文じハッ!
八島清聡
第一次文字破 <序>
その日の朝、
武浩を叩き起こしたのは、妻の
「あなた、タイヘンよ。ジが、ジが……きえちゃった。ナニもないのよ。ゼンブがゼンブ、ムシクいになってんのよ」
「……ジ? ムシ? なに、ムシがでたの?」
寝ぼけまなこを擦りながら、武浩はむくりと身を起こした。
「ムシくらいでオオゲサな……。というかジじゃなくてガじゃないの? あ、Gのこと? ゴキブリ?」
武浩の呑気な声に麻衣子は思わず叫んだ。
「ちがうって、ジ。カンジ、カンジ! カンジがないの、きれいさっぱりないの」
麻衣子は手に持っていた小さなプラスチックボトルを、武浩に突き付けた。赤い蓋のついたボトルの側面には、白のラベルが貼ってある。中には黒い液体が半分ほど入っている。
「ミて、これをヨんでよ」
ボトルを受け取った武浩は、促されるままにラベルに目を凝らした。
そこには、多くの市販品がそうであるように品名や原材料名や成分表示が細かい字がびっしりと……書かれてはいなかった。
***
のあごだし
の から を めて
「あごだし」は、 のこもった
の をご にと り が めた
りの です。 は えめで、 、かけ 、
なべ 、 にでも う です。
***
「なんだこりゃ?」
何かの暗号だろうかと武浩は思った。
文字の大きさやデザインからして品名とキャッチコピーのようだが、まるで意味がわからない。空白部分が多すぎて文章になっていない。著しい歯抜け、虫食いもいいところだ。
印字されたバーコードの横も見た。おそらく原材料名が書かれているのであろう四角の枠線内も、殆どが空白である。「しょうゆ」「かつお り 」「アミノ 」「100ml」といったひらがな、カタカナ、算用数字、アルファベットがぽつぽつと浮かんでいる。
武浩は念のため、ボトルの蓋を外すと中の液体を嗅いでみた。ツンと鼻孔を刺すような匂いがする。
「これは……ショウユだよな」
「そうよ、キノウのナベでツカったあごだしショウユ。おカアさんがオクってきたの。キノウまでフツウでなんともなかったのに、さっきミたらこうなってたの」
あごだし醤油は、神戸に暮らす武浩の母が送ってきたもののようだった。
麻衣子は何かに怯えるように声をひそめた。
「これだけじゃないから。ゼンブキえてるの」
「ホントウに?」
「そう。スベてのカンジが、ない」
「つまり、オきたらカンジがメイヨー?」
武浩は大学時代にとっていた中国語の講義を思い出し「
「そう、ナニもナイヨー。……ってふざけないでよ」
思わず笑いかけた麻衣子は引き戻すように真顔になり、叩くふりをする。顔は真剣そのもので冗談を言っているようには見えない。
「とりあえず、ごはんツクるわ。わけがわからないけど、なにかしてないとアタマがおかしくなりそう。ひとみをミてて」
麻衣子はふらふらと立ち上がると、キッチンへ向かった。何はともあれ家族のために朝食を作る気でいるようだ。
武浩は、音が聞こえてくるリビングへ行った。
テレビがついており、すでに起きていた長女のひとみが画面をじっと眺めている。ひとみは4歳で、毎朝7時から放送されるアニメ「ゲンゲン☆元気ちゃん」を楽しみに観ていた。
ところがアニメは急遽中止になったようだ。生放送の緊急特番に切り替わっている。
画面の下にはでかでかと「 の える、 サイバーテロか」の歯抜けテロップが表示されている。スタッフの叫び声や機器がぶつかるような音が聞こえ、スタジオ内は騒然としている。
しばらくすると「コクナイのカンジきえる、ダイキボサイバーテロか」という文章に切り替わった。
アナウンサーは、ADから渡された原稿を困惑気味に眺めている。判読に時間がかかっているようだ。
武浩は娘の背後につっ立ったまま、ニュースが始まるのを待った。やがて原稿を読み終わったアナウンサーが重々しい口を開いた。
「えーケサガタからハッセイしてるゲンインフメイのカンジショウシツゲンショウですが、イマハイってきたジョウホウによりますと、セイフはサキほどからキンキュウカクリョウカイギをヒラき、タイオウをシンギチュウとのことです。ダイキボサイガイやテロのゼンチョウであるカノウセイもイナめないため、ヨキせぬソウランがオきたバアイはジエイタイのハケンもケントウするとのことです。ゲンザイ、ありとあらゆるヒョウジバン、インサツブツからカンジがショウシツし、ヒョウキがフカノウになっています。ソトにデるとオモわぬジコにマきこまれるオソれがあります。ホンジツはフヨウフキュウのガイシュツはサけ、コエをかけあってレイセイにコウドウするようにしましょう」
アナウンサーは神妙な面持ちで、同じことを何度も繰り返した。
いつまで経ってもアニメが始まらないことに、ひとみは焦れた。武浩の方を振り返ると顔をしかめ、不満げに言った。
「パパ、いつになったらゲンキちゃんはじまる?」
ニュースの理解が追いつかない武浩は、うわの空で答えた。
「うーん、キョウはないんじゃないかな……。これは、ちょっとね。ゲンキちゃんどころじゃないかも」
「え~! やだ、そんなの。つまんないよ」
頬を膨らませてふて腐れる娘はそのままに、武浩はテーブルの上に置いてあるノートパソコンに飛びついた。
電源を入れて立ち上げると、確かにところどころの漢字が消えている。フォルダ名もカラになっており、データの中身がわからなくなっている。
ニュースサイトへ飛ぶと、どのページも空白だらけの意味不明な文字列が並ぶばかりだ。
公官庁の公式サイトやSNSなども同じだった。漢字だけが消えるという異常事態に対応し「きんきゅうメンテナンスちゅう」として非公開にしている企業サイトもある。スマートフォンもいじってみたが同様である。
「ネットもダメか。カンジのデータベースがハカイされたのかな」
武浩は、ぐるりと室内を見渡した。
そしてテレビやネットだけでなく、目に入るありとあらゆるものから漢字が消えていることに気がついた。
テーブルの上に放置されたお届け伝票や郵便物、スーパーのレシート、会員カード、壁にかかったカレンダーやポスター、額縁入りの賞状、薬の瓶など、日本語の文章や単語から漢字だけがきれいさっぱり消えている……ようだ。いまいち確信が持てないのは消えてしまった以上、元は何が書かれていたのかわからないからだった。
呆然とする武浩に「トウさん」という、遠慮がちな声が聞こえた。
振り向くと10歳になる長男の
「どうしよう、キえちゃった……。シュクダイが。ガンバってやったのに」
武史は学校から宿題として出された社会や国語とおぼしきプリントを見せた。
武浩が見ると、名前欄も問題文も解答欄も漢字で書いてあったとおぼしきところは空欄になっている。
印刷物のみならず、昨夜鉛筆で書いた手書きの漢字も消えたらしい。
武浩はくらくらと眩暈を覚えながらも、なんとか声を絞り出した。
「これは、そうだな……。メンドウだけど、もう1カイコタえをカくしかないんじゃないか」
「うん、ボクもそうオモったんだけど」
武史はそこで首を左右に大きく振った。
「ダメなんだよ。ナンドタメしてもカけない。ジをカこうとしてもカけない。カこうとするとテがウゴかない」
「……ウソだろ」
驚愕のあまり、武浩の声は掠れた。これはとんでもないことになったかもしれないと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。