だいいちじもじは <ハ>
とにもかくにも、武浩は仕事へ行くことにした。
彼は地方公務員で、家族と暮らす埼玉県
地震や水害、火山噴火など命に係わる危機が迫っているわけではないが、漢字が消えるという前代未聞の緊急事態である。現時点では自宅待機の命令も来ていないし、不安に思っているであろう市民のためにも職場に行かなくてはならない。
市役所は阿季嶋駅から徒歩数分のところにあり、いつもは最寄りの北阿季嶋駅から一駅乗っていく。だがSNSの投稿を見る限り、混乱や事故を防ぐために公共の交通機関は止められたようだった。電車は動いておらず、そのことを知らない乗客で駅周辺は混雑しているだろう。
安全のためにも職場には自転車で向かうことにした。
外に出た武浩は自宅マンションのドアの前で、何も書かれていないまっさらな表札を眺める羽目になった。
表札には「渡邊」と印刷されていたのだが、漢字であるため消えている。1階の郵便ポストも同様だった。これでは誰が住んでいるのかわからない。
スーツ姿で自転車をこいでいると、公園があり見慣れた石碑の前を通りがかった。
確か市が建てた記念碑で、松尾芭蕉の俳句を刻んだものだったと思うが、石碑に刻まれた漢字は消え、ひらがなのみが残っていた。
武浩は自転車を降りると、そろそろと石碑に近づき、その表面をなぞってみた。石はかすり傷一つなくつるりとしている。最初から文字など刻まれていなかったように。
「ホったモジもダメなんだな」
武浩は軽く嘆息した。凹凸に加工された漢字も消えたなら、もうサイバーテロでは説明がつかない。漢字とその痕跡だけを徹底的に消し去るという人智を越えた怪奇現象だ。
日本全国にある記念建造物、史跡、墓石、定礎のたぐいは、その歴史的な価値と意味を失ってしまっただろう。
阿季嶋駅に近づくにつれ、道路は混雑し始めやがて渋滞になった。先がつかえているのか、多くの車が通りで動けなくなり、立ち往生している。
武浩は各所に立つ空白だらけの看板や道路標識を見て、渋滞の原因を察した。日本の地名や通りは大半が漢字表記である。案内板も道路標識もローマ字やひらがなの併記がない限り、まったく役に立たない代物と化していた。
地図はただの地形図となり、ごっそり地名が消えた以上はカーナビや地図アプリも使えない。
車に乗って移動している人たちは、この辺りの地理や道路事情に明るくない限り、今自分がどこにいるのか、どこへ向かえばいいのかわからなくなっているに違いない。
道に迷って右往左往する車両や人々を横目に、武浩はなんとか市役所に辿り着いた。
職員の多くが出勤できないでいるのか、どの部署も人影はまばらだった。4階にある産業振興課に入ると、
慶太は武浩を見ると、幼さが残る顔にホッとした表情を浮かべた。
「ああ、シュニン。コれたんですね。よかった。オレヒトリでどうしようかとオモって」
「カチョウは? ホカのやつらもコれてないのか」
「カチョウからはさっきデンワがあって、クルマでムかっているそうです。でもトナイズみだからジカンかかるでしょうね。ホカのヒトもオクれるかと。デンシャもバスもトまってますし」
「マイったな……」
頭をかきながらも、武浩はパソコンを立ち上げ、試しにキーボードを叩いてみた。
ローマ字入力、かな入力は問題なくできる。しかし、いくら変換キーを叩いても漢字変換はできなかった。意味がわかっていないものも含めて漢字は10万字ほどあるとされるが、そのデータベースごと消失したのかもしれない。
しばらくして武浩の口をついたのは、うーんという間の抜けた声だった。
「なんでこんなおかしなことになったんだろうな。カンジだけがキえるなんて」
慶太が自身のスマホを操作しながら寄って来た。
「DoSコウゲキのヘンシュだとしても、スクなくともチュウゴクがシカけたわけではないでしょうね。カンジがキえて、あちらはニホンイジョウにダイコンランみたいですし。アメリカ、ロシアあたりがやったカノウセイはあるかも」
「カンジがキえたのはニホンだけじゃないのか?」
「おそらく。BBCがソクホウダしてます」
慶太は英語で検索して出したBBCの記事を見せた。
Breaking newsと「Chinese characters “Hanzi”is all disappearing.」という見出しが躍り、北京や上海、台北にいる特派員が現地の一変した状況をレポートしていた。
「カンジブンカケンはノキナみやられたようです。チュウカケンのケイザイテキ、ブンカテキなソンシツはニホンのヒじゃないでしょう。ホンもショルイもネットもモジどおりゼンブがハクシになってるでしょうし。クニやレキシそのものがフっとんだようなもんです」
