第2話 白たへの
春が終わったことに気づいたのは、制服の袖をまくったときだった。
朝の空気が、もう冬の名残を感じさせない。
代わりに、どこか湿り気を帯びた風が、頬をなでていく。
「夏が来たんだな」
そうつぶやいたのは、図書室の窓際に座る、白川紬(しらかわ・つむぎ)だった。
高校二年生。図書委員。静かで、目立たない。けれど、誰よりも季節の変わり目に敏感な女の子。
彼女は、窓の外に見える山の稜線を見つめていた。
その山の名前を、彼女は「香具山」と呼んでいた。
本当の地名ではない。けれど、彼女にとっては、あの山が「天の香具山」だった。
「白妙の衣、干してるのが見える気がする」
そう言って、彼女は微笑んだ。
その笑顔は、まるで春の終わりに咲く最後の桜のように、儚くて、でも確かにそこにあった。
*
紬には、秘密があった。
それは、彼女が「見える」こと。
季節の境目に立つと、過去の記憶がふとよみがえる。
それは自分のものではない、誰かの記憶。
まるで、千年前の誰かが、彼女の目を通して世界を見ているような感覚。
「春過ぎて、夏来にけらし…」
彼女は、そっと呟いた。
その言葉が、彼女の中に眠る記憶を呼び覚ます。
*
――白い布が、風に揺れている。
山の斜面に、何枚もの衣が干されている。
それはまるで、雲が地上に降りてきたかのような光景だった。
「香具山に、衣を干す季節になったのですね」
声が聞こえる。
けれど、それは誰の声か分からない。
自分の中にある、もう一人の“わたし”の声。
その“わたし”は、かつて天皇だった。
名を、持統という。
父は天智天皇。夫は天武天皇。
そして、愛する人を失い、国を背負った女帝。
*
「春が過ぎて、夏が来たらしい。白妙の衣が、香具山に干されているのだから」
その歌を詠んだとき、彼女の心には、どんな想いがあったのだろう。
季節の移ろいを感じる心。
白と緑のコントラストに、ふと目を奪われる感性。
そして、過ぎ去った春への、淡い未練。
紬は、そんな記憶を胸に抱えながら、今日も図書室で本を読む。
誰にも言えない秘密を、そっと隠しながら。
*
ある日、図書室に見慣れない男子が入ってきた。
背が高くて、少し猫背。髪は無造作で、目元に影がある。
彼の名前は、**高槻悠真(たかつき・ゆうま)**。
転校してきたばかりで、クラスでもまだ馴染めていない様子だった。
「ここ、座ってもいい?」
「うん。どうぞ」
それが、ふたりの出会いだった。
*
悠真は、無口だった。
でも、紬の読む本に興味を示した。
ある日、彼女が百人一首の解説書を読んでいると、彼がぽつりと言った。
「それ、好きなんだ」
「うん。季節のこととか、気持ちのこととか、すごく繊細に書いてあって…」
「俺も、あの歌が好き。“春すぎて夏来にけらし”ってやつ」
紬は驚いた。
まさか、彼がその歌を知っているなんて。
「どうして?」
「なんとなく。春が終わるのって、ちょっと寂しいけど、夏が来るって気づいたときの、あの感じ。なんか、分かる気がして」
その言葉に、紬の胸がふるえた。
彼もまた、季節の境目に立っている人なのかもしれない。
自分と同じように。
*
それから、ふたりは毎日のように図書室で会った。
言葉は少ないけれど、同じ本を読み、同じ窓の外を見て、同じ風を感じる。
それだけで、十分だった。
ある日、紬は思い切って聞いてみた。
「悠真くんは、誰かを…忘れられない人がいるの?」
彼は少し黙ってから、うなずいた。
「姉さんがいたんだ。春に、事故で亡くなった。俺、ずっと一緒にいたのに、何もできなかった」
その言葉に、紬は胸が締めつけられた。
彼の中にも、春があった。
そして、それが過ぎてしまったことを、彼はまだ受け入れられずにいる。
「でも、最近、少しだけ思えるようになったんだ。
春が終わっても、夏は来るんだって。
白い衣が、風に揺れてるのを見たとき、なんか…姉さんが“もう大丈夫だよ”って言ってる気がして」
紬は、そっと彼の手を握った。
その手は、少し震えていたけれど、あたたかかった。
*
季節は、確かに移ろっていく。
春が終われば、夏が来る。
それは、誰にも止められない流れ。
けれど、その中に、確かに残るものがある。
白妙の衣のように、心に残る記憶。
それは、風に揺れながら、そっと語りかけてくる。
「ここにいるよ」と。
*
紬は、もう一度窓の外を見た。
香具山の稜線に、白い布が揺れているように見えた。
それは、彼女の記憶の中の風景かもしれないし、
今この瞬間、誰かが干した本当の衣かもしれない。
でも、どちらでもよかった。
大切なのは、その風景が、誰かの心に届くこと。
そして、過ぎ去った春の先に、確かに夏が来たことを知ること。
「ねえ、また明日も、ここで会える?」
「うん。もちろん」
ふたりは、静かに笑い合った。
白妙の衣が揺れるように、心がふわりとほどけていく。
そして、夏が始まった。
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