第8話 汗の指摘


「そそる」という言葉の余韻が、私の思考回路を焼き切っていた。


 先輩の手は既に私の顔から離れ、彼は何事もなかったかのように再び麦茶のグラスを口に運んでいる。けれど、私の頬にはザラリとした親指の感触が幻のように残り続け、心臓は肋骨を内側から激しく叩いていた。今の言葉は、聞き間違いだろうか。それとも、大学生特有の洗練されたジョークなのだろうか。


 私が混乱の渦中で言葉を失っていると、先輩はグラスの中の氷をガリリと噛み砕き、ふぅと息を吐いた。そして、今まで座っていた床から、ゆっくりと立ち上がった。


 天井の低い部屋で立ち上がった先輩は、座っていた時よりも遥かに大きく、圧迫感のある存在として私を見下ろす。私は反射的に身を固くし、視線を膝元へと落とした。影が落ちてくる。先輩が近づいてくる気配。そして、


 ズン、と重たい衝撃が走り、私の身体が大きく傾いた。


 先輩が、私の隣に腰を下ろしたのだ。


 狭いシングルベッド。私が端に座っていたとはいえ、大人の男性が並んで座れるほどの余裕はない。先輩の全体重がかかったことで、スプリングの効いたマットレスは大きく沈み込み、私の身体は重力に従って、抗う術もなく先輩の方へと滑り落ちた。


「あっ……」


 小さな悲鳴が漏れる。私の左肩と、先輩の右肩が触れ合った。いや、触れただけではない。互いの体重を支え合うように、強固に密着してしまった。ジャージとTシャツ、布一枚を隔てて伝わってくる、先輩の体温と筋肉の硬さ。それは、部活中に偶然ぶつかった時の接触とはまるで違う、質量と意図を持った熱の塊だった。


 近い。あまりにも近すぎる。


 先輩の太ももが、私の太ももに押し付けられている。呼吸をするたびに、先輩の胸郭が膨らみ、私の肩にその動きが伝播する。私は身をよじって距離を取ろうとしたが、沈み込んだマットレスが蟻地獄のように私を捕らえて離さない。


「悪い、狭いよな。……でも、床だと腰が痛くてさ」


 先輩はそう言い訳をしたけれど、離れようとする素振りは微塵もなかった。それどころか、リラックスした様子で後ろ手をつき、体重を預けてくる。その動きに合わせて、さらに二人の距離が詰まる。


 私の鼻先を、濃厚な匂いが掠めた。


 隣に座ったことで、先ほどまで部屋全体に漂っていた匂いの発生源が、すぐ真横にあることを知覚させられる。ブラックコーヒーの苦味、古い紙の匂い、そしてTシャツの襟元から立ち上る、男の人の肌の匂い。それらが熱を持って私を包囲し、思考を麻痺させていく。


 エアコンの冷気が、頭上から降り注いでいた。先ほど設定温度を下げたせいで、送風口からは白い霧が見えそうなほど冷たい風が吹き出している。その風が、私の汗ばんだ首筋や背中を直撃し、急速に熱を奪っていく。


 冷たいのに、熱い。


 身体の表面は冷やされているのに、先輩と触れ合っている左半身だけが、火傷しそうなほど熱を帯びている。そのアンバランスな感覚が、私の神経を逆撫でした。そして何より、風が吹くということは、空気が動くということだ。


 私の汗の匂いが、先輩の方へ流れているのではないか。


 その懸念が頭をもたげた瞬間、私は再び強烈な羞恥心に襲われた。今の私は、炎天下の中を歩き通して、全身汗まみれの状態だ。制汗剤の効果などとっくに切れ、自分でも分かるほど、蒸れたジャージの中から酸っぱいような、若草のような匂いが立ち上っている。こんな至近距離で、しかも密閉された部屋の中で、それが先輩に伝わらないはずがない。


