夏の約定と、君の匂い
舞夢宜人
第1話 終わりのホイッスル
### 第1話 終わりのホイッスル
六月の太陽は、慈悲という概念を持ち合わせていないようだった。頭上から垂直に降り注ぐ光は、質量を持った凶器となって私の全身を殴りつける。肌を焼くじりじりとした痛みと、肺を焼く熱気が、思考の隅々までを白く塗りつぶしていくようだった。視界の端で揺れる陽炎が、向かいのコートに立つ相手選手の姿を歪ませている。私は荒い呼吸を繰り返しながら、額から流れ落ちる汗をリストバンドで乱暴に拭った。塩辛い雫が口の端に触れ、乾ききった喉がひりついた感覚を訴える。
インターハイ地区予選、準決勝。スコアボードの数字を見る余裕など、とうの昔に失われている。ただ、この一点を取らなければ全てが終わるということだけが、本能的な恐怖として全身を支配していた。相手のサーブトスが高く上がり、青すぎる空に黄色いボールが吸い込まれていく。インパクトの乾いた音が鼓膜を打ち、私は反射的に脚を一歩踏み出した。焼けたアスファルトを通して、シューズの厚いソール越しにさえ、地面の熱が這い上がってくるのが分かる。
太腿の筋肉が悲鳴を上げている。連戦による疲労は、鉛のように重く下半身にのしかかり、一歩ごとの反応を鈍らせようと足掻いていた。それでも、三年間にわたり身体に染み付いた反復練習の記憶が、私をボールの落下点へと走らせる。風を切る音と、自分の心臓が早鐘を打つ音だけが、世界から切り離されたように大きく響いていた。バウンドしたボールが跳ね上がる。私はラケットを振り抜き、渾身の力でリターンを放った。
打球の感触は悪くなかった。ガットがボールを捉え、食い込む確かな感触が手のひらに残る。しかし、私の願いを乗せた黄色い球体は、無情にもサイドラインのわずか外側、赤茶色の土埃を上げて着地した。
「アウト! ゲーム、セット!」
審判のコールが、熱気を含んだ重い空気を鋭利に切り裂く。その瞬間、極限まで張り詰めていた空気が一気に弛緩し、代わりに圧倒的な静寂が私を包み込んだように感じられた。実際には歓声や拍手が起きているはずなのに、セミの声が一斉にボリュームを上げたように錯覚する。終わった。その事実を脳が理解するよりも早く、膝から力が抜けた。ラケットのフレームが地面に触れ、カォンと乾いた音を立てる。私はその場に立ち尽くし、ただぼんやりと、ラインの外側に残るボールの着地跡を見つめていた。たった数センチ。そのわずかな距離が、私たちの夏を終わらせ、積み上げてきた時間を過去のものにしたのだ。
「整列!」
主審の声に促され、私は重たい身体を引きずるようにしてネット際へ歩み寄る。ネットを挟んで向かい合った相手ペアの顔は、勝利の喜びに紅潮し、浮かんだ汗さえも勝者の勲章のように輝いて見えた。差し出された手は熱く、そして力強い。私は努めて冷静を装い、震えそうになる指先を隠すようにしてその手を握り返した。
「ありがとうございました」
唇から紡ぎ出した言葉は、驚くほど掠れていた。相手の健闘を称えるべき場面で、私の心は不自然なほど凪いでいる。悔しさで涙が溢れるとか、その場に崩れ落ちるとか、そういうドラマチックな感情の爆発は訪れなかった。ただ、胸の真ん中にぽっかりと空いた巨大な穴から、何かがさらさらと零れ落ちていくような、底知れない喪失感だけがあった。まるで自分の体の一部が切り離されたような、現実感のない痛みだった。
ベンチに戻ると、後輩たちがタオルと冷えたドリンクを差し出してくる。彼女たちの目は既に赤く腫れており、私と目が合った瞬間に堰を切ったように泣き出してしまった。
「先輩、すみません、私たちの応援が足りなくて……っ」
「ううん、ありがとう。みんなの声、届いてたよ」
私は彼女たちの震える肩を撫で、ありきたりな慰めの言葉をかける。泣いている後輩たちを見ていると、逆に自分が泣いてはいけないような気がして、私は乾いた笑顔を貼り付けたままだった。部長としての責務、先輩としての体面。そんなものが、まだ私の感情に蓋をしているのかもしれない。
