第24話 『Transition – 幕間 #6 “聖夜の腐敗、あるいは双子の共鳴”』
――ふぅー。
私の口から漏れた熱い吐息が、冷たい空気に触れて白く濁る。
体内の血液はまだ、マグマのように沸騰し続けていた。
心臓の鼓動が、早鐘を打っている。
ドクン、ドクン、ドクン。
それは、獲物を仕留めた後の興奮であり、同時に、強大な力を手に入れたことによる全能感の余韻でもあった。
私は、自分の手を見つめる。
爪は鋭く伸び、指先はまだ微かに震えている。
さっきまで握りしめていた神の肉の感触――温かく、柔らかく、そして脈打っていたあの生々しい記憶が、未だに手に焼き付いて離れない。
口の中には、鉄錆と獣脂の甘みが残っている。
飲み込んだ。私は、神を喰らったのだ。
その事実に、背筋がゾクゾクと粟立つ。恐怖? いいえ。これは、歓喜。
「……あはっ」
自然と笑いが漏れる。
鏡の中の私が、獣の瞳でニタリと笑い返す。
もう、誰も私を傷つけられない。
誰も、私から奪えない。
だって私は、守られるだけの哀れな生贄から、奪い取る側の捕食者へと生まれ変わったのだから。
「……おや。まだ興奮が冷めやらぬようですね」
綾霞の声が、冷や水を浴びせるように響いた。
「無理もございません。……由来は『物語』であろうとも、神の荒御魂(あらみたま)をその身に宿したのですから。今の貴女様の魂は、破壊と殺戮の衝動で満ち溢れている」
彼女は、ワゴンから氷水に浸したタオルを取り出し、私の汚れた手や口元を拭っていく。
ゴシ、ゴシ。
それはまるで、解体された獣の肉を清めるような、無機質で乱暴な手つき。
冷気が、沸騰していた私の血を無理やり冷やし、凝固させていく。
冷たい。
氷水に浸したような冷気が、火照った肌を刺す。
「ですが、このままではいけませんね。……次なる晩餐は、荒々しい『動』の宴ではなく、じっくりと腰を据えて味わう『静』の宴なのですから」
パチン。
綾霞が再び指を鳴らす。
その乾いた音が、世界を一変させる合図だった。
私の周囲を取り囲んでいた、未だ二重写しのように現れては消えてを繰り返していた、あの荒涼とした雪山の幻影が、蜃気楼のように揺らぎ、今度こそ消えていく。
同時に、私の身体を締め付けていた紅に染め抜かれた白無垢を模した白装束の重みも、ふわりと解けるように消滅した。
代わりに現れたのは、深紅のベルベットと、漆黒の闇に包まれた、重厚なゴシック調の空間。
壁には、古びた肖像画が飾られ、暖炉には青白い炎が静かに燃えている。
窓の外には、静かな闇を湛える、永遠の夜。
そして、部屋の隅には――不気味に捻じれた、黒い大樹が飾られていた。
枝には、鮮やかな緑の葉の代わりに、鋭い茨が絡みつき、オーナメントの代わりに、ホルマリン漬けのようなガラス玉が吊るされている。
中に入っているのは、赤い液体と……眼球? あるいは小さな心臓か。それはまるで、聖人を処刑した後の、冒涜的な戦利品のよう。
「メリー・クリスマス。……愛しい、愛しいお客様」
耳元で、甘ったるい声がした。
紗雪だ。彼女もまた、姿を変えていた。
着替え直してのメイド服ではない。
また、異なる衣装。
漆黒の生地に、深紅のレースをあしらった、豪奢なゴシックドレス。
大きく開いた背中からは、抜けるように白い肌が露わになり、そこには見えるはずのない『背徳の翼』が生えているような気配さえ漂う。
「今宵は聖夜。……神の子が生まれ、世界が祝福に包まれた日」
彼女は私の隣に腰を下ろし、ドレスの裾を翻す。
「けれど、この館には『聖なるもの』など存在しませんわ。あるのは、光の届かない場所で、誰にも知られずに腐り落ちていく、惨めな果実だけ」
