フィオナ・ミルヴァネンは話しかける

「あの、シャルル先生!」

「何でしょう」


 十数分後、廊下。何者かがシャルルへと声をかけた。彼が振り向けばそこには、一人の女性がいた。早歩きだったのだろう。息を少し整えながら、目線を上げる。金色の絹糸のような髪がだらんと垂れる。振り向いてくれたシャルルに対して、明るい表情を見せながら、女性は口を開く。


「私はさっきのシャルル先生、間違ってないと思います。あなたは否定しましたけれど……」


 彼女……。フィオナ・ミルヴァネンは開口一番そう言った。最初にこれを必ず言ってやるんだと、最初から決めていたようだった。


 フィオナはアトラスゲイルの現状に染まっていない、ほとんど唯一の人間だ。シャルルの後輩にあたる。自分より年下の教師も、彼女ぐらいしか知らない。金色の髪の毛が太陽に反射すると、きらきらと宝石のように光るため、にこにことした様子も含めて優しく温かい、太陽のような印象を与える女性だった。


 そんな彼女がシャルルに向かって間違っていないといったのは、少し前の出来事のことだ。あの時、アトラスゲイルの現状を聞き出し、記した紙の束が燃やされた後、哄笑と蔑視の言葉を聞きながら立ち上がったのが、フィオナその人だった。周りからいろいろ言われて困惑している中で、シャルルにとどめを刺されて押し黙ってしまったけれど。それでも、彼女は目の前の青年が悪いことをしたとは思っていなかった。


「あの場にいた人間として、勝手に立ち上がって言ってしまったことは謝罪したいとおもいましたっ」


 フィオナはそう言いながらシャルルの目を見る。両の目はどことなく昏い。どことなく、肌色もくすんでたりして、疲れている、くたびれていると。フィオナの目からでもそう感じられるほどだった。


「それでも、ちゃんと面と向かって言えているシャルル先生を、私はすごいと思いました。肩を持ちたくなりました。だって学園長ですよ。学園で一番偉い人なんですっ。そんな人に面と向かって言える勇気なんて私はとても……」

「フィオナ先生」


 ふう、と軽く息を吐きながら、シャルルはフィオナに問いかけた。彼女の言葉がピタッと止まるのを待って、言葉をつづける。


「それは違います。フィオナ先生。俺はすごくなんかない」


 その言葉は乾いたような声で、フィオナの心に届いた。


 歩きながら話しますね。と押し黙る彼女に向けて言い、ゆっくりと踵を返す。フィオナはパタパタと音を立てて隣に立った。


「正直なところ、俺は後悔してるんですよ。さっきのこと」

「!! 後悔……。ですか?」

「はい、強く後悔してます」


 フィオナは驚いた。先まで全力で言葉を伝えようとしていた、あのシャルルの言葉とは思えなかった。だが、シャルルの言葉は真剣そのもので、ふざけているという感じは一切ない。


 シャルルは続けた。


「少しは言ってやろうと思った。それは事実です。あの学園長は、アトラスゲイルの歴史のことしか言わないんだ。それが今の状況を招いたんだと、言いたかったのはあります。でも……」

「でも?」

「でも、紙の束を燃やされて、笑われて。そんな状態になったら。全て馬鹿馬鹿しくなって。やっぱりそうだよな。言うんじゃなかったと、全力で後悔したんです」


 そういうシャルルは、どこからどう見てもみじめな姿をさらしているようだった。くたびれたように体を丸めつつ、遠い目をしているその姿。そこから発せられるのは、あきらめと後悔。


 さっきまで話していた相手とは全く正反対の姿だった。現実にやられた、夢想家の夢の跡みたいな、ともすれば小さくなって消えてしまいそうな、そんな雰囲気さえ醸し出すよう。


「俺の言葉、間違っていると思いますか。フィオナ先生」

 

 シャルルの問いかけにフィオナは首を縦に振ることも、横に振ることもしなかった。ただ、フィオナは歩きながら、真剣な様子で目の前の相手を見る。その意味を知ったのか、シャルルは再び息を吐いた。そうして何かを吐き出して、シャルルは言う。


「顔に出てますよ。フィオナ先生の考え」

「えっ、出てましたか!?」

「まあそれも、合ってると思います」


 びっくりした様子でフィオナが言った。何も思わなかった。それが彼女なのだろうとは感じたけれど、それだけ。


「この学園は間違っている。その行動は正しい。そう思いたいのは、正直当然だとも思います。今のアトラスゲイルは、まさしくそんな感じだ。あの紙の束だって事実なんだ。たくさんの苦情は、普通に街を歩けば耳にします」

「……そう。ですね……。私の耳にも入ります」


 シャルルの言葉に頷く。それはほかならぬフィオナ自身も耳にしていたことだからだ。


 生徒や学校に対するいろいろな悪評。アトラスゲイルのうら若き教師としては、見過ごせないこともたびたび聞いている。あることないこと大体悪いことで、いろいろ言われて、陰口をたたかれて。睨まれたりもするから。それで心が傷ついたことは何度かある。特に新任のころは、一人になるとずっと泣いてたと思う。ここまで言われるんだって思って。


