第7話 タンスターフル(5)

 美容室のドアが閉じるや、僕は恨みがましい気持ちで月之宮さんに物申した。


「びっくりさせないでよ、月之宮さん。彼女に美容室代を奢らせる彼氏がどこにいるのさ……」


 座りっぱなしだった月之宮さんは、猫のように大きく伸びをし、事も無げに答えた。


「奢りじゃないよ、あれは。花房くんが魅力的な男性になれば、それは恋人である私の利益にもなる。そのために花房くんが普段行かない美容室に連れてきたんだから、やっぱりあの場は私も払うのが合理的だったよ」


 もっともらしいことを言ってるけど屁理屈じゃないか。僕が損する話じゃないから強く出られないんだけど。

 通りがかったビルのガラスに映る自分は、やはり一時間前とはまるで別人だ。

 気持ちの昂ぶりに当てられてか、さっき歩いたばかりの街がやけに色づいて見える。


「格好よくしてくれたマリンさんに感謝だよ。ダサ男のまま月之宮さんに支払わせる羽目になったら笑い話にもならなかった」

「その時はその時。局所的に損をしても、トータルで得をすればいい。ビジネスってのはそういうものだから」

「あくまで月之宮さんにとっては全部ビジネスってことですか……」


 名目上とはいえ恋人とのお出かけで堂々ビジネスの話。

 どこまでもブレない月之宮さんの姿勢には苦笑しかない。不思議と悪い気はしないけど。

 ビジネスといえば気になることがあったような……と僕は記憶を遡り、月之宮さんに訊いた。


「あの、さっき月之宮さんが言ってた……タンス何とかって?」

「英語の格言だよ。『There Ain't No Such Things As A Free Lunch.』、単語の頭を取ってTANSTAAFLタンスターフル

「ぜ、ぜあ……?」


 流暢な発音を聞き取れなかった僕に、月之宮さんは丁寧に和訳を添えてくれる。


「意味は『無料のランチなど存在しない』。古いSF小説のキーワードなんだけど、経済学の重要な概念としても知られてる」

「え? でも喫茶店のモーニング無料とか、ホテルの朝食無料とか、いろいろある気がするけど……」


 ランチとモーニングだから別物扱い? というアホな話では当然なかった。


「それはドリンクとか室料に食事の料金が含まれているんだよ。炊き出しとか子ども食堂みたいなのも、主催者が寄付を募ったり身銭を切ったりするから成立する。山奥での自給自足だって、お金の代わりにたくさん時間と労力を費やしているって意味では『対価を支払っている』んだ」


 日本語で例えるなら、『働かざる者食うべからず』とか『タダより高いものは無い』……みたいな話か。でも確かにタンスターフルの方がスマートで格好いいな。

 月之宮さんは足を止め、人工物で溢れ返る小綺麗な街を見回して言った。


「この世の全ては、誰かが対価を支払って成り立っている。何もないところから勝手に欲しいものが湧いてくることはない。だから世界にはビジネスが必要なんだ」


 月之宮さんのビジネスという言葉に、嫌味な響きを感じない理由が、ようやく分かった気がする。


 月之宮さんは、ちゃんと気付いているんだ。

 ポイ捨てしたゴミが消えて無くならないことも、切れた備品が勝手に補充されないことも、サボった仕事がうやむやにならないことも。

 当たり前のことだけど、多分僕を含めたみんなが忘れがちなことだ。


 月之宮さんの言う〝ビジネス〟は、そういう陰で苦労を強いられている人たちへの敬意を含んでいるんだ。

 『お金こそが誠意』とは言うけれど、誰からも感謝されず気付かれもしないのは、きっとタダ働きの次くらいに悲しい。

 月之宮さんのことをもっと知りたい、その一心で僕は尋ねた。


「ねぇ、月之宮さんがそうまでビジネスにこだわるのには、何か理由があるのかい?」

「ビジネスを極めることは、他人と対等に渡り合うことだから」


 それは一言一句を噛み締めるような、したたかな台詞だった。

 どこか遠くを見るような月之宮さんの瞳には、同級生とは思えないほどの強い光が宿っている。率直に言ってめちゃくちゃ格好いい。


「私は早く大人になりたいんだ。お金が欲しいとか、尊敬されたいとか、そんなんじゃない。日本中、世界中のいろんな人と話がしたい。それだけなの」

「な、なんかスケールがすごく大きい話だね……」

「一度きりの人生だもん、目標は大きく持たなくちゃ。簡単に達成できたら面白くないでしょ?」


 月之宮さんは相好を崩し、軽く片手を振った。こういう振る舞いは普通の女子高生なんだけどな。

 再び歩き出した月之宮さんは、後ろ手を組んで空を仰ぐ。


「だけど、漫然と生きていたって誰も私みたいな小娘なんか相手してくれない。強い立場の人と対等に話をするには、相応の努力や対価が必要になる。それもまた〝タンスターフル〟、あれはいろんな物事に通じる格言なんだよ」