彼女が、私にグラスを差し出す。
中身は、どろりと重そうな、黒に近い赤ワイン。
「飲みましょう? ……これは、祝福の杯ではなく、堕落の誓い。互いの傷口を舐め合い、毒を回し合うための、呪いの血ですわ」
私はグラスを受け取る。
私の手もまた、いつの間にか紗雪とお揃いの、深紅のドレス調の、フェミニンな気配を漂わせながらも中性的なタキシードに包まれていた。ゴシック調のコルセットが、緩んだ肋骨を再び締め上げる。
けれど、それは先ほどの白無垢のような生贄を縛り上げる『拘束』ではない。
私という存在の輪郭を、内側から溶け出さないように無理やり繋ぎ止めるための、最後の防波堤のような締め付け。
今頃になって、あの黄金のスープと共に味わった、天の竜。ラズリの人の身に収まるための労苦を思い知った気がする。
グラスを傾ける。芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
熟した葡萄の甘さと、オーク樽の渋み。
そして、微かな鉄分。
一口含むと、血液を煮詰めたように濃厚な液体が舌に絡みつき、喉をゆっくりと滑り落ちていく。
重い。
血管の中を流れる血が、サラサラとした液体から、ドロドロの泥へと変わっていく感覚。
身体の芯からじわじわと広がり、思考を泥沼へと引きずり込むような、陰湿な熱。
ん……。
ため息が漏れる。力が抜けていく。
荒れ狂っていた獣の本能が、ワインの澱と共に、腹の底へと沈殿していく。
代わりに頭をもたげてくるのは、ねっとりとした、暗い情動。
誰かを愛したい。
誰かに愛されたい。
それも、ただの綺麗な愛じゃない。
相手を傷つけ、縛り付け、その痛みを自分のものとして感じたいという、歪んだ倒錯的な渇望。
「落ち着かれましたか?」
厨房から戻ってきた綾霞が、静かに問う。
彼女もまた、紗雪と対になるような、深紅をベースに黒の刺繍を施したドレスを纏っていた。
いつもはハーフアップの白い髪を、今は高く結い上げ。その首元には、黒いベルベットのチョーカーが巻かれている。
黒と赤。赤と黒。
対照的な二人が並ぶと、まるで鏡合わせの双子のように、奇妙な調和を見せている。
「肉料理で高ぶった神経を鎮めるには、少し刺激の強い、新たな『毒』が必要です」
綾霞がワゴンから降ろしたのは、巨大な銀のトレイだった。
その上には、ガラスのドームが被せられている。
中は見えない。
白く濁った結露が、ガラスの内側を覆っているからだ。
けれど、そこから漂ってくる気配は、明らかに異常だった。
ムッとするような湿気。
そして、鼻が曲がりそうなほどの強烈な刺激臭。
「開けますよ」
綾霞が、手袋をはめた手でドームの取っ手を握る。
パカッ。
ガラスが外された瞬間、ダイニングルームの空気が凍りついた――いや、腐った。
アンモニアと、湿った土、そして濃厚なクリームが混ざり合った、強烈な芳香。
それは、『食べ物』から発せられる匂いというよりは、生き物が死に絶え、土へと還る直前の、もっとも濃厚な瞬間の臭いに近かった。
……うッ。
私は思わず鼻を覆う。臭い。
生理的な拒絶反応が、胃の腑からせり上がってくる。
けれど、不思議なことに、吐き気は持続しなかった。
むしろ、その悪臭を嗅げば嗅ぐほど、口の中に唾液が溢れてくる。
本能の奥底にある、禁断の扉が開く音。
腐ったものを食べたい。毒を飲みたい。自分の中の清浄な部分を、すべて汚してしまいたい。
そんな、倒錯した食欲が鎌首をもたげる。
トレイの上に鎮座していたのは、巨大なチーズの塊だった。