 だが、結局はそれをどうとらえるかだ。どうとらえるかで話は違ってくるはずだとフィオナは思う。シャルルは取り上げようとした。フィオナ自身は、その行動は悪いことじゃないと思ったから、支持した。でも、シャルルに言わせれば、そうではないということなのだろう。


「でも。それがみんなの耳に入ることはない。入れたくないことなんだから、仕方ないんでしょう。そういうのを暴こうとすること自体が、彼らにとっては悪だと思うわけですから」


 シャルルはいったん言葉を切る。次の言葉を選ぶかのように。だがそれも一瞬。フィオナが回答をする前に、再び言葉を紡いだ。


「だから学園長や先生たちからしたら、俺の行動は間違いなんです。俺は間違ったことをした。だから隠すし、あざ笑うんだ」


 間違い、とシャルルは言った。自分の行動は、間違いであると認めた。フィオナにとっては驚愕すべきで、驚くべきで。それでいて、おかしいことだった。


「……わからないですよ」


 どう言葉をまとめていいのかわからなかった。いろいろぐちゃぐちゃになりそうだったから。だからそう口にするのが精いっぱいだった。


「そんなの……。私にはわからないです。何が間違いか、正解かなんて。シャルル先生のことを純粋にすごいと思った私には、とても」

「俺もそうです。わからなくなっちゃうんです」


 それは二人の共通語のようだった。わからなくなってしまう。それはきっと、どちらの今の心を明確に伝える形容語。


「今の俺にあるのは、ただやってしまったことを後悔するだけ。勝手に期待して、勝手に沈んで。ああ、これが現実なんだ。現実のアトラスゲイルなんだって……諦めちゃうような。そんな感じです。無にしないとやってられないですよ、本当に」


 強く手を握りしめて、青年は言った。それは間違いなく、あきらめの境地から出た言葉だったのだろう。


「(あ……。やっぱり)」


 だがその言葉から、行為から。フィオナは別の感情を読み取った。


「(やっぱり、学校のためにちゃんと頑張ろうとしてる。シャルル先生の中には、ちゃんとした芯があるんだ)」


 そう思うと急に心がすっとするような感じがした。何もかも諦めてくたびれたような、そんな青年の心にも。その片隅に、ちゃんとしたものがあった。自分の考えが、間違っていないんだと、心の中で思う。


「(一旦しっかりと、話してよかったっ。話し合わないと、心の中はわからないから!)」


 もはやフィオナはシャルルに、ちょっとした憧憬を心の中で抱いていた。恋心、とはいかないけれど気になる、という感じ。話し合ってはっきりわかる。この人はいい人だ。もっと知りたいなと。自分でもちょろいなぁと思いながらも。その思いに引き寄せられてしまうのはきっと、当然のことなのだろうと思った。


「どうしましたか、フィオナ先生」

「いいえなんでもないですっ!?」


 どきっ!心が跳ねるような感覚を覚えながらも、フィオナはシャルルに言った。不意打ち、とは思わない。自分の油断が招いたこと。


「自分の講義の時間が近づいてきたので、ここでお別れですね」

「あ……。それはそうですね」


 そう言われて、フィオナもうなずいた。壁掛け時計を見れば、もう時間があんまり無くなっていた。教師が遅刻だって? そんなものあり得ない。


 ただ、ありえないけれど、どうしても、聞こうと思えたことがあった。


「あの! シャルル先生!」

「なんでしょう」


 問いかけたシャルル。少しだけ考えて、フィオナは言葉を紡いだ。


 とりあえず時間に間に合うように短く。


「シャルル先生は、どうして教師になろうとしたのですか?」

「……!」


 その言葉を聞いた瞬間。シャルルの表情がこわばるような、そんな感じがした。


「……え、あ……シャルル、先生?」

「…………」


 シャルルはフリーズする。フィオナは怖くなった、なんでだろう。その質問が、何を呼び込んでしまったのだろうとそう考えた。


「あ、あの……。言いたくなかったらいいですから、ごめんな……」

「………昔、いろいろあったんだ」


 しどろもどろになるフィオナに対して、シャルルはひとことぽつりと告げた。


「昔……?」

「ほんとに、昔の話だよ──」


 それだけ言ってシャルルは立ち去ってしまう。

 失礼します。という言葉だけを残して。


 後にはフィオナだけが残された。


「シャルル先生……」


 彼女は小さくつぶやきながらも、ちらりと壁掛け時計を見る。


「やばいっ、もうほとんど時間がないよ!」


 フィオナもまた、授業の方へと歩みを進めていく。歩みを進めながらも、結局考えるのはシャルルのこと。


 彼はいったい、何を持っているのだろうか。そう、考えながら。



 そう、昔々のはなしなのだ。

 本当に昔々のはなしだ。誰も覚えちゃいないだろうけれど、自分の頭の片隅にはいつだって残っている、そんな話。

 これがあるから、どんなことを言われても、どんな行動をされても。頭の中では諦めきれないでいるんだよ。

 心はもう、無にしないとやってられないんだけれどさ。


「すまねえな、教師さんよ。手が滑っちまってさ!」

「……別に構いませんから」


 教室の扉を開けて早々、不良の生徒に水をたたきつけられて顔面をびしょぬれにしながら.……シャルルはそう考えつつ、口を開くのだった。


「今日の授業を始めます。今日もまたいつも通りです」

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