第9話 触れる熱
先輩がベッドの枕元から引き寄せたのは、使い込まれて少し色褪せた青いスポーツタオルだった。
柔軟剤の香りが染み込んだその布切れを手に、先輩は私の正面に向き直る。狭いベッドの上で膝を突き合わせる形になり、私たちの距離は呼吸さえ混ざり合うほどに縮まった。先輩の大きな体が視界を覆い尽くし、部屋の照明を背にした彼の顔が影になって表情が読み取れない。ただ、私を見下ろす瞳の光だけが、暗がりの中で鋭く光っているように見えた。
「ほら、じっとして」
先輩がタオルを持った手を伸ばしてくる。私は反射的に身を引こうとした。「自分で拭きます」と言いかけた唇は、先輩の有無を言わせない視線に封じ込められた。私は抵抗することを諦め、観念して瞼を閉じる。暗闇の中で、聴覚と触覚だけが研ぎ澄まされていく。
ふわりと、額にタオルが被せられた。
ガシガシと乱暴に拭かれるのを想像していたけれど、先輩の手つきは驚くほど優しかった。タオルのパイル地が、汗ばんだおでこを吸い取るように丁寧に押し当てられる。布越しに伝わる手のひらの圧力が、じんわりと頭蓋骨に浸透していく。それはまるで、壊れ物を扱うような、あるいは大切な所有物を手入れするような慎重さだった。
「……ん……」
くすぐったさと、大切にされているという安堵感で、喉の奥から小さな声が漏れる。先輩は何も言わず、額からこめかみへと、ゆっくりとタオルを滑らせていく。その動きに合わせて、私の顔は自然と横を向かされる形になった。
タオルの端が耳を掠め、ゾクリとした戦慄が背筋を走る。
先輩の手が止まったのは、耳の後ろ、髪の生え際のあたりだった。そこは汗が溜まりやすく、そして神経が集中している敏感な場所だ。先輩はタオルの上から親指を押し当て、円を描くようにマッサージしながら汗を拭い取っていく。
「ここ、すごい汗だな」
耳元で囁かれる低い声。その吐息が、湿った耳殻に直接吹きかかる。私は肩をすくめ、逃げ場のない快感に身をよじった。
「せ、先輩……くすぐったい、です……」
「我慢しろ。風邪引くぞ」
もっともらしい理由をつけて、先輩は執拗にその場所を愛撫し続ける。ザラリとしたタオルの感触と、内側から押し付けてくる指の硬さ。摩擦熱で皮膚が熱くなり、頭の中がぼんやりと霞んでいく。
不意に、首筋にひやりとした感触が走った。
タオルではない。先輩の指先だ。
タオルを持つ手の小指や薬指が、布からはみ出して、私の濡れた肌に直接触れているのだ。冷房で冷やされた先輩の指先と、火照った私の首筋。温度差のある二つの皮膚が接触するたびに、体内に電流のような刺激が駆け巡る。それは偶然触れているだけなのか、それとも意図的なものなのか。今の私には判断がつかない。
先輩の手が、私の首の後ろへと回った。
「髪、邪魔だな」
そう呟くと、先輩はタオルを持っていない左手で、私のポニーテールの結び目を持ち上げた。重たい髪の束が持ち上げられ、無防備なうなじが露わになる。涼しい空気に晒されたその場所に、すかさず右手のタオルが押し当てられた。
視界が塞がれている分、首の後ろで行われていることへの想像力が肥大化する。先輩は今、どんな顔をして私のうなじを見ているのだろうか。日焼けしていない、白くて柔らかい皮膚。そこを、先輩の手が独占している。
拭く、という行為のリズムが変わった。
最初は汗を吸い取るための「押し当て」だったものが、いつの間にか肌を撫で回すような「ストローク」に変化している。首筋のラインに沿って、上から下へ、そして鎖骨の方へ。タオル越しに喉仏のあたりをなぞられ、私は息を詰まらせた。
「ひっ……あ……」
自分でも驚くほど艶っぽい声が出てしまい、私は慌てて口元を手で覆った。けれど、先輩は気にする素振りもなく、むしろ楽しむように指先の力を強めた。
「どうした? そんなに感じるのか?」
「ち、違います……っ、ただ、変な感じで……」
「変な感じ、か」
先輩は意味深に言葉を反芻し、私の首筋からゆっくりとタオルを離した。名残惜しそうに離れていく熱源。私は解放された安堵と同時に、言いようのない喪失感を覚えた。もっと触れていてほしかった。そんな浅ましい本音が、心の奥底で頭をもたげる。
目を開けると、すぐ目の前に先輩の顔があった。
その瞳は、獲物を追い詰める肉食獣のように昏く沈み、私の瞳を射抜いていた。さっきまでの「優しい先輩」の仮面が剥がれ落ち、隠しきれない「男」の欲望が露見している。
「……汗、まだかいてるな」
先輩の視線が、私の首元から下、ジャージの襟元へと吸い込まれるように落ちた。
そこは、タオルの届かない場所。しっかりと閉められたファスナーによって守られた、最後の聖域。
私の胸元では、激しくなる心拍に合わせて心臓が脈打ち、Tシャツとジャージ越しにもその鼓動が伝わってしまいそうだった。汗は止まるどころか、先輩に見つめられる緊張感で、新たな汗が背中を伝い落ちていくのが分かる。
「鎖骨のあたり、びしょ濡れだぞ」
先輩が指摘し、その人差し指を伸ばした。
ゆっくりと近づいてくる指先。私は逃げなければいけないと分かっているのに、金縛りにあったように動けなかった。蛇に睨まれた蛙のように、ただその指先が自分の喉元に迫るのを見つめていることしかできない。
トン、と。
先輩の指先が、私のジャージのファスナーの引き手(チャーム)に触れた。
金属の冷たい感触が、肌着越しに胸骨に伝わる。それが、次の段階へと進むためのスイッチであることを、私は本能的に悟っていた。部屋の空気が、一気に湿度を増したような気がした。冷蔵庫のモーター音が止み、完全な静寂が訪れる。その静けさの中で、私の運命を握る金属の引き手が、先輩の指に摘まれた。
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