第2話 陰陽師の屋敷
# 第二章
返事はすぐにあった。
「はい」
女の声だ。若い。澄んだ、よく通る声。
格子戸がゆっくりと開き、一人の娘が顔を出した。
神林は思わず息を呑んだ。
美しい、という言葉では足りない。娘は二十歳前後に見えたが、その整った顔立ちは、どこか人間離れしていた。肌は雪のように白く、透き通るような白さだ。黒い瞳は深い湖のように澄んでいて、神林を見つめるその視線には、不思議な吸引力があった。髪は丁寧に結い上げられ、ほつれ一つない。着物は質素だが、着こなしは完璧で、襟元も裾も寸分の狂いもなく整っている。
だが、何よりも神林を驚かせたのは、その雰囲気だった。美しさと同時に、どこか冷たさを感じさせる。まるで、冬の朝の空気のような、凛とした、近寄りがたい何かがあった。
「何か御用でしょうか」
娘の声は穏やかで、神林に向ける視線も柔らかい。だが、どこか距離を感じさせる丁寧さだった。まるで、見えない壁が一枚、二人の間に立っているような。
「あ、ああ」神林は慌てて名刺を取り出した。帽子を取るのも忘れていた。慌てて帽子を脱ぎ、頭を下げる。「帝都新報の神林と申します。こちらに、陰陽師の方がいらっしゃると伺ったのですが」
娘は名刺を受け取り、一瞥すると、にこりと笑った。その笑顔は、まるで雪解けの水のように、一瞬だけ温かさを見せた。
「はい。お待ちしておりました」
「待ってた?」
神林は訝しんだ。待っていた、とはどういうことだ。神林は、事前に連絡など入れていない。いや、そもそも、この家に電話があるのかどうかも知らない。
「はい」娘は微笑んだまま、格子戸を大きく開けた。「どうぞ、お上がりください」
神林は戸惑いながらも、娘に促されて家の中に入った。玄関に足を踏み入れた瞬間、ひんやりとした空気が肌を撫でた。外の暑さが嘘のようだ。玄関は綺麗に掃除されていて、埃一つない。下駄箱も磨き上げられ、床板も黒光りしている。神林は靴を脱ぎ、娘が差し出した下履きに足を通した。
「こちらへ」
娘に導かれて廊下を歩く。廊下もまた、塵一つ落ちていない。壁は真っ白で、天井の木材も丁寧に磨かれている。障子は破れ一つなく、畳の縁もきちんと揃っている。この家の主、あるいはこの娘が、相当な几帳面なのだろう。
応接間に通されると、そこにも一切の乱れがなかった。床の間には山水画の掛け軸がかかり、花瓶には季節の花が生けられている。紫陽花だ。まだ瑞々しく、今朝摘んできたばかりのようだった。座卓は艶やかに磨かれ、座布団は綺麗に並べられている。
「どうぞ、おかけください」
娘は神林に上座の座布団を勧めた。神林は礼を言って座ると、娘は下座に座り、丁寧に頭を下げた。
「お待たせいたしました。主人は今、少々取り込んでおりまして」
「取り込んで、ですか」
「はい」娘は申し訳なさそうに微笑んだ。「私がお話を伺います」
神林は眉をひそめた。陰陽師本人に会えないのか。それでは記事にならない。いや、待て。もしかすると、これも手口の一つなのかもしれない。客をはぐらかし、本人を神秘的に見せることで、ありがたみを増す。よくある手だ。
「いや、しかし」神林は少し語気を強めて言った。「陰陽師ご本人にお話を伺いたいのですが」
「主人は多忙ですので」娘はにこやかに、しかしきっぱりと言った。「私で宜しければ」
多忙、ね。
神林は内心で鼻を鳴らした。どうせ、客をはぐらかすための口実だろう。こういう手合いは見慣れている。適当に話を聞いて、いい加減なことを言って、それらしい雰囲気を出して金を巻き上げる。神林は、これまでそういう連中を何人も見てきた。霊媒師、祈祷師、占い師。どいつもこいつも、同じような手口を使う。