しかし、それは日本のスーパーマーケットで日頃見かけるような、滑らかで優しい、口触りの良いチーズではない。
表面は青黒い黴(カビ)に覆われ、ひび割れた裂け目からは、どろりと溶けた中身が膿のように溢れ出している。
「『双子聖女』。……あるいは、熟成された痛みと快楽のゴシック・ブルーチーズ」
綾霞が、ナイフをチーズに突き立てる。
ズブ、という湿った音がして、ナイフが抵抗なく沈んでいく。
「チーズとは、乳が『痛み』を知って生まれ変わった姿。……清らかな白い液体が、黴という異物を受け入れ、時間をかけて腐敗し、発酵し、そして芳醇な塊へと変貌する」
彼女は、切り取ったチーズの断面を見せつける。
そこには、青い黴が血管のように複雑な網目模様を描いて走っていた。
「見てください。……まるで、傷ついた肺のようでしょう? あるいは、毒に侵された心臓か」
綾霞の薄赤色の瞳が、妖しく輝く。
「この黴は、互いを蝕み合う、百合の花咲く『共依存』の象徴。……傷つけば傷つくほど、その味は深くなり、二度と離れられないほどに絡み合っていく」
「あら、美味しそう……」
隣で、紗雪がうっとりとした声を上げた。
彼女はトレイに身を乗り出し、濃厚な腐敗臭を胸いっぱいに吸い込んでいる。
その表情は、恍惚としていて、そしてどこか狂気を孕んでいた。
「わたくし、分かりますわ。……この匂いは、誰にも言えない秘密の匂いですの」
彼女が、私の肩に頭を預けてくる。
その重みは、先ほどまでの獣のような軽やかさとは違い、ずしりと重い。
泥沼に足を取られるような、抗えない重力。
「推しが他の誰かに笑いかけるのを見て、その相手が死ねばいいと願った夜の、あの臭い。貴女様にも、あるでしょう? ……誰にも見せられない、ドロドロとした暗い感情が。推しへの純粋な愛の裏側に張り付いた、独り占めしたいという醜い嫉妬が」
紗雪の指先が、私の胸元を這う。
コルセットの隙間から、冷たい指が入り込んでくる。
なんで、まさか初めからお見通しだった?
「隠さなくていいのです。ここでは、腐っているものほど美しい。痛みこそが、――愛の証なのですから」
彼女の言葉に、私の心が共鳴する。
そう。私は知っている。
清廉潔白なファンなんて、ただの幻想だということを。
私の心の奥底には、いつだって暗い欲望が渦巻いていた。
推しが他の誰かと笑っているのを見るたびに感じる、胸の痛み。
それが嫉妬だと認めるのが怖くて、ずっと『尊い』という言葉で蓋をしてきた。
でも、今は違う。
この強烈なチーズの香りが、私の理性の蓋を溶かしていく。
あぁ、いい匂い。
汚くていい。臭くていい。だって、これが私の『本性』だったんだから。
綺麗事だけで推しを愛せるなんて、傲慢だったんだ。
その醜さごと飲み込んで、私だけのものにしたい
「さあ、召し上がれ」
綾霞が、小皿に取り分けたチーズを差し出す。
ドロドロに溶けたチーズには、黄金色の蜂蜜がたっぷりとかけられていた。
腐敗の青と、甘美な金。
そのコントラストは、見る者の理性を揺さぶり、堕落へと誘う悪魔の招待状。
「最初のひと口は、少し勇気がいるかもしれません。……ですが、一度その味を知ってしまえば、もう二度と、清らかな優しいそれには戻れなくなりますよ? ですので、お覚悟を」
私はフォークを手に取る。
手は震えていない。
むしろ、早くその『毒』を体内に取り込みたくて、指先が疼いている。
(To be continued ... 12/25 Fromage)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます