虚ろの塔の影祓い

江野 実

第1章 虚名の陰陽師

1. ある議員の依頼

 加殿善興かどのよしおき門井詩鶴かどいうたつるは、都内にある高級マンションを訪れていた。永田町や霞ヶ関にほど近いこの物件には、政治家や高級官僚が多く入居している。

 エレベーターから続く廊下は、そこに居住する人々の気配があるにもかかわらず、空調の音すら吸い込むような静けさに包まれていた。

 廊下を進むと、敷かれた分厚い絨毯じゅうたんが足音を消し、壁に掛けられたいくつもの抽象画が、まるで訪問者を値踏みするかのように並んでいる。

 今回、善興に相談を持ちかけたのは、現与党である国自党こくじとうの中堅議員・大竹光弘おおたけみつひろと、その妻である博子ひろこの夫妻だった。

 二人はこのところ霊障に悩まされており、それぞれ心身に不調があるという。  

 夫妻の部屋を訪ね、リビングに通されると、善興と詩鶴は革張りのソファに腰を下ろした。

 既に座っていた光弘と軽く挨拶を交わし、少しの沈黙の後、二人分のコーヒーを運んできた博子が座ったところで、善興は向かいの大竹夫妻を交互に見た。


「では、まずは大竹先生のお話を伺いましょうか」

 善興は、まず光弘の話から聞くことにした。

「このところ、体調が優れないんだよ」

 光弘は額の汗を拭いながら、苛立ちを隠しきれない様子で言った。

「例えば、頻繁に喉が乾くし、夜中に何度も目が覚める。しっかり食べているはずなのに体重が減ったり、やたらと疲れることが多いんだ」

 善興は相槌を打ちながら、光弘の身体をさりげなく観察した。腹部だけが不自然に膨らんでいる。手足の末端に比べて顔色がくすみ、話しながらも何度か唇を舐めている。

 話に出てくる症状にも、善興には心当たりがあった。喉の渇き、中途覚醒、体重の減少、倦怠感。これらが指し示すものは、明らかだった。

 ——糖尿病の気がある。これは霊障ではなく、生活習慣の問題だ。

 念のため確認をとるべく、善興は隣に控える詩鶴へ視線を送った。

 詩鶴は小柄で、狐を思わせる切れ長の目元が特徴的な美人だった。額と頬で一直線に切り揃えられた長い黒髪が、日本人形のような印象を与える。その綺麗な姿勢と落ち着いた佇まいが、場の空気を引き締める役割を果たしていた。

 善興の視線を受けた詩鶴は、ほとんど動かない程度に首を横に振った。それにより、これは霊障ではないことが確定した。


 続いて、博子の話を聞く。光弘に比べれば若く、体調の異常はないようだが、一人でいるときに誰かの気配を度々感じていたという。そして、実際に心霊現象も体験していた。

「最初はリビングで……」

 博子は声をひそめた。視線が善興の背後へと向かう。

「ちょうど今、あなたが座っている後ろのあたりでしょうか。人影が立っているように見えたんです」

 善興は振り返らなかった。表情も変えない。ただ、自身の背後に注がれる博子の視線を感じながら、静かに耳を傾けた。

「思わず目をそらしたんですけど、気になって、もう一度確かめるように見直してみたんです。そしたらもう、そこには誰もいなくて。そのときは、気のせいかなって思ったんですよ」

 博子の声がわずかに震え始める。

「それからしばらくして、キッチンで料理をしていたとき、急にお尻のあたりを撫でられたような感覚があって。びっくりして振り向いたら、そのときも誰もいませんでした……」

 この話には引っ掛かりがあったのか、光弘が眉をひそませる。        

「そして極めつけは、このあいだの夜中です」

 博子は両手を膝の上で握りしめた。

「突然目が覚めたんです。理由はわからないんですけど……なんとなく、目が覚める直前に誰かが私の名前を呼んだような気がしたんです」

 博子の握りしめた拳が、どんどん震えていくのがわかる。

「ただ、身体は全く動かなくて……金縛りでした。声も出ない。指一本も動かせない。でも、意識だけははっきりしていました。そして最初に感じたのは、変なにおいでした。……かび臭いにおい。それがどんどん濃くなっていって……」

 声が途切れる。喉が詰まったように、博子は一度唾を飲み込んだ。

「目線を少し下げると、私の足元に誰かいたんです。暗くてよくは見えなかったんですけど、着物を着た人が、ベッドの端に立っているのはわかりました。男の人……というか、おじいさんみたいな。それが……這い上がってきたんです。ベッドの上を、私の身体の上を、ゆっくりと……」