「わかりました」神林は諦めたふりをして言った。「では、あなたにお伺いします」
懐から手帳を取り出し、ペンを構える。娘は姿勢を正して、神林を見た。
「最近、帝都で不可解な事件が多発しています」神林は手帳にメモを取りながら言った。「消える少女、奇妙な死体、発狂する警官。これらについて、どのようにお考えですか」
「怪事件、ですか」
「ええ。警察も手を焼いているようですが」
娘は少し考えるような仕草をした。それから、静かに言った。
「あやかしの仕業です」
神林はペンを持つ手を止めた。
「あやかし」
「はい」娘は真面目な顔で頷いた。「妖怪、とも呼ばれますが」
やはり、か。
神林は笑いを堪えるのに苦労した。妖怪。この文明開化の世の中に、まだ本気でそんなことを言う人間がいるのか。いや、商売だからそう言っているのだろうが、それにしても時代錯誤だ。
「それは、根拠があってのことですか」神林はわざとらしく手帳にメモを取った。
「はい」娘は毅然として言った。「主人が申しておりました。最近、あやかしたちの動きが活発になっていると」
「ほう」神林はペンを走らせた。「では、その妖怪とやらを、実際に見たことは?」
娘は少し困ったように微笑んだ。それから、恥ずかしそうに言った。
「私は、実は、あやかしの一人でして」
神林はペンを持つ手を止めた。
「は?」
「私は主人に使役されている妖でございます」娘は静かに、しかしはっきりとした口調で言った。「ですから、あやかしを見るも何も」
ああ、こいつは重症だ。
神林は内心で舌打ちした。単なるペテン師ではなく、本気で妄想に取り憑かれているタイプか。それとも、完全に洗脳されているのか。どちらにしても、この娘は哀れだ。こんな美しい娘が、胡散臭い陰陽師の手先になっているとは。
これは記事のネタとしては最高だ。『警察が頼った陰陽師、使用人に妖怪を名乗らせる異常性』とでも書けば、かなり売れるだろう。写真が撮れれば、なおよかったが、まあ、文章だけでも十分だ。
「なるほど」神林は平静を装って言った。「では、あなたは何の妖怪なのですか」
「雪女でございます」
「雪女」
「はい」娘は頷いた。「もともとは東北の山奥におりましたが、主人に調伏されまして」
神林は鼻で笑いそうになるのを必死に堪えた。雪女。よりによって雪女か。まあ、確かに肌は白いが。それに、この妙な冷気も、演出の一部なのだろう。氷でも置いているのか、それとも、何か仕掛けがあるのか。
「それで、その、主人という方は、どのような方なのですか」
「とても優秀な陰陽師です」娘は誇らしげに言った。「天才と呼ばれておりまして」
「天才」
「はい」娘の目が、わずかに輝いた。「幼い頃から、数々の妖怪を調伏されてきました。その力は、この国でも随一だと」
「ほう」
「主人の才は、五行にも陰陽にも通じております。式神を操り、結界を張り、妖怪を使役する。その技は、まさに神業でございます」
神林は手帳にメモを取りながら、この娘がどこまで本気で言っているのか測りかねていた。その表情は真剣で、嘘をついているようには見えない。本気で信じているのだ。この娘は、本気で自分が雪女だと信じ、本気で主人が天才陰陽師だと信じている。
洗脳されているのか、それとも、本当に精神を病んでいるのか。
いずれにせよ、この家の主、陰陽師を名乗る人物は、相当な悪党に違いない。こんな美しい娘を騙し、妖怪だと思い込ませ、自分に仕えさせている。許し難い。
「その主人に、直接お会いできませんか」神林は少し語気を強めて言った。「読者の皆様も、本物の陰陽師のお話を聞きたがっていると思うのです」
