第2話 ​🌾 奥州血戦譜:後三年の役(史実編)

 清原氏の凋落(1083年・奥羽)

​ 平安時代後期、奥羽(東北地方)は、前九年の役で安倍氏を滅ぼした後、巨大な権力を握った清原氏によって支配されていた。しかし、清原氏内部は、当主・清原武貞きよはらのたけさだの死後、急速に不和の兆しを見せ始めていた。

​武貞の子である**清原真衡きよはらのさねひらは、その権力を背景に中央の朝廷と繋がりを持ち、強大な勢力を誇った。しかし、彼は異父弟である清原家衡と、義弟である清原武衡**を冷遇した。

​ 真衡が亡くなると、その広大な領地を巡って、家衡と武衡の間に激しい対立が勃発した。これこそが、後の「後三年の役」の発端となる、**清原氏の内訌ないこう**である。

​ 朝廷から陸奥守むつのかみとして派遣されていたのが、名門源氏の棟梁、**源義家**である。彼は前九年の役で清原氏と共闘した経験があり、奥州の状況を静観していた。

​ 当初、義家は清原氏の親族間の争いには介入しない姿勢を見せていた。しかし、家衡と武衡が共謀し、真衡の遺児・清原清衡を襲撃したことで、事態は一変する。

​ 義家は、清衡を保護すると共に、武力による乱の鎮圧を決意する。彼の介入の公式な理由は「乱の鎮定」であったが、実際には、奥州の富と権力を手中に収めるための戦略的な判断も含まれていた。

​ 義家は、清衡と共に軍を率い、最初に清原家衡が籠る**沼柵ぬまさく**を攻撃した。

​ 義家の軍勢は、強大な騎馬武者を擁していたが、沼柵は沼沢地に囲まれた天然の要害であり、攻めあぐねる。さらに、義家は、この戦いで清衡の勢力が弱体化することを恐れていた。

​ 義家は、沼柵を落とすことができず、一時撤退を余儀なくされる。この敗北は、義家にとって大きな汚点となった。

​ 翌年、清原家衡は叔父の清原武衡と合流し、共に**金沢柵かねざわのさく**に籠城した。金沢柵は、現在の秋田県横手市に位置し、さらに堅固な要害であった。

​ 義家は、力攻めでは犠牲が大きいと判断し、兵糧攻めを決断する。

 天の助けと金沢柵の陥落

​兵糧攻めは長期にわたった。時は冬に差し掛かり、奥羽特有の激しい寒さと雪が、義家軍を苦しめた。兵士たちは飢えと寒さで疲弊し、軍の士気は低下。義家は、撤退も視野に入れざるを得ない状況に追い込まれた。

​ その時、一羽の**かり**の群れが、義家軍の上空を飛び去ろうとした。義家は、その雁の群れが、通常と違う不自然な飛び方をしていることに気づく。

​「あの雁の群れは、必ず何かに驚いて飛び立ったに違いない。柵の中に異変が起きている!」

 ​義家は、雁の飛び方から、柵の中の守りが手薄になっていることを見抜き、直ちに総攻撃を命じた。

 ​既に飢餓と寒さで限界に達していた清原軍は、この奇襲に対応できず、混乱に陥る。清原家衡は柵を破られて逃走を図るが、義家の郎党に捕らえられ、斬首された。清原武衡もまた、逃亡の末に捕らえられ、処刑された。

​ ここに、後三年の役は終結した。

 乱を鎮圧した義家は、清原氏の領地を清衡に与え、自らも功績を挙げた者たちに褒賞を与えた。しかし、この戦いは朝廷の命令を受けた**「官軍」によるものではなく、あくまで義家の私闘**であったため、朝廷は義家の論功行賞を認めなかった。

​ 義家は私財を投じて恩賞を与え、これにより東国武士の信頼を一層集めることとなった。

​ 乱を生き延びた清原清衡は、その後、源氏の姓を賜り、藤原清衡と名を改め、奥州藤原氏の祖となる。彼は、この後、奥州に百年の平和と黄金文化を築き上げるのである。

​「後三年の役」は、源義家の東国における影響力を決定的にし、武士の世の到来を予感させる、重要な転換点となった。

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