第21話 『徒花の燻製、あるいは腐り落ちる神酒』

 口の中に広がる鉄錆の味は、まだ消えない。

 それどころか、呼吸をするたびに肺の奥底から血の匂いがせり上がり、私の脳髄を灼くような熱に変えていく。


 もっと。もっと欲しい。


 胃袋が、内側から私の腹を食い破らんばかりに脈打ち、次なる獲物を求めて咆哮している。

 私は血に濡れた手で、皿の上に残る肉塊を掴もうとした。

 けれど、その指先が触れる直前。


 フワリ、と甘く、息が詰まるほど気だるい香りが鼻先を掠めた。

 それは、雪原の凛とした冷気には似つかわしくない、濃厚な金木犀の香り。

 安っぽい脂粉のむせ返るような匂い。そして、古い血痕が染みついた布団のような、鉄錆と獣の体臭。

 視界が揺らぐ。白一色だった世界に、朱色の墨が滴り落ち、滲んでいく。


 気がつけば、私の周りの景色は一変していた。

 凍てつく霊峰の頂は消え失せ、代わりに現れたのは、赤い提灯が無数に吊るされた、異界の遊郭。


 足元には赤い毛氈(もうせん)が敷かれ、頭上では朱塗りの格子の向こうで、顔のない遊女たちの影が妖しく舞っている。

 雪は止み、代わりに肌に纏わりつくような、生温かく湿った夜気が、私の着物の襟元から入り込んでくる。


「……ふぅー」

 艶めかしい吐息と共に、紫煙が私の顔にかかる。

 煙の主は、紗雪だった。


 彼女は私の隣に腰かけ、長い煙管(キセル)を指先で弄んでいる。

 その姿は、先ほどまでの「獲物を狙う獣」から、今度は「客を骨抜きにする花魁」へと変貌していた。

 着崩した着物の襟元からは、白磁のような鎖骨が覗き、その肌は上気したようにほんのりと桜色に染まっている。


「けほっ……けふん。……あぁ、やっぱり慣れませんわね」

 彼女は可愛らしく咳き込むと、煙管をくるりと回し、その吸い口を私の唇に押し当ててきた。

 とても、高貴な品格をもつ煙管。


 それはまるで神域に飾られているべき逸品のようで。

 畏れ多さに腰が引けかける。

 人が、私が、決して手を触れて良い物では……。


「あなた様が吸ってくださる? ……この煙は『忘却』。神様が見て見ぬふりをした、人の世の澱(おり)を燃やした煙ですの」

 差し出された吸い口は、彼女の唾液で濡れて、妖しく光っている。


 いけない。

 わかっている。それなのに。

 これは神域の物、眺めるだけで、触れられないままで、満足しているべきもの。


 なのに。

 灰色の穴を、嘗て(かつて)の在り様を、削り、変容した私は。


 紗雪の魅惑にもはや抗えない私は。


 その吸い口を、咥えてしまった。



 紗雪の唾液で濡れた吸い口からは、蜜のような甘みと、舌が痺れるような苦みが同時に流れ込んでくる。

 一息吸い込むと、肺の中にドロリとした『甘い泥』が沈殿していく感覚。

 頭の芯がグラグラと揺れ、私の中の『人としての良識』が、霞のように遠のき、窒息していく。


 気持ちいい。

 ただ、泥のように溶けてしまいたい。



「お食事はまだ、終わっておりませんよ」

 綾霞の声が、湿った空気を切り裂く。

 彼女は白木の盆を下げ、代わりに黒塗りの三宝を持ってきた。


 そこに載っているのは、先ほどの肉塊の残り……ではない。

 燻(いぶ)されて黒く変色し、表面がドロドロに溶け崩れた、得体の知れない肉片。


「今宵のソースは、少し『癖』がございます」

 綾霞が、その肉の上に、壺からどろりとした黒い液体を浸すようにかける。

 それはタールのように粘度が高く、光を吸い込むような漆黒。

 鼻を近づけると、腐敗臭と、ツンとするような刺激臭、そしてなぜか食欲をそそる芳醇な酒の香りが混ざり合って漂ってくる。

「それは『穢れ』」

 綾霞が、無表情に告げる。

「人々の欲望、嫉妬、怨嗟。……神の清浄な身体を内側から食い荒らし、腐らせる、業(ごう)の結晶でございます」


 黒い液体が肉に染み込み、鮮やかだった赤身をどす黒く染め上げていく。

 それはまるで、美しい霜降りが、壊死した傷口へと変貌していく過程を見せられているようだ。


「『和風山神百合』、二切れ目。……神の愛は甘く、そして――毒のように身体を蝕みます」


 私は、黒く汚れた肉を見つめる。

 汚い。

 生理的な嫌悪感が胃からせり上がってくる。

 けれど、それ以上に強烈なのは、『食べてみたい』という背徳的な好奇心。


 清らかな神が、人の業によって穢され、堕ちていく様。

 その『堕落の味』を知りたいと、私の本能が囁いている。

 私は震える手で、黒い肉片を摘まみ上げた。

 指先から伝わる感触は、ズルリとしていて、まるで腐りかけの果実のよう。

 口に運ぶ。

 唇に触れた瞬間、ピリピリとした痛みが走る。

 それは拒絶反応か、それとも歓喜の悲鳴か。


 ――ジュワリ。


 舌の上で、肉が弾けた。

 苦い。

 ドブ川の底を浚ったような、鼻が曲がりそうな腐敗臭と苦み。

 吐き出してしまいたい。


 そう思った次の瞬間、脳髄を直撃したのは、理性を溶かし尽くす麻薬的な旨味と、暴力的なまでの甘美なコク。

(毒だ。……でも、たまらない。)