娘は困ったような顔をした。
「それが、主人は本当に多忙でして」
「多忙って、何をされているのですか」神林は畳みかけた。「今、この瞬間も?」
「はい」娘は申し訳なさそうに頷いた。「重要な術の準備をしておりまして」
「術の準備」
「はい。あやかしを調伏するための、複雑な儀式でございます。到底、中断できるようなものでは」
嘘だ。
神林には、それがわかった。娘の目が、わずかに泳いでいた。ほんの一瞬だが、神林は見逃さなかった。この娘は、嘘をついている。いや、正確には、嘘をつくことに慣れていない。だから、こうして目が泳ぐのだ。
つまり、陰陽師は今、多忙なのではない。
では、何をしているのか。
神林は、この家の奥を見た。廊下の向こうには、いくつかの部屋があるようだ。そのどこかに、陰陽師がいるのだろう。
「わかりました」神林は手帳を閉じた。「では、また改めて」
「申し訳ございません」娘は深く頭を下げた。「必ず、主人にお伝えいたしますので」
神林は立ち上がろうとした。だが、そのとき。
廊下の奥から、だらしない足音が聞こえてきた。
ずるずる、ずるずる。
まるで、何かを引きずるような音。足を引きずっているのか、それとも、裾を引きずっているのか。
娘の顔が、一瞬、強ばった。
「あ」
娘は慌てて立ち上がろうとした。だが、遅かった。
襖が、勢いよく開いた。
「飯は」
そこに立っていたのは、神林がこれまで見たこともないほど、だらしない格好をした男だった。
年は三十前後か。いや、もう少し若いかもしれない。だが、その格好があまりにも酷いため、年齢がよくわからない。寝間着のような着物を羽織っているが、帯はゆるく、前ははだけている。胸元が見えている。無精髭が顎を覆い、もう何日も剃っていないのだろう、濃く伸びている。髪は寝癖で跳ね、あちこち向いている。目やにがついたままの目で、娘を見ていた。
「飯は、まだか」男は欠伸をしながら言った。大きく口を開け、喉の奥まで見えそうな欠伸だ。「腹が減った」
娘は、顔を真っ青にしていた。いや、もともと白い顔が、さらに白くなったようだった。
「あ、あの、主人」娘は慌てて言った。「今、お客様が」
「客?」男はようやく神林の存在に気づいたようだ。ぼんやりとした目で神林を見た。「ああ」
そして、そのまま、応接間に入ってきた。
神林は、思わず身を引いた。
この男、何なのだ。
いや、これが、陰陽師なのか。
天才陰陽師。
警察が密かに頼ったという、あやかし退治の専門家。
嘘だろう。
男は神林の反応など気にも留めず、応接間の隅に転がっていた煙管を拾い上げると、火をつけた。吸い殻が残っていたのか、すぐに紫煙が立ち上る。男は煙を吐き出しながら、面倒くさそうに神林を見た。
「で、何の用だ」
「あ、あの」神林は言葉に詰まった。「あなたが、陰陽師の」
「そうだが」男は鼻をほじりながら言った。その指で、鼻くそを丸めている。「何か用か」
神林は絶句した。
これが、天才陰陽師。
これが、数々の妖怪を調伏してきたという、五行陰陽に通じた男。
嘘だろう。
「主人」娘が慌てて言った。「お客様は、新聞記者の方です」
「ああ、新聞」男は興味なさげに頷いた。丸めた鼻くそを、座卓の下に弾いた。神林は、それを見て、吐き気を催しそうになった。「そういえば、雪が言ってたな。来るって」
「雪、というのは」神林は娘を見た。
「そうだ。雪女だ」男は煙管を吸いながら、当然のように言った。「便利だぞ、雪女は。夏でも涼しいし、冬は暖房代が浮く」
神林は言葉を失った。
この男は、本気で言っているのか。それとも、ふざけているのか。