そういえば街中で見かける標識には、中国や台湾で使われている簡体字や繁体字が併記されたものもあった。それらも一緒に消えたということは、漢字と認識されている字すべてが消滅したのか。
日本も、漢字を喪失したことによる社会的混乱を思うと頭が痛くなってくる。
「とにかくシカクジョウホウはあまりイミがない。オンセイジョウホウだ。テレビをつけよう」
慶太は、はいと神妙に頷き、普段は仕舞ってあるテレビを台ごと引っ張ってきて電源を入れた。武浩はソーラー電池で動く災害用のラジオを引っ張り出して、スイッチを入れた。
どの局も漢字が消滅した件について、大々的に報道している。
どうやら武浩が移動している間に各地で交通事故が多発し、政府は非常事態宣言を発令したようだった。
一般市民に対しては、戒厳令の一歩手前の外出禁止令が出ている。
公務員とエッセンシャルワーカー以外は原則自宅待機となり、保育園や幼稚園、小学校以外の上級学校、各種専門学校もすべて休校になった。
学生が登校したところで、体育や外国語、野外学習以外は授業にならないからだろう。店舗もその多くが自主的に休業を決めたようである。
テレビの画面には常時ひらがなと英文で字幕が流れ、手話がつき、アナウンサーが淡々と話している。
「セイフはコンカイのジタイを、ミゾウのモジサイガイ、ゲンゴのハカイコウサク『モジハ』とナヅけ、カンジのフッキュウおよびダイタイをモサクしており――」
「……モジハ。モジハか」
と武浩は小さな声で呟いた。
彼の脳裏には、即座に漢字の単語が浮かんだ。
これはおそらく文字の破壊を略した「
武浩はペンを持ち、机上の紙を引き寄せた。忘れないように、文字破とメモしておこうと考えた。
ところが、いくら手を動かしても書くことができない。漢字を意識して書こうとすると、手は動かなくなる。「もじは」「モジハ」「MOJIHA」とは書けた。「もジHA」もいける。だが、不思議な力が作用するのか漢字だけはどうしても書けない。
武浩の動きに気がついた慶太が、手元を覗き込んでくる。
「ああ、シュニンもですか。オレもタメしたんですけどてんでダメでした」
「カンジはカけない。もうカンゼンにケされたってことなのか。オレたちのキオクのナカにしかソンザイしないジ……? なんだそれ」
文字の形の記憶はあっても、文字で表現できないのなら、その存在は証明できない。
何もないのと同じだ。漢字はこの世界に最初から存在しないものになったのか。
今現在、世界で使われている言語は7000種類ほどあり、その元を辿っていくと古代エジプトのヒエログリフか漢字になるという。
漢字は、現代でも使われている世界最古の表意文字である。いわば現存する言語の遠い先祖のようなもの、双璧の一つなのだ。
突如として押し寄せてきた文字破は、漢語や漢字が何千年とかけて築いてきた文明を破壊しようとしているのか。そう考えると、武浩はゾッとしないでもなかった。
不意に階段の方から「おーい、いるやつはゼンインアツまってくれ」という声が聞こえた。
上で対応を協議していたらしき副市長たちが、出勤できた職員を集めている。
このままでは業務を開始できないので、市役所も臨時休館するという。
職員は歯抜けになった各種申請書類をひらがな、カタカナ、ローマ字に置き換える作業をすることになった。書類を回収し、手書きで書き加えたり、印刷し直したりする。その日は上役も総動員で、置き換えの作業に追われた。
午後の2時を過ぎた頃、武浩はやっと昼休憩に入ることができた。とりあえず食事をと思い、近くのコンビニに入る。ラベルの文字が殆ど消えている弁当とお茶を持ってレジへ行きカードで決済しようとした。しかし、何度やってもエラー音が鳴る。確認すると、クレジットカードはすべて止められてしまっていた。カードに紐づいたサービスも利用できなくなっている。
店員はすまなそうに「ミナさん、そうなってます」とだけ言った。
なんとか持ち合わせの現金で支払い、店を出るとスマホにメッセージが来ていた。麻衣子からだった。
「ぎんこうのカードとめられた おかねおろせない」と書いてある。
カードの差し止めや口座の一時的な凍結は、渡邊家だけではなく、日本全国津々浦々で起きていた。住所や氏名(漢名)が消えてしまったため、本人確認書類やデータも無効となってしまったからである。
セキュリティ面に重大な問題が生じるため、口座を開いた本人が直接カード会社や銀行へ行って本人確認作業を終えるまでは、カード類は使えなくなってしまった。
一般市民は、本人確認や生体認証の登録のために店舗や金融機関に足を運ぶ羽目になった。金融市場は大混乱で、先行きの不安から円は一気に売られて大暴落した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。