第2話 フェンス越しの再会
チームメイトの輪から離れることは、今の私にとって酸素を求めることと同義だった。慰めの言葉も、涙に濡れた共感も、今の私の鼓膜にはノイズとしてしか響かない。私は逃げるようにしてコートを後にし、人影のまばらな公園の裏手へと足を向けた。背負ったラケットバッグが、鉛を詰め込まれたように重く肩に食い込む。アスファルトからの照り返しは容赦なく、ジャージの中に籠もった熱気が逃げ場を失って肌にまとわりついていた。歩くたびに、太腿の筋肉が軋むような悲鳴を上げ、足裏のマメがジンジンと熱を持って痛む。これが、引退した人間の身体に残る唯一の実感なのだとしたら、それはあまりにも惨めで、現実的な痛みだった。
公園の片隅、木立に囲まれた自販機コーナーは、昼下がりの気怠い静寂に包まれていた。絶え間なく響いていた打球音や応援の声も、ここでは遠い潮騒のように霞んで聞こえる。私はベンチの端に力なく腰を下ろし、大きく息を吐き出した。目の前の自販機が、ヴゥゥンと低い駆動音を立てている。極彩色のサンプル缶が並ぶ光景をぼんやりと眺めながら、私は喉の渇きさえ忘れて、ただ呆然と時を過ごしていた。汗が乾き始めて塩になり、肌がつっぱるような不快感が全身を覆う。このままここに座っていれば、いつかこの暑さが私を溶かして、地面のシミにしてくれるのではないか。そんな馬鹿げた空想が頭をよぎるほど、私の思考は停止していた。
不意に、右の頬に鋭い冷たさが走った。
「ひゃっ!?」
情けない声を上げて飛び上がりそうになる。思考の沼から急激に引き戻され、私は反射的に顔を背けた。視界の端に映ったのは、水滴のついたペットボトル。結露した冷たい水が、火照った私の頬を冷やし、一筋の雫となって顎へと伝い落ちる。驚きと動揺で心臓が早鐘を打つ中、私は恐る恐る視線を上げた。逆光の中に、一人の男のシルエットが浮かび上がっている。見覚えのある、けれど決定的に何かが違うその立ち姿に、私は息を呑んだ。
「よう。お疲れ」
聞き慣れた、けれど記憶の中よりも少しだけ低く響く声。目が慣れるにつれて、陽光の中にその人の顔がはっきりと焦点を結ぶ。茶色がかった髪は、現役時代よりも少し長く、緩やかなパーマがかかっていた。着古した部活のTシャツではなく、清潔感のある襟付きのシャツと、細身のデニム。それは、私の知っている「テニス部の部長」ではなく、知らない世界の空気を纏った「大学生」の姿だった。
「……瀬戸、先輩?」
乾いた唇から、掠れた声が漏れ出る。瀬戸啓介。私がテニスを続けた理由であり、密かに目で追い続けていた人。彼がそこに立っていた。手に持ったスポーツドリンクを、悪戯っぽく私の頬から離し、目の前に差し出してくる。その手つきは、かつて部活の休憩中に見せてくれた無造作な優しさそのもので、私は急激に時が巻き戻るような錯覚を覚えた。しかし、彼から漂う匂いは違った。汗と埃の匂いではなく、柔軟剤の甘い香りと、微かな整髪料の香り。その匂いの違いが、私たちを隔てる時間の流れを残酷なほどに突きつけてくる。
「受け取れよ。脱水で倒れられたら、後味が悪いからな」
「あ、ありがとうございます……」
私は震える手でペットボトルを受け取った。指先が触れ合いそうになり、慌てて引っ込める。冷たい容器の感触が、熱を持った掌に心地よい痛みを与える。キャップを開け、一口だけ喉に流し込むと、甘ったるい液体が食道を駆け下りていき、身体の芯に残っていた熱を少しだけ冷ましてくれた。先輩は私の隣、人一人分ほどの距離を空けてベンチに腰を下ろした。木の板が軋む音が、妙に生々しく響く。
「……見られて、たんですね」
ポツリと、独り言のように呟いた。一番見られたくない無様な敗北を、一番見てほしかった人に見られてしまった。その事実は、恥ずかしさと申し訳なさがない交ぜになり、私の胸を締め付ける。穴があったら入りたいというのは、まさにこのことだ。私は俯き、膝の上で握りしめたペットボトルを見つめ続けた。
「たまたまな。大学の講義が休講になってさ、散歩がてら寄っただけだ」
先輩は、気負いのない口調でそう言った。まるで、コンビニに行くついでに立ち寄ったかのような軽さだ。けれど、次の言葉が私の心臓を射抜いた。
「最後のリターン。あれ、お前らしい強気な攻めだったな」
私はハッとして顔を上げた。先輩は、自販機の方を見つめたまま、淡々と続けていく。
「相手のセカンドサーブ、普通なら繋ぎにいく場面だ。でもお前は、迷わずフォアに回り込んでストレートを狙った。アウトにはなったけど、あの判断は間違ってなかったと俺は思うぞ」
具体的なプレーへの言及。それは、彼がただ通りがかっただけではなく、私の試合を、それも最後の一球までしっかりと見てくれていたことの証明だった。あの瞬間、私が何を考え、どう動こうとしたのか。誰も気づかなかった私の意図を、この人だけは理解してくれていた。その事実に触れた瞬間、張り詰めていた心の糸が、プツリと音を立てて切れた。
「先輩……私、全然ダメでした……」
言葉にした途端、我慢していた感情が堰を切ったように溢れ出した。視界が急速に滲み、熱いものが頬を伝う。
「あの一本が入っていれば、流れが変わったかもしれないのに。私が弱気だったから、もっと練習しておけばよかったのに……っ」
子供のような言い訳と後悔が、涙と共に零れ落ちる。私はジャージの袖で乱暴に顔を拭ったが、涙は次から次へと溢れて止まらない。汗と涙で顔中がぐしゃぐしゃになり、鼻水まですすり上げる私を、先輩は黙って見つめていた。きっと呆れているに違いない。引退試合で負けて、メソメソと泣き言を言う元副部長なんて、見苦しいだけだ。
「バカ。去年の俺よりずっとマシだろ。胸張れよ」
大きな手が、ポンと私の頭に乗せられた。その掌の温かさと重みが、頭頂部から全身へと染み渡る。髪をくしゃりと撫でられる感触は、現役時代に何度もされた、懐かしい「合格」のサインだった。
「お前はよくやったよ。最後の一年、副部長としてチームを引っ張って、あんなに粘り強い試合をしたんだ。……俺は、かっこいいと思ったけどな」
「かっこいい、なんて……そんな……」
否定しようとして、言葉が詰まる。先輩の言葉には、嘘やお世辞の響きがなかった。彼は本当に、私の戦う姿を認めてくれている。そのことが、敗北感で冷え切っていた私の心を、じんわりと温めていくようだった。私は涙を拭うのも忘れ、潤んだ瞳で先輩を見上げた。逆光の中で優しく細められた彼の瞳に、泣き腫らした私の顔が映っている。
ふと、風が吹き抜けた。熱を含んだ風が、私の髪を揺らし、首筋の汗を撫でていく。その瞬間、私は強烈な羞恥心に襲われた。今の私は、試合直後の汗まみれの状態だ。制汗剤のシーブリーズを浴びるように使っているとはいえ、その下からは激しい運動後の生々しい汗の匂いが立ち上っているはずだ。こんなに近くに座っていて、先輩に臭いと思われていないだろうか。憧れの人と再会したというのに、私は世界で一番汚れた姿をしているのではないか。
私は反射的に身体を縮こまらせ、少しだけ先輩から距離を取ろうとした。けれど、先輩はその動きを気にする風でもなく、むしろ鼻先を僅かに動かして、空気中の匂いを探るような仕草を見せた。
「……なんか、懐かしい匂いがするな」
「えっ? あ、あの、すみません! 私、汗臭くて……!」
顔から火が出る思いで謝罪する。しかし、先輩は不思議そうに首を傾げ、口元に微かな笑みを浮かべた。
「いや、違う。このシーブリーズの匂いと、土埃の匂い。……ああ、夏だなあって思ってさ」
彼の視線が、私の首筋あたりを一瞬だけ彷徨った気がした。その眼差しには、単なる懐かしさ以上の、どこか粘度のある熱が混じっているように見えた。けれど、それはすぐに爽やかな笑顔にかき消され、私は自分の自意識過剰さを恥じることになる。先輩にとって、私はただの後輩で、この匂いは「部活の記憶」を呼び起こすトリガーに過ぎないのだ。
「先輩も、変わってないですね。……大学生になっても、テニスのことばっかり」
照れ隠しにそう言うと、先輩は「失敬な」と笑い、飲み干した缶コーヒーをゴミ箱に放り投げた。カラン、という軽い音が、二人の間の空気を柔らかく変えていく。私はもう一度、手の中のスポーツドリンクを口に含んだ。先ほどよりもずっと甘く、そして冷たく感じられた。
遠くでセミが鳴いている。その声は、さっきまでの耳障りなノイズではなく、私たち二人を包み込むBGMのように聞こえた。終わってしまった夏と、まだ始まっていない何か。その境界線上のベンチで、私は隣に座る人の体温を、確かに感じていた。
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