❁︎02❁︎ 君の手を取りたい。
フェランは必死に息を整えながら、逃げるルネを追っていた。
「ルネ、待ってくれ!」
白いスカートの裾が、風光を受けて嫋やかに揺れる。黒髪は霞のように軽やかで、追いつけそうで追いつけない。だが、ルネはふと足を止める。ゆっくりと振り返った。
「……なぜ、追ってこられるのです?」
「俺が君を、必要としているからだ」
ルネは潤う瞳を隠すように、長い睫毛を伏せる。
「わたくしには、フェランの傍に立つ資格があるのでしょうか」
「当たり前だ!」
フェランは、差し出した掌ごと心臓ごと差し出す勢いで叫んだ。風が二人の間をすり抜ける。
どれだけ想い続けてきたか。
その全てを、言葉に乗せた。
「どうか……俺の元に来てくれないか、ルネ」
ルネは潤う瞳を隠すのも忘れて、顔を上げた。沈黙に、涙が散った。“拒絶”ではない。“決意”へ向かう揺らぎだった。優雅に手を重ね、応えた。
「……はい。フェランと共に、歩ませていただきますわ」
ルネが心から花笑うのを、フェランはようやく見れた気がした。やっぱり、胸を締め付ける程に綺麗だ。希望が、二人の間に静かに満ちた。
◇ ◇ ◇
だが、旅立ちは波乱の幕開けだった。
勇者パーティに選ばれた、“聖女”。
その少女の姿は――丸い瞳に茶色のポニーテール。
十年前、フェランが間違えて告白した相手、ニナだった。
「フェラン!すっかり、立派な勇者さまになっちゃったね?」
「お互いさまだろ、
「もう、からかい上手だし」
素朴で、小動物のような笑顔を向けるニナは、子ども達に囲まれていた。街の広場にて、はしゃぎ回る一人が走って転んでしまい、小さな膝の擦り傷でしゃくりあげた。
「大丈夫、大丈夫だよ。ほら……じっとして」
ニナがしゃがみ込み、幼い少年と同じ目線に合わせる。小ぶりな両手をそっと差し伸べると、少年は泣きながら頷いた。
ニナの掌から、柔らかな金色の光が広がる。
陽だまりの香りがする、暖かな癒しの力だ。
「ほら……もう痛くないよ」
ニナが微笑むと、少年の擦り傷が綺麗に閉じ、涙も止まった。
「おねーちゃん、すごい……。また転んでも治してくれる?」
「もちろん。でも、転ばない方がいいよ?」
ニナは幼い少年の頭をやさしく撫で、一輪の花を咲かすと髪に挿す。
「怖いことがあっても、わたしが守るから。ね?」
怯えていた少年の顔に徐々に笑みが戻り、ニナの周囲は柔らかな光で満たされた。
その姿は、確かに――“本物の聖女”だ。
ニナは影が薄く、ふわりとした雰囲気を持つためか、街の人々には時々、聖女はルネだと勘違いされがちだった。しかし、その癒しの魔法と優しい心は本物だ。旅で出会う人々は、穏やかで自然体な二ナに安心し、救われる。
ある春の日。街門近くの花畑で、フェランはニナと昔話をした。
「フェラン、あの時の告白、覚えてる?」
二ナは、春風に揺れるマーガレットの花を見つめながら呟いた。同じ白花でも、フェランの心に咲く花とは違う。
「う、うん……まあ……」
「本当は、ルネに言いたかったんだよね?」
目が泳ぐフェランに、ニナはくすりと笑った。
「わかってたんだから。だってフェラン、告白する前からずっとルネばかり見つめてたし……その後も、私なんかよりルネの話をしてたじゃない」
「そ、そうだっけ……?」
「うん。酒場で酔い潰れてるのを見かけた時も、ルネの魅力を語ってたし。……ちょっとショックだったんだから。私、本気にしちゃって」
ニナはマーガレットを一輪摘んで、フェランの胸元に飾った。花言葉は、『誠実』。
「だから、誤解を解いてあげて。ルネは優しいから、傷ついても黙ってしまうの。自分以外の人を傷つけたくないんだね……そんな奥ゆかしいルネが、私も大好きなんだけど。もっと早く、二人の親友として背中を押していればよかったね」
「……ニナ」
