第23話 『紅の祝言、あるいは共犯者の口づけ』
私の手の中にあるのは、勝利の証だった。ただの肉片ではない。
不純物を、邪魔者を、理不尽な暴力を、私自身の殺意という炎で焼き尽くし、叩き潰した果てに残った、純粋な『命』の結晶。
それは私の掌の上で、ドクン、ドクンと力強く脈打っている。
神の心臓。
熱い。火傷しそうなほどの熱量が、皮膚を焼く。けれど、不思議と痛みはない。
まるで、私の心臓がもう一つ増えたかのような、身体の一部が帰ってきたかのような、不可思議な懐かしい温もり。
先ほどまで鼻をついていた腐敗臭も、泥の臭いも、もうどこにもない。
漂うのは、雪解け水のように澄み渡り、それでいて鉄錆のように濃厚な、神聖な血の香りだけ。
「……素晴らしい」
綾霞が、音もなく私のそばに跪く。
彼女の曼殊沙華に彩られた巫女装束にも、返り血が点々と赤い花を咲かせているが、それは汚れではなく、儀式を彩る装飾のように見えた。
「自らの手で穢れを払い、敵を屠り、勝ち取った供物。……それこそが、神が求めていた『愛』の形。ええ、ええ、きっとそう」
彼女は、血に濡れた私の手を、そっと両手で包み込む。
その感触は、料理人が食材を扱うそれではなく、祭司が神器を捧げ持つかのように恭しい。
「さあ、お納めください。『和風山神百合』、四切目……その肉を体内に取り込むことで、新たなる契約は完了いたします」
私は頷く。
迷いはない。
恐怖もない。
あるのは、これから一つになれるという、魂が震えるほどの歓喜だけ。
私は口を大きく開ける。獣のように。
愛に飢えた女のように。
そして、脈打つ肉塊を、口の中へと放り込んだ。
――ガブリッ。
噛み締めた瞬間、世界が弾けた。
溢れ出すのは、あの黄金のスープの重さすら凌駕する奔流。
真紅の血潮が、私の口内を、喉を、食道を、津波のように押し流していく。
ん、んんッ……!
もはや、喰らい、飲み干しているのではない。
私が、神を『犯して』いる。
圧倒的な質量の生命力を、私の器が無理やり飲み込み、隅々まで支配していく。
ンッ、くぅ……! 腹の底で、神が暴れている。いい気味だ。お前はもう、私の栄養でしかない。
味?
そんなものは分からない。
強いて言うなら、それは『全能』の味だった。
空を駆ける疾走感。獲物を引き裂く高揚感。
そして、愛する者を背に乗せて守り抜く、絶対的な誇り。
愛する者を……崇高なる者を……。
あれ?
触れてはいけない、遠くから全てを捧げ、尽くし、見返りを求めない。
『推し』……。
かぶりを振る。全てを押し流されるに任せる。
味覚という情報を飛び越えて、直接脳髄に叩き込まれる。
『モハヤ ゲンケイヲ トドメナイ 物語 ノ 記憶』
◇ ◇ ◇
『……アオォォォォォォンッ!!』遠吠えが聞こえる。
それは、私の喉からほとばしったものか、それとも、私の内側に宿った彼女(カミ)の声か。
視界が開ける。そこは、死屍累々の雪原。
かつて私を縛り付け、神へと捧げる供犠と成した村は、雪崩に飲み込まれ、跡形もなく消え失せていた。
彼女の、契りを結ぶべき、共に歩むべき、彼女の失せた虚無なる雪原。
『……小雪。わっちの真の……』
神が、その名を告げようとする。
いらない。
私は現実で呟く。
名前なんていらない。……貴女はもう、私の一部なんだから。
幻覚が霧散する。感動的な結末など必要ない。私が喰らった、という事実だけがあればいい。
ならば……。
この『物語』は。
器が歪む。私の、容(かたち)が、歪む。
◇ ◇ ◇
「……あぁ、なんて……なんて美しい!」
紗雪の絶叫に近い歓声が、私を現実に引き戻す。
気がつけば、私は椅子の上でのけぞり、天井を仰いでいた。
全身から湯気が立ち上っている。
身体が熱い。
血液が沸騰し、皮膚の下で筋肉が蠢いている。
「見て、見てくださいませ! あなた様のそのお姿!」
紗雪が、あの鏡を。遠い昔に感じる、曇り、澱み、碌に映していなかった鏡。
