るけど」
若いゆりがたった一人で日本に来た理由。
枝折の言う通り留学の可能性もある。
「わかった。蒼さんに聞いてみる」
全ての仕事が終わり、コナは大きな通りまで
枝折を送って行き、タクシーに乗せる。
窓から手を振る枝折に手を振り返し、タクシーがネオンの海に飲み込まれて行くのをコナはじっと見ていた。
次の日枝折と診察を待っている間にコナは蒼に枝折の見解をラインした。
【その可能性はあるかも】
【永住許可も留学生の出入国在留管理もどっちも法務省だから問い合わせしてみるね】
「ヒットしたらいいわね」
コナが枝折に蒼からのラインを見せる。
一緒に病院に来ていた篤子もうんうん、と頷いた。
「もしそれが本当だとしたら、ゆりさんは
在留期間が切れたから帰ったのかしら」
「それならコナを連れていくでしょ。
山城さんにもそう説明できるし」
「そうよね。なかなか複雑な理由なのかな」
篤子と枝折が話していると、診察室の前の
掲示板に枝折の番号が表示された。
「どうですか?」
主治医がニコニコ顔で枝折の顔を見る。
机の上のモニターには来てすぐに採血した血液検査の結果が映されていた。
「ごはんもしっかり食べてます。仕事もしてます」
「それは良かった。痛みはないですか?」
「はい。傷のところは少し痛い時がありますけど」
主治医がクリクリ、とマウスで画面を動かす。
採血結果は異常なしだった。
「お薬どうします?」
「初めてみます。副作用が辛かったらやめます。
私、根性ないんで」
「あはは。わかりました。一応吐き気止めも
一緒に出しておきます。なにかあったら予約外でもいいので我慢せずにお電話してくださいね」
診察が終わり診察室の隣の小さな部屋に通される。
薬剤師がやってきて抗がん剤の説明を受けた。
「第二章ね」
「枝折の?」
「そうよ。私の人生第二章。一日でも長く篤子やコナや四季と一緒にいられるようにがんばります」
「そうだよ。枝折さんがんばって!」
この平穏な日々がいつまでも続いていくことを今は願うしかない。
帰りのタクシーの中で三人は楽しい話をして笑った。
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