3. 執着を祓え
後日、善興と詩鶴は改めて大竹議員宅を訪れた。今回は二つのスーツケースを携えている。
エントランスには、落ち着かない様子の博子が待っており、そのまま部屋へと通された。
善興がスーツケースを床に置き、留め具を外す。片方には折りたたみ式のテーブルと、簡易的な祭壇用具一式。もう片方には
「どこか、着替えができる場所をお借りできますか?」
善興が尋ねると、博子は少し緊張した面持ちで頷いた。
「主人の書斎と、寝室をお使いください」
善興は書斎へ、詩鶴は寝室へと向かった。
十五分ほど経った後、二人がリビングに戻ると、大竹夫妻の目の色が変わった。
善興は白い狩衣に身を包み、詩鶴は
「……こういうのを生で見るのは初めてだな」
光弘は興奮を隠しきれない様子で、二人の姿を眺めていた。博子も不安げながら、どこか安堵したような表情を浮かべている。
詩鶴が善興のそばに寄り、小声で耳打ちした。
「寝室にはいませんでした。おそらくここにはいるのでしょうが、隠れていますね」
善興は視線だけで応じた。
「ちょっと炙り出してみます」
詩鶴はそう言うと、リビングの奥、博子が最初に人影を見たという場所に座布団を敷いた。
「奥様、こちらにお座りください」
博子がおずおずと座布団の上に正座する。その手前に祭壇が設置され、善興が
それを合図に祓いが始まる。
善興が大幣を振りながら
しばらくすると、博子がキョロキョロと周囲を気にし始めた。落ち着かない様子で視線が泳ぐ。肩が強張り、呼吸も浅くなっていく。
——何かの気配を感じている。
詩鶴が床を、トン、と叩いた。それは霊が出現した合図だった。
詩鶴の視線が、博子の右肩の後ろ、何もないはずの空間を捉えていた。その目がわずかに細くなる。
博子が右肩を気にして振り返った瞬間、悲鳴をあげた。その悲鳴とともに、博子の身体が大きく仰け反る。まるで誰かに肩を掴まれたかのように、右半身が強張っている。
「ひいいっ……!」
甲高い声がリビングに響き渡る。光弘が
「動かないでください!」
善興の声が鋭く制した。
その声に驚き、光弘の足が止まる。善興の方をゆっくり見返したが、善興の真剣な表情を見て、おとなしくその場に座り直した。
「奥様も、お辛いでしょうがすぐに祓いますので、もう少しだけ辛抱してくださいね」
善興は穏やかに、しかし有無を言わせない口調で言った。
詩鶴は祓詞を唱えながらも、そこに在るものを一瞬たりとも見失わないように、視線を博子の背後から外さなかった。
「先生……やめてください……先生……」
博子は声を震わせながら、同じ言葉を繰り返していた。首を横に振り、必死に右肩から顔を背けようとしている。だが、その動きはどこかぎこちない。まるで、背けようとするたびに顔を引き戻されているかのようだった。
先生。
その呼びかけが指す相手は、おそらく北村雄蔵だ。やはり北村の霊はこの部屋に住み着いていた。
不意に、博子の首がびくりと動いた。
「いやっ……」
短い悲鳴。博子は左手で首筋を庇うように抱え込んだ。白い肌に、誰かに握られたかのような赤い
光弘が唖然としながら博子を見つめる。目の前で起きていることが理解できない。ただ、妻の首に生じた痕だけが、何か異常なことが起きている証拠として、鮮明なまでに見えた。
詩鶴が印を組み替えた。その指先に、かすかに力がこもる。
そのまま祓詞の文言も変わる。同時に、トントン、と床を二回叩いた。善興もそれに合わせて祓詞を変えた。
詩鶴の目が、わずかに見開かれた。
博子の背後にいる何かが、祓詞に抗うように
それでも祓詞は続く。善興と詩鶴の二人の声が重なり、言葉を紡いでいく。
祓詞を読み上げている最中に、博子の表情が少しずつ和らいでいった。強張っていた肩から力が抜け、荒かった呼吸が落ち着いてくる。博子は少し驚いたように自分の右肩を見て、それからゆっくりと視線をこちらに向けた。
詩鶴の視線が、ようやく博子の背後から外れた。
トントントン。
詩鶴が床を三回叩いた。祓いが完了した合図だった。
