午後四時の防衛線

壱乗寺かるた

プロローグ

 放課後の旧校舎は沈殿している。

 腐った蜜柑色の夕陽。

 埃っぽい空気。

 僕は指定位置で体育座り。足元には古新聞。

 イザナはいつものフル装備。巨大な登山用リュック。頭には分厚い防災頭巾。


 彼女が僕の隣に座る。

 頬に絆創膏が増えている。

 首筋。昨日はなかった青あざが見える。


「負傷か? 司令官」

 イザナに尋ねる。


「かすり傷だ。撤退戦で跳弾が掠めた」

 跳弾の正体は聞かない。

 灰皿、拳、ビール瓶。


「本日の訓練は精神防壁マインド・シールド」  

 イザナがオレンジ色の耳栓を取り出す。「敵は音波兵器を使う。怒号、罵倒、破壊音。聞けば精神が汚染される。内側から食い破られる」  


 彼女は僕に耳栓を渡し、自分も耳にねじ込む。

「目を閉じろ。イメージしろ。ここは深海一万メートルの潜水艇だ。外の水圧は届かない。遮断しろ。世界を遠ざけろ」


 言われた通りにする。  

 世界が遠のく。

 野球部の声も、吹奏楽部の音も、水中のノイズになる。


 静かだ。  

 死ぬように静かだ。


 ふと思う。今ミサイルが落ちてくればいい。  

 全部なくなればいい。

 僕も、学校も、あの家も、全部蒸発してしまえばいい。  

 僕はそんなリセットを望んでる。逃げたいだけだ。


 でも、イザナは違う。  

 薄目を開けて見る。

 彼女は膝を抱えて、必死に耐えている。  

 震える肩。食いしばった歯。  


 彼女は待ってない。

 世界の終わりなんか望んでない。  

 彼女にとっての「世界」は、システムじゃなく、痛みそのものだ。

 痛みに抗うために、彼女は耳を塞ぎ、目を閉じ、それでも生きようとしている。

 

 泥だらけのパンをかじってでも、新聞紙にくるまってでも、彼女は生き延びようとしている。


 僕の「諦観」なんて、ただのポーズだ。

 安全圏から眺める道楽だ。

 彼女の「諦観」は、武器だ。絶望を受け入れて、なお立つための鎧だ。


 ――強いな、


 耳栓の隙間から、『家路』のメロディが漏れ聞こえる。

 残酷で優しいチャイム。

 家に帰れと世界が言う。

 帰る場所なんてどこにもない。


 イザナの目から涙が落ちる。

 床の埃に吸い込まれて消える。

 彼女は泣いてることにも気づいてない。

 ただひたすら、脳内で鳴り響く怒号と戦っている。


 僕は何も言わない。言えない。

 ただ、彼女の肩に、ほんの少しだけ自分の肩を当てる。

 体重はかけない。支えもしない。

 ただ、ここに「味方」がいるという信号シグナルだけを送る。


 体温が伝わる。

 イザナの震えが、ほんの少しだけ収まる。


 午後五時の旧校舎。

 僕たちは世界が終わるのを待っているんじゃない。

 世界が終わっても、僕たちが終わらないように、息を止めて潜っている。


 僕は耳栓を押し込む。

 静寂の中で、僕たちの小さな戦争は続いていく。

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