 私は居ても立ってもいられなくなり、膝の上で握りしめた拳に力を込めた。


「あの……先輩、やっぱり私、床に座ります……!」


 逃げ出そうとして腰を浮かせかける。けれど、先輩の素早い手が私の手首を掴み、制止した。


「いいって。お前はお客さんなんだから」


「でも……! 私、汗臭いし……汚いし……先輩に迷惑かけちゃいます」


 今にも泣き出しそうな声で訴える。それは謙遜ではなく、切実な拒絶だった。憧れの人に「臭い」と思われることだけは、死んでも耐えられない。


 先輩は私の手首を掴んだまま、不思議そうな顔で私を見た。そして、わざとらしく鼻を鳴らし、スン、と空気を吸い込む仕草をした。


「臭い? ……そうか?」


「そ、そうです……絶対、汗臭いです……」


 私が俯くと、先輩はフッと小さく笑い、掴んでいた私の手を引き寄せた。バランスを崩した私は、さらに先輩の方へと傾く。先輩の顔が、私の首筋近くまで寄せられた。


「……んー、確かに。汗の匂いはするな」


 耳元で囁かれた事実に、私はカッと顔を赤くし、全身を硬直させた。終わった。やっぱり臭かったんだ。穴があったら入りたい。今すぐ消えてしまいたい。絶望的な恥ずかしさが涙となって目に滲む。


 けれど、先輩の次の言葉は、私の予想を裏切るものだった。


「でも、嫌な匂いじゃないぞ。……なんか、シーブリーズと混ざって、懐かしい匂いがする」


「え……?」


 恐る恐る顔を上げると、先輩は私の首筋から視線を外し、どこか遠くを見るような、穏やかな目をしていた。


「部活の時の部室とか、試合後のバスの中とかさ。……俺たち、ずっとこういう匂いの中で生きてきただろ? だからかな。この匂い嗅ぐと、なんか変に落ち着くんだよな」


 落ち着く。


 その言葉が、私の凍り付いた心をじんわりと溶かしていく。私が恥じていた「汗」や「体臭」を、先輩は私たちの共有する「記憶」として肯定してくれた。それは、「いい匂い」とお世辞を言われるよりも、ずっと深く私の胸に刺さった。


「先輩も……落ち着くんですか?」


「ああ。ここ最近、大学じゃ香水の匂いばっか嗅がされてたからな。……お前のその匂い、すごく健康的で、俺は好きだよ」


 好き。その単語に反応して、心臓が大きく跳ねる。もちろん、それは恋愛的な意味ではなく、匂いの好みの話だと分かっている。けれど、先輩の低く響く声でその言葉を聞かされると、身体の奥が甘く疼くのを止められなかった。


 先輩は掴んでいた私の手首を、ゆっくりと指先で撫でた。脈打つ動脈の上を、親指の腹が優しく往復する。


「お前、本当に一生懸命テニスやってたもんな。その汗は、頑張った証拠だろ。……恥ずかしがることなんて、一つもない」


 その言葉は、私の引退の悔しさも、今の惨めさも、すべてを包み込んで許してくれる免罪符のようだった。張り詰めていた緊張の糸が、ふわりと緩む。私は抵抗する力を失い、先輩の肩に少しだけ体重を預けた。


 エアコンの風が、まだ濡れている私の首筋を冷やす。けれど、もう寒くはなかった。隣にある先輩の体温が、熱いほどに私を温めてくれている。


「……ありがとうございます」


 小さく呟くと、先輩の手が私の頭に伸びてきて、ポニーテールをくしゃりと撫でた。


「素直でよろしい。……けど、風邪引くといけないからな」


 先輩の手が髪から離れ、タオルを探すように周囲を見渡した。その横顔は優しかったけれど、瞳の奥だけは、決して笑っていないような気がした。獲物を油断させ、懐に入り込んだ捕食者の目。今の私には、その危険信号を読み取る余裕など残されていなかった。ただ、この心地よい匂いと体温の中に、いつまでも埋もれていたいと願うだけだった。

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