いつしか綺麗な鏡面を壁で輝かせるようになったそれを。引っぺがしてきたらしい。
ぽっかりと、穴が開いた洋館の壁を、呆れを含んだ眼差しで見つめる私に突きつけてくる。
鏡の中の私。
そこに映っていたのは、かつての大人しく、怯えていた内気な私の顔ではなかった。
実感の沸かない顔形を確かめるべく、触れた手指の先には、紫色の鮮やかなネイル。
唇は、虹色の輝きを纏い、艶やか。
瞳は黄金色に輝き、瞳孔は獣のようにあるいは、竜のように、縦に裂けている。胃の腑からこみ上げる熱量もまた、健在。
そぎ落とされた意識は、この時を経てもなお、冴えわたり。
そして何より――私の頭上には、白銀の毛並みを持つ『狼の耳』が生えていた。
頭が重い。むず痒い違和感に手をやると、そこには確かに、フサフサとした毛並みの温かい『獣の耳』があった。
ピクリ。私の意思で、その耳が動く。
「神降ろし……いいえ、これは『神堕とし』ですわね」
紗雪が、私の獣耳にそっと触れる。
ビクリ、と身体が反応する。
紗雪が、私の獣耳にかぶりつく。
「あむっ……んぅ……ああ、美味しい……。獣の匂いがしますわ」
甘噛みされる感触が、脊髄に直接響く。
「貴女様は、神を喰らい、その身に宿した。……もう、ただの人間ではありませんのよ」
彼女は私の首筋に腕を回し、頬ずりをする。
「野生の匂い……。血と、獣と、殺戮の香り。……ゾクゾクしますわ」
彼女の吐息が荒い。
私の変貌に興奮し、発情しているかのように、瞳を潤ませて私を見つめている。
「ねえ、します? ……その溢れんばかりの力で、わたくしを乱暴に」
彼女が、自身の服の襟元を寛げる。
白い肌が露わになる。
私の喉が鳴った。
食欲か、それとも異なる原初の欲求か、あるいは破壊の衝動か。
区別のつかない混然一体としたどす黒い衝動が、下腹部で渦を巻く。
噛みつきたい。
その白い肌に、私の牙を突き立てて、マーキングしてやりたい。
首元に刻まれたキスマークのような徴が、疼く。
「……お戯れはその辺になさいませ、紗雪」
綾霞が、静かに窘める。
彼女の手元には、すでに次の準備が整えられていた。
血まみれの皿は下げられ、テーブルの上には、新しいナプキンが敷かれる。
「メインディッシュまで完食されました。……あなた様の魂は今、力で満ち溢れ、荒れ狂っていることでしょう」
綾霞が、私を見る。
その目は、暴れる猛獣を檻に入れる飼育員のように冷静だ。
「ですが、宴はまだ終わりません。……満ちた力は、熟成させなければなりませんから」
彼女が指を鳴らすと、ダイニングルームの景色が再び揺らぐ。
朱塗りの柱が腐り落ち、赤い提灯の明かりが、どす黒く変色していく。
血の赤から、腐敗の黒へ。
熱狂的な動の空気から、ねっとりと停滞した静の空気へ。
「次は『チーズ(フロマージュ)』。……高ぶった神経を、濃厚な腐敗の香りで包み込み、とろとろに溶かして差し上げましょう」
私は、荒い息を吐きながら、自分の手を見つめる。
紫の爪が輝く指の間には、まだ神の肉の感触が残っている。
私は、指についた血をペロリと舐めた。
芳醇な甘さ。
私は笑った。
鏡の中の私も、ニタリと笑った。
この身体の奥底で、何かが確かに変わってしまったことを、私は歓喜と共に受け入れていた。
【本日のメニュー:Viande Finale】
『和風山神百合』 ~白無垢の生贄、鮮血のソースを添えた神のレアステーキ~
第4章(完結) 『紅無垢の鬼と、旅立ちの朝』
◆ ※※※ ◆ いつもとは違う:筆者注釈 ◆ ※※※ ◆
本作のお話が進み、連動短編と本作中で摂取する『物語』の間の、『乖離』はあえて、大きくしてあります。
本作は本作で完結する作品として、作中、しっかりと描写はします。
が、是非、短編作品でその差異も確認いただけますと、より深く『物語』をお楽しみいただけます。
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