タオルを頭からすっぽりと被り、視界を遮断してベンチに座り込む。白いパイル地の中で、私はようやく世界から隔絶され、一人になれた気がした。自分の吐く息が熱くこもり、顔に跳ね返ってくる。制汗剤の人工的な香りと混ざり合った、酸味のある汗の匂いが鼻腔に充満する。それは、三年間このコートで流し続けてきた努力の証であり、同時に敗者の烙印のような匂いでもあった。私は膝を抱え込み、暗闇の中で瞳を閉じる。瞼の裏に焼き付いているのは、最後のリターンの軌道だ。あと少し、手首の返しが早ければ。あと一歩、踏み込みが深ければ。無意味な仮定が、壊れたレコードのように頭の中で繰り返され、思考を責め立てる。
不意に、遠くから軽やかな笑い声が聞こえてきた。それは、私たちがいるこの張り詰めた予選会場とは明らかに異質の、底抜けに明るく、享楽的な響きを持っていた。私はタオルの隙間から、声のする方へと視線を向ける。
道路を挟んで隣接する大学のテニスコート。そこでは、色とりどりのウェアに身を包んだ大学生たちが、男女入り混じってサークル活動に興じていた。彼らにとってのテニスは、勝利を渇望して身を削る戦いではなく、青春を彩るコミュニケーションツールなのだろう。楽しげにラケットを振り、ミスをしても笑い合い、ベンチでは男女が身を寄せ合って談笑している。その光景は、あまりにも鮮やかで、残酷なほどに楽しそうだった。
フェンス一枚を隔てた向こう側は、あまりにも眩しく、そして遠かった。私たちが必死にしがみついていた「部活」という世界が色褪せて見えるほどに、彼らの姿は自由で、大人びて見える。引退するということは、あのフェンスの向こう側へ行くということなのだろうか。今の私には、その境界線が途方もなく高く、越えられない壁のように感じられた。あちら側に行けば、この胸の痛みも消えるのだろうか。それとも、この喪失感を抱えたまま、あのような笑顔を浮かべなければならないのだろうか。
私は右手のひらを開き、じっと見つめた。マメだらけで、日焼けしてゴツゴツとした手。ラケットを握り続けてきたこの手は、女の子らしい柔らかさとは無縁だ。爪も短く切りそろえられ、指先は硬くなっている。この手で掴み取ろうとしていたものは、結局何だったのだろう。全国大会への切符も、仲間との勝利も、指の間から砂のように滑り落ちてしまった。残ったのは、痛みと疲労、そして行き場のない空白だけだ。
ふと、胸の奥で燻っていた感情が形を成す。先輩。瀬戸先輩。かつてこのコートで、絶対的なエースとして君臨していた人の顔が脳裏に浮かぶ。厳しい練習の合間に見せる、あの一瞬の笑顔。私のプレーを褒めてくれた時の、大きく温かい手のひらの感触。先輩なら、今の私になんて言うだろうか。「お疲れ」と笑ってくれるだろうか。それとも、「情けない試合をしたな」と呆れるだろうか。
私は無意識のうちに、観客席のフェンス際を目で探していた。もしかしたら、見に来てくれているかもしれない。そんな淡い期待が、空虚な心に小さな灯をともす。先輩はもう大学生で、ここは関係のない場所だと分かっているのに。それでも、視線は必死に彼を探していた。
しかし、立ち並ぶ観客たちの人波の中に、あの懐かしい姿は見当たらない。保護者たちの心配そうな顔や、他校の生徒たちの姿があるばかりだ。当然だ。大学生になった先輩には、先輩の新しい生活がある。引退した部活の予選なんて、わざわざ見に来るはずがない。分かっていたはずなのに、胸の奥がチクリと痛んだ。試合に負けた悔しさとは違う、もっと個人的で、切実な痛み。心臓がきゅっと縮まるような、呼吸が浅くなるような感覚。
私は再びタオルを深く被り、外界との繋がりを断ち切った。暗闇の中で、自分の心臓の音だけがうるさいほどに響いている。ドク、ドク、と脈打つたびに、身体の熱が内側に篭っていくようだ。熱を持った身体はまだ冷めそうにないけれど、私の夏は、この残酷な日差しの中で静かに息を引き取ろうとしていた。これからの私は、何を目指して走ればいいのだろう。答えのない問いだけが、汗と共に肌にまとわりついて離れなかった。
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