いや、どう見ても本気だ。この格好、この態度。全てが、本気だ。
「あの、お伺いしたいのですが」神林は何とか平静を保って言った。「あなたは、本当に陰陽師なのですか」
「そうだが」男はあっさりと頷いた。「文句あるか」
「いえ、文句は」
「ならいいだろう」
「では、なぜ、そのような」神林は男の格好を見て、言葉に詰まった。「その、だらしない」
「だらしない?」男は自分の格好を見下ろした。それから、首を傾げた。「これが普通だろう」
「普通じゃありません」
「そうか」男は鼻をかんだ。指で、である。そして、その指を着物で拭いた。「まあ、いいじゃないか。家の中なんだし」
「家の中でも、客がいるのですから」
「客って、お前のことか」男はようやく神林をまともに見た。「別に、お前のために着替える必要もないだろう」
神林は頭を抱えたくなった。
この男、本物の駄目人間だ。
いや、駄目人間というレベルではない。これは、人間として最低ラインを下回っている。
「主人」娘、雪女が慌てて言った。「せめて、帯を」
「めんどくさい」男はきっぱりと言った。「今から飯だし」
「でも」
「いいだろう、別に」男は煙管を吸いながら、欠伸をした。「それより、飯は」
「今、すぐに」
雪女は立ち上がり、小走りで部屋を出て行った。その背中が、どこか悲しげに見えた。
神林と男だけが、応接間に残された。
気まずい沈黙が流れる。
いや、気まずいと思っているのは神林だけで、男は平然としていた。煙管を吸い、時折欠伸をし、髪を掻く。フケが落ちた。
「あの、先ほど、雪女の方が言っていたのですが」神林は気を取り直して言った。「あなたは天才陰陽師だと」
「ああ、そう言われてる」男はあっさりと頷いた。「まあ、事実だし」
「では、妖怪退治とか、そういうことを」
「やってるぞ」男は煙管を吸いながら言った。「面倒だから、最近はあまりやってないが」
「面倒、って」
「だって、面倒じゃないか」男は当然のように言った。「わざわざ出向いて、妖怪と戦って、調伏して。時間と労力の無駄だ」
「しかし、それが仕事でしょう」
「仕事はしたくない」男はきっぱりと言った。「働きたくない。できれば一生、寝て暮らしたい」
神林は開いた口が塞がらなかった。
こいつは、本物の屑だ。
いや、屑という表現すら生温い。これは、人類の恥部だ。文明社会の癌細胞だ。
「あの、では、どうやって生計を立てているのですか」神林は呆れながら聞いた。
「妖怪を派遣してる」男は当然のように言った。「調伏した妖怪を、各所に派遣して、その上前をはねてる」
「上前を」
「そうだ」男は煙管の灰を畳の上に落とした。神林は、それを見て、眉をひそめた。「妖怪は人間より働き者だからな。文句も言わないし、給料も安い。最高だ」
神林は言葉を失った。
この男、妖怪を労働力として酷使しているのか。いや、本当に妖怪なんて存在するのか。そもそも、この男の言っていることは、全て妄想なのではないか。
だが、仮に、妄想だとしても。
この男は、あの美しい娘を、雪女だと思い込ませ、自分に仕えさせている。そして、その労働の対価を、自分の懐に入れている。
これは、完全に搾取だ。ヒモだ。
いや、ヒモというのも、まだ生温い。これは、人間の屑だ。
「それで、最近は何をされているのですか」神林は記事のネタを集めるために、とりあえず話を続けた。
「何もしてない」男は即答した。「三日前に風呂に入ったきり、ずっと寝てる」
「三日前に風呂」
「そうだ」男は煙管を吸いながら言った。「めんどくさいんだ、風呂は。脱ぐのも、入るのも、出るのも、着るのも。全部めんどくさい」
「歯は磨いているのですか」
「三日は磨いてないな」
