異世界で出会ったスタンダールでライカな女が、すべての謎を解いて、俺と共に現実世界へ帰還する件

愛川蒼依

第1話 スタンダールでライカな女

 月曜日の朝、久しぶりに二度寝してしまった俺は、大慌てで家を出た。肌寒い空気の中を急いで駆けたかいあって、なんとか9時からの全体会議には間に合いそうだ。しかし、地下鉄の方がなかなか来なくて、広尾駅の北千住行きのホームで俺は焦っていた。

 その焦りがあきらめに変わりつつあったとき、岸型ホームの対岸、中目黒行きのホームの人影が目に留まった。真っ黒のトレンチコート、襟もとからのぞく真っ赤なマフラー、デニムに包まれた脚。背は俺より高そうで、カバン一つ持たない。丸顔がちょっと天然パーマの黒髪で縁取られている。ライカのロゴにヒントを得たのか、スタンダールから発想したのか、黒と赤の強い主張は空気感からして派手目でありながら、ユニバーサルな組み合わせのためかどこか押しつけがましくない。コートの襟先と裾を治す様子は丁寧で、地下鉄という匿名性の環境であっても、場に対して敬意を払うような印象。

 俺は視線の焦点をぼやかせたまま、さりげなくその姿を愛でる。俺のほかに使いようのないどうでもいい特技。しかし今日に限っては、二度寝した俺の社会的ダメージを癒してくれるような、ちょっとしたボーナスを運んできてくれる。


 しかしその女性は、せっかく俺が視線を泳がせているのに、何やら大きな身振りをしているので、つい視線が留まる。ん?どうも俺に何かを伝えたいような…彼女は、大きな身振りで自分の胸の中央からお腹のあたりにかけてを両手で指し示す。言われなくても、男性ならもちろんそのあたりに目が行ってしまうわけだが…。そのまま彼女は、バスケットボールを味方に投げ渡すかのようなしぐさをする。ん?俺の胸になにかある…?

 自分の胸に目を移すと、とたんに意味が解る。大慌てで出てきたからだろう、ジャケットのボタンが掛け違っている!なんとカッコ悪い…急いでボタンをなおす。一息ついて、どう感謝の意を伝えようかと女性に目を戻すと、線路二つ分を挟んですらわかる満面の笑顔を浮かべ、頭を中心に両腕で大きな丸を作って見せた。全身を使ったその姿に、恥ずかしさすら吹っ飛び、俺は思わず笑みを浮かべる。俺は舞台俳優がするように大きく礼をすると、彼女は謎のガッツボーズで応える。

 彼女が元の姿勢に戻るとその姿は堂々としたもの。伸びた背筋が、俺の背筋すら伸ばさせる。それでいてまだ楽しそうにほほ笑む様子は、この世の全てに幸せをまき散らしているようだ。周囲の目線を気にせず、自分に似合う装いを選び、それでいて子どものように体を使って気持ちを表現できるのは、育った環境が良かったのだろうな。それがかえって周囲の好感を生むというのは、何かの本質を教えてくれる。小首をかしげて俺の様子をうかがってくれるのは、そうした表現を俺に対してだけ提供してくれるということ。なんだか感じたことのない波のような幸福感が俺を襲う。そんな彼女に対して、俺の心にはむくむくむくといたずら心が沸き上がる。

 俺の中に、まだ小学生の自分がいたようだ。


 俺は、何かを探すように首を大げさに左右に傾げた後に、カバンを持っていないほうの腕を大きく使って、自分の襟首を指し示す。表情でも大げさに驚いている様子を表現する。彼女はこちらをのぞき込むように左右に体を揺らす。俺は、彼女がしたのと同様に、バスケットボールを渡す。伝わるだろうか、君のトレンチコートには値札がまだついています、と。

 俺の演技力のおかげか、彼女の想像力のおかげか。彼女は急に驚いた表情に変わり、全身を振るようにして急いでコートを脱ぎ始めた。タイトにデニムで包まれた長い脚が隠し場所から出てきたからか、白いトップスの上半身があらわになったからか、それはちょっと着替えを覗き見ているようであり、俺はほんの少しだけ慌てた。彼女がコートの襟の部分を調べ、さらにそこを裏返す。当然そこには値札はついていない。そりゃそうだ、もともとないんだから。

 彼女は憮然とした様子で、こちらへゆっくりと視線を戻す。俺は彼女のしぐさを全くマネして、頭を中心に両腕で大きな丸を作って見せた。彼女はコートを素早くはおると、ボタンも留めずに地団太を踏み、頭の左右で握ったこぶしを左右に大きく揺らす。おそらく怒った様子の表現だろう。髪まで振り乱してひとしきり怒りを表現すると、両手で髪を一息にかき上げてその表情を俺に向ける。ぷくっと膨らませた頬は怒りを表現しつつ、目は…笑っている。俺は祈りのポーズを送る。申し訳なかったね、と。

 こんなにかわいらしい女がいるんだな、俺は自然にそう思った。日頃見ている映画の世界に紛れ込むと、こんな感じなのだろうか。


 俺は思わず小さい声で笑った。彼女も頬を膨らますのをやめつつ、依然として憮然とした笑みを返す。地下鉄のホームでの謎の運動で、彼女の白い顔は上気しているものの、その表情はだんだんと柔らかくなり、楽しそうな笑みに戻る。彼女は漆黒のコートのボタンを留めて、今は光の具合かバーガンディにも見えるマフラーを整え、白いセーターに包まれた胸ときれいな脚を隠し、もとのライカでスタンダールな装いに戻る。彼女は両手を顔の両脇にそろえ、その小さな頭を俺に向けてスローインする手ぶりをする。両手の指を拳銃のような形にしているということは、果たしてそれは、許さないぞということか、今度は俺の番だということか。俺の心はすでに撃ち抜かれたというのに。

 俺たちの息が戻り、いつもの世界に戻りかける。少なくとも俺は至極自然に、何も考えずに無表情な現実世界に戻り始めた。その時、地下鉄のアナウンスが空気を揺らす。中目黒方面からようやく電車が来るようだ。彼女と俺はそのアナウンスによって、現実世界に戻ろうとしていたところを、映画の世界へしばしとどめおかれた。トゥームストンでの決闘さながら、おれは名刺入れをシングルアクションリボルバーのように取り出し、そのまま彼女の方に放り投げた。フリスビーのように安定して回転したそれは、彼女の両手によって回転を止められ、彼女は彼女で名刺入れから素早く一枚抜き取ると、そのまま俺の方に放り投げる。線路二線分を秒で往復した名刺入れは俺の右手に収まる。まるで何百回も練習したかのように効率的な一連の動き。彼女は名刺をちらちらと目の前で振って、成果をアピールする。

 列車の到着によって、今度こそ俺は映画の世界から現実の世界へ立ち戻らされる。

 気づけば、ホームの空気がぴりっと冷え、駅員さんの視線がこちらを正確に射抜いた。運転手さん、もう二度としません。ごめんなさい。


 ほぼ同時期に入ってきた中目黒方面の地下鉄もホームについた。人の波が列車から寄せ、次いで人の波が帰る。俺もその波の一滴となって、列車の中に吸い込まれる。もう、スタンダールな彼女の姿は見えない。しかし、何かとてつもないことが始まりそうなそんな予感によって、満員電車の中で俺の気持ちは大きく膨らんでいた。

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