 月之宮さんにとって、〝タンスターフル〟は戒めや座右の銘のようなものなのだろう。

月之宮さんの人生に大きな影響を与えたその小説に、僕も興味が湧いた。


「その〝タンスターフル〟が出てくる小説、何て言うの?」

「『月は無慈悲な夜の女王』ってタイトル。作者はロバート・ハインライン、SF小説の世界的大御所だね」

「タイトルだけは聞いたことあるような……」

「パロディでもよく使われる有名なタイトルだからね。興味あるなら明日学校で貸してあげる。古くて長い小説だからちょっと読むの大変かもだけど」

「全然気にしないよ。むしろその方が長く楽しめてお得感ありそうだ」

「……ふふっ」


 何気なく発した僕の一言に、月之宮さんは小さく噴き出す。

 不思議に思って顔を向けると、月之宮さんはあどけない笑顔で言った。


「今どき貴重だよ。これだけタイパがどうのと言われてる時代に、そんなポジティブな考え方ができるのは」


 * * *


 いつもなら憂鬱な月曜日だけど、今日に関しては僕は朝から浮かれ気分だった。

 教室前で出くわした戸崎くんに、自分から挨拶するほどに。


「おはよう、戸崎くん」

「おっす……えっ!? 花房!?」


 眠たげな戸崎くんは、僕を二度見し、裏返った声を上げた。

 まじまじと僕を見つめ、困惑と賞賛の入り混じった表情で尋ねてくる。


「おいおい、どうしたんだよ。イメチェンか?」

「うん。か、彼女できたし、ちょっとは身なりに気を遣おうかなって」


 僕は髪の先をいじり、照れ笑いを浮かべた。

 ちょっとは見直してもらえると思っていたけど、ここまでのリアクションをされるとさすがに恥ずかしい。先週までの僕はどんだけひどかったんだ。

 戸崎くんは親友ヅラで肩を組み、陽気にスマホの画面を見せつけてきた。


「なんだよ、花房も結構やるじゃねーか! 気に入った、俺のイチオシの男作りチャンネル教えてやるよ!」

「は、はぁ……」

「戸崎ー、何騒いでんのー?」

「おう見てくれよ、俺の花房くんがさぁ……」


 戸崎くんに引きずられ、僕は見世物のようにクラスメイトの挨拶回りをさせられてしまう。

 一軍女子とのすれ違いざま、僕は彼女たちの囁き声を聞いた。


「花房くん、あんなに格好よかったっけ……?」

「恋すると人は変わるっていうけど……」

「いや変わりすぎでしょ、凛久どんだけ見る目あんの……」


 みんなの注目を一身に浴びながら、月之宮さんはしたり顔で胸を張った。


「どやっ? 私の花房くんは結構すごいのだぞ」


 * * *


 下校時の昇降口で、月之宮さんは僕の肩を叩き、嬉しそうに言った。


「すっかり大人気だね、花房くん。ビジネスは大成功だ。……あれ? 花房くん、あんまり嬉しくなさそう?」


 訝しむ月之宮さんに、僕は疲弊した首を懸命に横に振ってみせる。


「い、いや、そりゃもちろん嬉しいよ……ただ、人とこんなに話すの初めてだから……めちゃくちゃ疲れちゃってェ……」


 多分今日だけで優に一ヵ月分の言葉を発したぞ。陰キャ大変身の直後で物珍しかったせいもあるだろうけど。

 額の汗を拭い、人心地ついた僕はしみじみと呟く。


「なんていうか、僕さ……これまでクラスのパリピとか陽キャのことを心の中で見下してたんだよ。『見た目に恵まれた奴は好き放題騒げていいご身分だな』って。でも、見た目を良くするのも、人と楽しく話すのも、実はすごく大変なことなんだね」


 ろくに身なりを整えず人と関わらなければ、孤独でも仕方ないと思える。

 だけどそれらを徹底した上で孤独を強いられれば、もう言い訳の余地はない。

 僕は無意識のうちに、一番気楽で傷付かない道を選んでいたんだ。


 他人に好かれる人は、見えない所で好かれるための努力をしたり、嫌われるリスクを負っている。

 その視点をすっ飛ばして他人を妬んだり、『生きる世界が違う』と諦めたりするのは筋違いだったのかもしれない。


 タンスターフル。何もせず美味しい思いにありつくことはできないんだ。


 ……まぁ、それはそれとして戸崎くんにパシられたのは一生根に持つけど。


「ありがとう。月之宮さんのおかげで、僕の世界はすごく広がった気がするんだ」


 言いながら僕が右手を軽く掲げると、月之宮さんもまた右手を掲げ、ハイタッチとともに声を弾ませた。


「いいね。君はどうやら、私が思う以上に伸びしろがありそうだ」

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