 腐敗と発酵は紙一重だというが、これはまさにその境界線上に咲いた、徒花(あだばな)のような味わい。


 毒。

 これは間違いなく、魂を腐らせる毒。


 けれど、どうしようもなく美味い。清廉潔白な生き方では決して味わえない、後ろめたさと快楽が入り混じった、密通の味。


 ◇  ◇  ◇


 ドロドロと溶け崩れていく。

 私の視界も、思考も、そして肉体さえも。


 神域にある遊郭。いえ、神域となった遊郭。

 そこは、神と人とあやかしが交わる、境界の場所。


『……穢れてしもうた』

 誰かの声が聞こえる。


 それは私自身の声か、それとも肉に宿っていた神の記憶か。

 目の前に広がるのは、白銀色の毛並みを泥と血で汚した、美しい獣の姿。

 彼女は傷つき、病み、そして狂いかけている。


 けれど、その姿は、完全無欠だった時よりも遥かに妖艶で、私の心を惹きつけてやまない。

『主さんや。……わっちを、蔑(さげす)むかえ?』

 彼女の問いかけに、私は首を振る。

 いいえ。

 軽蔑などするものですか。貴方が穢れたのは、私を守るため。

 私の代わりに、人の世の汚濁をすべて飲み込んでくれたから。


『……ならば、諸共に……堕ちんしょう』彼女が私を抱き寄せる。

 その体毛はゴワゴワとしていて、獣臭くて、そしてどうしようもなく温かい。

 彼女の傷口から溢れる黒い血を、私は舐める。

 苦い。けれど、甘い。

 私たちは互いの傷を舐め合い、穢れを分かち合い、共に泥沼に沈んでいく。

 身体の奥底から、熱い疼きが湧き上がってくる。

 それは痛みであり、痒みであり、そして逃れられない愛欲の熱。




 ――違う、ちがうちがうちがう。

 私の裡に取り込んだ、『捕食者としての私』が叫ぶ。


 喰らった、『物語』達が叫ぶ。

「捧げるんじゃない……」

 無意識に、言葉が漏れる。

「私の血をあげるなんて、もったいない。……奪わなきゃ。神様の血を、肉を、全部私が貰わなきゃ」

 ちがう……!!



 夕霧様……呼ばう声が聞こえる。


 白銀の髪と獣の耳を持つ、美しい神様がいる。

 けれど、彼女は苦しげに咳き込み、黒い血を吐き出していた。


 私は懐の錆びた小刀で、迷わず自分の指を傷つける。

 滴る鮮血。私の血。


 神様へと、捧げる血。


(馬鹿な子。……食べちゃえばいいのに。)

 遠のいていく。

『物語』が、真実が、遠のいていく。


 救済の物語が、私の欲望によって上書きされ、歪んでいく。



 ◇  ◇  ◇



「っ、はぁ、ん……ッ!」

 口から漏れたのは、食事中にあるまじき、艶めかしい吐息だった。

 全身が熱い。

 血管の中を、ドロドロとした黒い血が駆け巡り、細胞の一つ一つを侵食していく感覚。

 指先の感覚が遠のき、代わりに身体の奥の粘膜だけが、異常なほど鋭敏になっている。


「……よく、馴染んでおりますね」

 綾霞が、観察するように私を見つめる。

 彼女の背後にある闇の中で、赤い彼岸花がゆらりと揺れた気がした。


「穢れを受け入れるということは、清浄さを捨てるということ。……あなた様は今、人としての『正しさ』を捨て、神と同じ『魔性』を手に入れたのです」


「素敵……。なんて美味しそうな色……たまらなくなってしまいますわ」

 紗雪が、私の首筋に吸い付く。

 彼女の唇もまた、燻製の煙と、腐敗した蜜の味がした。


「あなた様の中身が、とろとろに腐って、甘く熟していくのが分かりますわ」

 彼女は私の帯に手を掛け、ゆっくりと、しかし確実に緩めていく。


「もう、我慢なさらなくていいのです。……理性のタガも、着物の帯も、全部解いてしまいましょう?」

 シュルリ。

 帯が緩む音が、私の最後の理性が千切れる音と重なった。

 ああ、もういい。

 神様も、推しも、物語も。全部、私の栄養になればいい。


 羞恥心も、倫理観も、どうでもいい。もっと欲しい。

 もっとこの毒を、穢れを、神の堕落を味わいたい。


 皿の上には、まだ黒く染まった肉塊が残っている。

 それは毒々しく光りながら、私を誘惑し続けている。

 私は笑みを浮かべる。


 きっと今の私は、遊郭で客を待つ娼婦のように、あるいは獲物を前にした妖のように、淫らで恐ろしい顔をしているに違いない。

「いただきます……」

 私は両手丁寧に合わせ。


 そして。


 大きく開いた両の手指で肉を掴み、顔を埋めるようにして喰らいついた。

 口の周りを黒いソースで汚しながら、私は貪る。

 神の尊厳を、人の業を、そして私自身の人間性を。


 飲み込むたびに、私の魂は深く、暗く、甘い深淵へと堕ちていく。



【本日のメニュー:Viande 2nd】

『和風山神百合』 ~白無垢の生贄、鮮血のソースを添えた神のレアステーキ~

 第2章 『徒花(あだばな)の廓(くるわ)』

https://kakuyomu.jp/works/822139840269426247/episodes/822139840269816483




 ◆ ※※※ ◆ いつもとは違う:筆者注釈  ◆ ※※※ ◆

 本作のお話が進み、連動短編と本作中で摂取する『物語』の間の、『乖離』はあえて、大きくしてあります。

 本作は本作で完結する作品として、作中、しっかりと描写はします。

 が、是非、短編作品でその差異も確認いただけますと、より深く『物語』をお楽しみいただけます。

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