「三日」
「ああ」男は欠伸をした。口臭が、神林のところまで届いた。神林は、顔をしかめた。「だって、めんどくさいし」
神林は気分が悪くなってきた。
この男、本気で言っているのか。いや、どう見ても本気だ。この無精髭、この寝癖、この目やに。全てが、この男の怠惰さを物語っている。
「あの、では」神林は半ば呆れながら聞いた。「普段は何をしているのですか」
「寝てるか」男は指折り数えた。「色街に行ってるか、酒を飲んでるか、博打をしてるか」
「色街」
「ああ」男の目が、わずかに輝いた。「いい女がいるんだ。胸が大きくて、腰がくびれててな。肌が白くて、声がいい。あと、尻も」
「聞いてません」
「そうか」男は興味を失ったように、また煙管を吸った。「まあ、いいけど」
そのとき、雪女が膳を持って戻ってきた。
「お待たせいたしました」
膳には、炊きたての飯と、味噌汁と、焼き魚が載っていた。どれも丁寧に作られていて、見るからに美味しそうだった。湯気が立ち上り、味噌の香りが部屋に広がる。
「おお」男は目を輝かせた。「うまそうだ」
そして、箸を手に取ると、ものすごい勢いで飯をかき込み始めた。
まるで、何日も食べていなかったかのような食べ方。口いっぱいに飯を詰め込み、噛むこともそこそこに飲み込む。味噌汁をすすり、焼き魚を骨ごと食べる。その食べ方は、まるで獣のようだった。
神林は唖然としてそれを見ていた。
雪女は、申し訳なさそうに神林を見た。
「あの、お客様」雪女が神林に向かって言った。「お茶をどうぞ」
「あ、ああ、ありがとうございます」
神林は差し出された茶を受け取った。温かい緑茶。香りが良い。だが、神林は、それを飲む気になれなかった。目の前で、男が獣のように飯を食っているのを見ていると、食欲がなくなる。
「それで」男は飯を食べながら、口の中のものが見えそうな勢いで喋った。「何を聞きたいんだ」
「あの、行儀が」
「いいから、さっさと聞け」男は味噌汁をすすりながら言った。「飯が冷める」
神林は諦めて、手帳を開いた。
「では、最近の怪事件について、どう思われますか」
「ああ、あれか」男は焼き魚を骨ごと食べながら言った。「妖怪の仕業だな」
「妖怪の」
「そうだ」男は飯をかき込みながら言った。「最近、妖怪が荒れてる」
「なぜですか」
「さあな」男は味噌汁を一気に飲み干した。「俺が知るか」
この男、本当に何も考えていない。
神林は呆れながらも、メモを取った。これは、本当にいい記事になる。いや、最高の記事だ。『天才陰陽師の正体は極道の怠け者』『妖怪を酷使する鬼畜の男』『帝都の恥、陰陽師を名乗る詐欺師』。見出しはいくらでも思いつく。
「では、その妖怪を退治する予定は」
「ない」男はきっぱりと言った。「めんどくさい」
「めんどくさいって、人が死んでいるのですよ」
「そうか」男は無関心に言った。飯を食べながら。「それは気の毒に」
神林は頭を抱えた。
こいつは、本当に、どうしようもない。
そのとき、神林の脳裏に、ある記憶が蘇った。
昔、幼馴染がいた。神林が二十歳のとき、借金を神林に押し付けて、どこかに消えた男。あのときも、神林はこれほどの怒りと呆れを感じた。あの男も、働かず、遊び歩き、借金を重ね、最後には逃げた。
人間には、最低ラインというものがあるはずだ。
だが、この男は、そのラインを軽々と飛び越えている。
いや、あの幼馴染よりも、この男の方が酷い。
神林は深く息をついて、手帳を閉じた。
「わかりました」神林は立ち上がった。「お忙しいところ、ありがとうございました」
「おう」男は飯を食べながら手を振った。口の中のものが飛び散りそうだった。「また来いよ」
