第1章 歩けなくなった日から始まる物語
11月1日(土) 気づかぬうちに始まっていた変化
私たちはおじいちゃんの家とは別々に暮らしている。
とはいえ徒歩数分。
何かあればすぐ駆けつけられる、いわゆる“超ご近所”だ。
その日は仕事が休みで、いつものように様子を見に行った。
リビングの扉を開けると、おじいちゃんが杖をつきながら、
ゆっくり、ゆっくり奥から歩いてくる。
ソファの“いつもの場所”に、ちょこんと腰を下ろす。
その姿を見ると、胸のどこかがふっと緩む。
「今日も大丈夫そうだな。」
おじいちゃんは、ずっと小学校の先生だった。
だからなのか、認知が進み始めた頃から、
家の中の“世界”が少しずつ変わり始めた。
リビングはいつしか「教室」になり、
私たちは「生徒」になった。
「こら、ちゃんと言うことを聞きなさい」
「今は授業中なんだからな」
そんな言葉が飛んでくると、つい笑ってしまう。
でも、私たちは自然とその“世界”に合わせていた。
私は時々“保健室の先生”になり、
“お手伝いさん”になり、
“新人の介護士さん”にもなった。
おじいちゃんが安心できるなら、
どんな役でも引き受けるつもりだった。
そんな穏やかさがふわっと広がった、ほんの数分後——。
おじいちゃんが立ち上がってベッドへ向かおうとした瞬間、
足からすっと力が抜け、
テーブルに突っ伏すように倒れ込んだ。
「大丈夫?」
胸の奥がざわっと波立ち、声が少し大きくなる。
おじいちゃんはテーブルに手をつきながら、
必死に自分で立ち上がろうとする。
でも——足が、うまく言うことをきかない。
「手を貸すね」と近づいた、その時。
おじいちゃんは、怒ったような声を出した。
怖いのか、悔しいのか、プライドなのか。
それとも「まだ自分でできる」という思いなのか。
理由は分からない。
でも、戸惑いと焦りが入り混じった空気が
ひしひしと伝わってきた。
どう支えていいのか分からず迷って、
それでも手を伸ばした——その瞬間。
力がふっと抜け、おじいちゃんはそのまま仰向けに倒れた。
数秒の静けさ。
張り詰めたような空気。
私はそっと声をかけた。
「大丈夫? 起きれる?」
おじいちゃんは気まずそうに目をそらし、ぽつりと言った。
「……起きれなくなっちゃったんだ。」
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
弱音なんてほとんど吐かないおじいちゃんが、
そんな言葉を言うなんて。
「じゃあ、一旦座ろうね。」
そう声をかけ、なんとか上半身を起こす。
でも、ここからがまた大変だった。
立ち上がるまでが、まるで急な斜面を登るような“至難の技”。
ちょうどその時、夫の誠が駆けつけてくれて、
二人で支えながらゆっくり、ゆっくりベッドへ運んだ。
時間はかかったけれど——
この日はまだ歩けた。
その“まだ歩けた”という事実を、
私は当たり前のように、
明日も続くと思い込んでいた。
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