「ルネの婚約者は、フェランなんだよ」
胸を打つ言葉だった。しかし、フェランは知らない。マーガレットは、『心に秘めた愛』という花言葉でもある事を。切なく微笑んだニナの髪に、白い花びらが寄り添った。
その時、風が揺れ――少し離れた場所で、黒髪が靡いた。静かな驚きに瞳を見開き、ルネが二人を見つめていた。
ちょうどフェランは、ニナの髪に付いた花びらを指で取ってやったところだった。――最悪のタイミングだ。ルネの瞳に、小さな影が走る。花風が、白いスカートを寂しげに揺らした。
「……やっぱり」
そう呟くと、ルネは背を向けて歩き出す。
「ルネ!!」
フェランは駆け寄り、そっと手首を取った。
「違うんだ、誤解だ! 全部話す、今までのこと……十年前のことも!」
振り返ったルネの瞳は、揺れていた。
「最初から……俺が好きだったのは、君なんだ!」
ようやく心が触れ合いかけた、その瞬間だった。
――冷たい風。
春の季節に似つかわしくない、重く鋭い気配が花畑を撫でる。フェランとルネの足元に、淡い影が伸びた。どこにも存在しなかったはずの影が、ねじれ、深まり、音もなく裂ける。
亀裂の中心から――彼は現れた。
この世ならざる、幽玄な美貌。切れ長の金の瞳。光に濡れた獣のように、油膜めいて妖しい輝きを放つ。禍々しく捻れ、黒漆の如き二角。長くたゆたう青き髪は水光を滑らせ、重力をも支配するように緩慢に揺れた。その存在感は“宵の静けさ、そのもの”だった。立つだけで、森のざわめきすら飲み込んでいく。
―― 魔王。
彼は影が流れるように、ルネの背後へ立った。気配が無かった。
「ルネ……!」
フェランが剣に手を伸ばすより早く、魔王の指がすべる。次の瞬間、ルネの腰に細い指が触れ、淡い光が弾けた。青白い魔法陣がルネの足元から噴き上がり、吸い込まれるように風が渦を巻く。
「フェラン……!」
ルネの身体が引き寄せられ、魔王に抱かれてしまう。魔王は、驚くほど洗練された仕草でルネの白い頬へ指先を伸ばした。細く長い指。氷のようなのに、どこか熱を含む――“魔の気配”だ。魔王が白頬に触れた瞬間、ルネの背筋が震える。魔王の金の瞳が、僅かに細められた。
「……ようやく、会えたな」
低く、静謐な声。その響きは、湖底の眠りのように深く、甘く危うい。
「誰なの……?」
ルネは掠れた声で問いかけた。
「宝飾品の出店の前で、癒してくれただろう。あの優しさ……忘れられるはずがない」
(宝飾品……?)
ルネの瞳が揺らぐ。魔王の青髪が揺れ、彼の気配が全ての空気を押し流す。
「共に行こう。私の城へ――」
「フェラン……!」
「ルネ!!」
フェランの指先は届かず――亀裂が閉じ、ルネの姿は青の光とともに消えた。
◇ ◇ ◇
「なんでルネを……!」
フェランは剣を握りしめた。ニナが震える声で告げる。
「私……魔王の姿に見覚えがあるんだよね。角が無くて幼い姿だったけれど、宝飾品の出店の前に居たの。うっかり、琥珀のブローチの針で指を刺してしまった様子だった。魔王は人の姿で忍んで市場に来ていて……その時、傷を癒してくれた少女に心を奪われたのかも」
「それが、ルネじゃないのか?」
「違いますぅ、私です――! 」
「なんでだよ!」
「さぁ。あの日は陽射しが強かったし、私の顔まで見えなかったのかもね。しかも私の存在感は薄いから……また勘違いされちゃったのかな。一緒に居たルネと」
ニナは悲しげに微笑む。
「紛らわしい勘違いは、フェランとルネだけで十分なのに……!」
開き直ったニナの叫びに、フェランは肩を震わせた。悪戯に、二ナは微笑み返す。
「行こう、フェラン」
「……ああ。必ずルネを取り戻す」
真っ直ぐに目指すは、魔王城だ。
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