 光弘が顔をしかめて博子の方を見た。その表情は、嫌悪感と恐怖心とが複雑に混ざり合っているようだった。

「顔は……顔は、のっぺらぼうみたいに見えました。でも、目だけがあったんです。真っ黒な、穴みたいな目が、私をじっと見ていたんです。そして耳元で、ずっとつぶやいていたんです。『……おれの……おれの……』って。低い声で、何度も……。私もう怖くて……」

「おれの、ですか。おのれ、とかではなくて?」

 善興が穏やかな声で確認すると、博子は強く頷いた。聞き間違いではないという意思表示だった。

「でも幸いなことに、そのあとすぐ意識が遠のいたんです……」

 善興が再び詩鶴へ視線を向けると、今度は首を縦に振った。こちらは霊障で間違いないようだった。


 善興は一拍置いてから、視線を光弘に戻した。

「まずは、大竹先生」

 声のトーンを落として、善興は言った。

「明日から、帰宅前にこのマンションを中心とした半径五百メートルの範囲を、円を描くように歩いてから帰宅することを習慣づけてください。そして亥の刻、つまり夜の九時以降は、酒を含めた飲食を控えることも併せて行ってください。お仕事の都合もあるでしょうから、可能な限りで結構です。が、少なくとも止めることはしないでいただきたい」

 善興は指を組み、光弘の目をまっすぐに見据えた。

「そうですね。これを少なくとも半年は継続させたほうがいいです」

 光弘の眉間に皺が寄った。帰宅前に歩く。夜九時以降の飲食を控える。それは霊障の治療というより、どこかで聞いたことのある健康法に近い。懐疑の色が、光弘の目に浮かんでいた。

 善興はそれを見て取ったが、構わず続けた。

「大竹先生は今、生命力が弱ってきています。しかし、まだ自力で再起できる。円を描くように歩くのは結界をつくるため。飲食を控えるのは、就寝前の体内に無駄なけがれを入れないためです」

 善興は姿勢を正し、声に力を込めた。

「これは、悪霊に負けないための体づくりをする修行です。ご理解いただけますか?」

 その眼差しに、光弘は気圧されたように何度も頷いた。政治家として、数多くの相手と激論を交わしてきたはずの男が、善興の静かな迫力の前では言葉を失っていた。

「そして奥様ですが……」

 善興は博子に視線を移した。

「どちらかというと、奥様の方が重症のようです。こちらは祓いの対応が必要です」

 博子の肩がびくりと震えた。両手が口元に上がり、不安に揺れる目で善興を見つめた。

「なんだいそれは!」

 光弘が声を荒げた。

「なんで私と条件が違うんだよ。まどろっこしいから二人ともまとめて祓ってくれないか?」

 善興は表情を変えなかった。光弘は生活習慣病の兆候があるだけで、霊障ではない。それを祓いと同列に扱うことは、誠実な対応とはいえなかった。

「いいですか、大竹先生……」

 善興は静かに、しかし明瞭な声で言った。

「本来、霊というのは己自身の生命力で追い払うのが一番よい形です。先生は、もともとの生命力が強い方とお見受けします。なので、ちょっとした習慣の変化で霊を寄せ付けない身体に戻ります」

 光弘の表情がわずかに和らいだ。

「対して奥様は、先生ほどの生命力はありませんので、こちらで力をお貸ししますが、これはある意味、劇薬の治療みたいなものです」

 善興は光弘と博子を交互に見た。

「先生が奥様のためを思うなら、先生にできることは祓ったあとの奥様のケアです。先ほどの提案は、そのための修行なのです」

 善興の理路整然りろせいぜんとした物言いと、物怖じしない態度に、光弘はしばし黙り込んだ後、渋々といった様子で頷いた。


 その後、善興は博子の案内でマンションの部屋を一通り見て回った。リビング、寝室、キッチン。怪奇現象があったという場所を、善興は丁寧に観察していく。

 詩鶴は終始無言のまま、善興の半歩後ろを歩いていた。その目が時折、壁や天井の一点に向けられる。何かが視えているのだと、善興にはわかった。

 寝室を出たところで、詩鶴が小さく頷いた。

 何かを掴んだ——そんな合図だった。

 善興は大竹夫妻に向き直ると、穏やかな笑みを浮かべた。

「本日はここまでにしましょう。数日後、祓いの準備を整えて、改めてお伺いします」  

 玄関で靴を履きながら、善興は光弘に念を押した。

「先生、くれぐれも先ほどの修行をお忘れなく。明日からですよ?」

 光弘は面倒くさそうに頷いていたが、善興は微笑みながら目を細め、玄関から外に出た。それに続くように、詩鶴も深く一礼した後、部屋を出た。

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