二度と来るか、と神林は心の中で毒づいた。
雪女が、神林を玄関まで見送ってくれた。
玄関で靴を履きながら、神林は雪女を見た。その顔は、疲れているように見えた。いや、疲れている、というより、諦めているような表情だった。
「あの」神林は思わず言った。「大丈夫ですか」
「え?」雪女は驚いたように神林を見た。
「あなた、あんな男に、騙されているんじゃないですか」
雪女は、一瞬、何を言われているのかわからない、という顔をした。それから、ふっと笑った。
「騙されている、ですか」
「ええ」神林は真剣に言った。「あなたは、雪女なんかじゃない。ただの、普通の女性です。あの男に、洗脳されているんです」
雪女は、首を振った。
「いいえ」雪女は静かに言った。「私は、雪女です。主人に調伏され、使役されている、妖でございます」
「しかし」
「ありがとうございます」雪女は微笑んだ。「お気遣い、嬉しく思います。ですが、私は、主人に仕えることを誇りに思っております」
神林は、それ以上何も言えなかった。
この娘は、完全に洗脳されている。
いや、洗脳というより、もっと深いものかもしれない。この娘は、心の底から、自分が雪女だと信じている。心の底から、あの男に仕えることを誇りに思っている。
哀れだ。
神林は、そう思った。
そして、同時に、怒りを感じた。
あの男に対する、怒り。
こんな美しい娘を、こんなふうに騙し、利用している。許せない。
神林は、必ずあの男を記事で叩いてやる、と心に誓った。
神林が門を出ると、ようやく新鮮な空気を吸えた気がした。
あの家の中は、どこか息苦しかった。いや、あの男のせいか。あの圧倒的な怠惰さ、無気力さ。あれに長時間触れていると、こちらまで腐っていきそうだ。
だが、いい記事が書けそうだ。
いや、最高の記事だ。
神林は手帳を眺めながら、すでに見出しを考え始めていた。
『帝都の恥部、陰陽師を騙る怠け者』
『警察が頼った男の正体は極道のヒモ』
『妖怪退治?笑わせるな、ただの詐欺師』
『美しい娘を騙し、妖怪と思い込ませる鬼畜の所業』
どれも良さそうだ。いや、全部使えるかもしれない。
神林は満足げに笑みを浮かべると、帝都新報社に向かって歩き出した。
その夜、神林は編集部で原稿を書いていた。ペンが、いつもより軽快に走る。言葉が、次から次へと溢れてくる。
あの男の醜態を、神林は余すことなく書き記した。だらしない格好、無精髭、寝癖、目やに。鼻をほじり、鼻くそを弾き、指で鼻をかみ、着物で拭く。三日も風呂に入らず、歯も磨かず、ひたすら寝て暮らす。色街に通い、酒を飲み、博打に興じる。そして、美しい娘を騙し、妖怪だと思い込ませ、労働力として酷使する。
最低男の見本のような男だ。
神林は、そう書いた。
そして、最後に、こう締めくくった。
『この男こそが、帝都の恥である。警察が頼った陰陽師の正体が、これである。我々は、こんな男に、我々の安全を委ねているのか。笑止千万である』
神林は、ペンを置いた。
これで、完璧だ。
明日、編集長に見せれば、きっと喜ぶだろう。
神林は、満足げに煙草に火をつけた。
だが。
煙草を吹かしながら、神林は、ふと、あの男の顔を思い出した。
あのだらしない顔。
あの無気力な目。
そして、あの、何もかもを諦めたような態度。
何か、引っかかる。
何かが、おかしい。
だが、何がおかしいのか、神林にはわからなかった。
ただ、一つだけ、確かなことがあった。
あの男は、何かを隠している。
神林は、それを確信していた。
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