「これで、祓いは完了です」
善興は大幣を下ろし、博子に向かって穏やかに告げた。
「奥様、もうご安心ください」
その言葉を聞いた瞬間、博子の目から涙が溢れ出した。緊張の糸が切れたように、声をあげて泣き始める。
光弘が慌てて駆け寄り、博子を抱きかかえた。妻の背中をさすりながら、光弘は善興の方を振り返った。
「加殿くん、これはなんの霊だったんだ?」
善興は博子を見つめた。涙で赤くなった目。震える唇。その奥に、長年押し殺してきたであろう何かが見えた気がした。
「奥様……」
善興は静かに問いかけた。
「国自党の北村雄蔵元幹事長に、なにか覚えはありますか?」
博子の顔から血の気が引いた。
「ひっ……」
小さな悲鳴をあげ、両手で口元を押さえる。
「なんで急に北村先生の話になるんだ!」
光弘が声を荒げた。善興を睨みつける目には、怒りと困惑が入り混じっていた。
「北村先生の仕業とでも言いたいのか? 生前、先生には大変お世話になったし、ウチにもよく来てくれた。博子共々、家族ぐるみのお付き合いをさせていただいたんだぞ!」
光弘の腕の中で、博子は震えたまま何も答えなかった。
「それに、今年の初めにあった選挙でも、事前に先生の墓参りをさせてもらった。おかげで、今回も無事当選できたんだ」
「それですね」
詩鶴の声が、静かに、しかし確信を持って響いた。
光弘がびくりと反応し、詩鶴の方を振り返る。
「そのとき、連れて来ちゃったんですね。はっきり申し上げましょう。今回の事態の元凶となった霊は、北村氏です」
善興は淡々と言った。
その言葉を聞いて、光弘は思わず言葉を失った。
善興は博子に視線を戻した。
「奥様、あらためて伺います。生前、北村氏になにかされていたんじゃありませんか?」
善興が問いかけた後も、沈黙が続いた。
博子は
やがて、博子はゆっくりと口を開いた。
「先ほど主人が言っていた通り、先生は、よくウチに足を運ばれていました」
声は
「最初は本当によくしてくれていたんです。ですが、だんだん様子が変わってきました。なにかといえば私の方をジロジロ見るようになったんです」
博子の手が、無意識に自分の腕を掴んだ。
「そしてある日、主人が席を外したときでした。先生は私に近づいて、身体をいやらしく触り始めたんです」
光弘の顔が強張った。
「それ以降、先生はこちらに足を運ぶたび、隙があればそういった行為を繰り返すようになりました」
博子の声が震えた。
「私には……ただ耐えることしかできませんでした」
リビングに重い沈黙が落ちた。
「そ、そんなこと初めて聞いたぞ!」
光弘の声は、怒りよりも困惑と
「なんで、俺に相談してくれなかったんだ?」
「相談できるわけがないでしょ!」
博子は顔を上げた。涙に濡れた目で、まっすぐに光弘を見つめる。
「相手はあの北村先生よ? 私があなたに言って、あなたがなんとかしようとしたところで、握りつぶされたり、最悪あなたの議員生命が絶たれる可能性もあった。そんなことになったら大変だったでしょう?」
光弘は何も言えなかった。
「先生も亡くなったんで、このことは胸のうちに仕舞い続けようと思ったの」
博子は再び俯いた。
「まさか、死んだ後にまで繰り返してくるとは、思わなかった」
そう言って、博子は再び泣き出した。今度は声を殺して、肩を震わせながら。
「なんてことだ……」
光弘の声も震えていた。
「そうとは知らず、お前を苦しめ続けていたなんて、考えてもいなかった。本当にすまなかった」
光弘は博子を強く抱きしめた。
善興は二人から視線を外し、祭壇の片付けを始めた。詩鶴も黙って手伝う。
しばらくして、善興は穏やかな声で言った。
「大竹先生、生命力を上げる修行、ちゃんと続けてくださいね」
光弘が顔を上げる。
「これ以上、奥さんに災いが降りかからないように」
その言葉に、光弘は深く頷いた。
「そうだな。ありがとう、加殿くん」
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