肉料理編:神喰い
第20話 『雪原の獣肉、あるいは神の舌触り』
ドンッ、という重たい音が、耳の奥で反響し続けている。
私の目の前に鎮座しているのは、湯気を上げる巨大な肉の塊だった。
空に叢雲。月隠れ。深々と、細雪舞う。
いつしか。雪原までも、生まれている。
テーブルの変じた白木の供物台の上に横たえられたそれは、綺麗に整形されたステーキなどではない。
骨付きのまま、筋繊維の荒々しい断面を晒し、表面だけを軽く炙っただけの、ほとんど『死体』に近い状態の赤身肉。
熱せられた脂がパチパチと爆ぜるたびに、周囲に濃厚な獣臭が撒き散らされる。
それは、高級なレストランで香るような上品な熟成香ではない。
雨に濡れた獣の毛皮、泥のついた蹄、そして切り裂かれたばかりの頚動脈から噴き出す、鉄錆と生温かい命の臭い。
臭い。
けれど、たまらなく甘美な匂い。
私の鼻腔は、その強烈な芳香を貪るように吸い込み、脳髄が痺れるほどの興奮を信号として送っている。
「……さあ、どうなさいました?」
綾霞の声が、どこか遠く、雪原の風に乗って聞こえるようだ。
巫女装束を纏った彼女は、白木の盆の向こう側で、冷徹な祭司のように私を見下ろしている。
「神は、貴女の『渇き』を待っておられます。……その白無垢が、朱に染まるその瞬間を」
私は、自分の手の中にあるナイフを見つめる。
赤茶けた錆が浮き、刃こぼれした、鈍(なまくら)な鉄塊。
こんなもので、切れるのだろうか? いや、切るのではない。
これは、『引き裂く』ための爪だ。
私の手が、意思とは無関係に震える。獲物を前にした武者震い。
「お手伝いして差し上げますわ」
再び背中に張り付いていた紗雪が、私の手の上から、彼女の手を重ねてきた。
熱い。彼女の掌は、この雪つもり寒野にあって、高熱を発する暖炉のよう。
白装束越しに伝わるその熱が、私の冷え切った血液を沸騰させていく。
「力を込めて。……躊躇わず、思い切り。愛する人の胸を貫き、その心臓を掴み取るように」
彼女の囁きが、私の腕に力を宿らせる。
(ああ、殺れる。愛せる)
私たちは二人で一つの生き物になったように、錆びたナイフを振り上げた。
――ズンッ!!
鈍い音が響き、ナイフが肉塊に突き刺さる。
ビシャッ。温かい液体が飛沫を上げて、私たちの頬を濡らした。
抵抗がある。
分厚い筋肉の繊維が、刃を拒むように収縮する感触。
けれど、紗雪と私の体重を乗せた一撃は、その拒絶をひたすら暴力的にねじ伏せ、深々と肉の奥底へと侵入していく。
グジュリ。
湿った音がして、傷口から何かが溢れ出した。
ドロリとした、鮮やかな紅色の液体。
噴き出した血が、私の顔に、胸元に、そして純白の着物に飛び散る。
白い絹地の上に、毒々しいほどに鮮やかな赤が咲く。
一輪、二輪、そして無数に。
「あっ……」
私は小さく声を漏らす。汚してしまった。清らかな白を、神聖な婚礼衣装を、汚らわしい血で汚してしまった。
けれど、その『背徳感』こそが、私の中の最後の理性を焼き切る導火線だった。
美しい。
白と赤のコントラストが、視界を焼き尽くすほどに鮮烈で、美しい。
「ふふっ……いい色。なんて素敵な『染み』」
紗雪が、私の肩越しに、着物に飛び散った血の跡を指でなぞる。
そして、その赤く染まった指先を、私の口内に捻じ込んだ。
「舐めてみて? ……これが、貴女がこれから嫁ぐ『神』の味。そして、貴女が犯した罪の味ですわ」
私は、言われるがままに舌を伸ばす。
鉄の味。塩気。そして、口の中が火傷しそうなほどの、生命の熱量。
野趣あふれる、溢れすぎる、生命の味。
美味しい。なぜ、でも、美味しい。
滴る生の血液が、どうしてこんなにも甘く、濃厚で、魂を揺さぶる味がするのだろう。
私はナイフを引き抜き、傷口を広げる。
切断された断面は、ルビーのように妖しく輝いている。
突き立てる、引き裂く。突き立てる、引き裂く。
繰り返す事、すでに幾たびか。
その都度飛び散る鮮血が、白装束を赤く染めていく。
「『和風山神百合』一切れめ。……いえ、ええ、そうですね。『雪葬の白無垢は、赤く染まるためにある』……存分に、味わい下さいませ」
綾霞の声も耳にほとんど入っていなかった。
鈍い刃物による斬撃に酷使したからだが、悲鳴を上げ始めている。
もう、フォークなんていらない。私は素手で、切り取った肉片を掴み取った。
指先に伝わる、ぬらぬらとした脂と血の感触。
熱い。まだ生きているみたいに、肉が指の中で脈打っている。
口を大きく開ける。人間の食事作法(マナー)など、ここには存在しない。
あるのは、捕食者と被食者。
神と生贄という、原始的な関係性だけ。
喰らうのは……贄? それとも、神?
――ガブリ。
私は肉塊に喰らいついた。
野性的な弾力。噛み千切ろうとすると、筋肉繊維が歯に絡みつき、抵抗する。
それを顎の力で強引にねじ伏せ、引きちぎる。
ブチュッ、と口の中で血の袋が弾けた。
濃厚な旨味が、爆発的に広がる。ふわり。鉄臭さの奥から、金木犀の甘い香りと、高貴な紫煙の香りが立ち上る。
それは牛でも豚でも、この世のどんな家畜の味とも違う。森の匂い。
雪の冷たさ。土の滋養。
そして、何百年もの時を生き抜いてきた、圧倒的な『格』の味。
飲み込むのが惜しい。
けれど、喉が渇いて仕方がない。
私は咀嚼もそこそこに、血まみれの肉塊を喉の奥へと流し込んだ。
ドクンッ!! 胃袋に落ちた瞬間、身体の内側で何かが爆発した。
熱い。
黄金のスープの時とすら比べ物にならない、破壊的な熱量が全身を駆け巡る。
血管が膨張し、皮膚が裂けそうなほどに脈打つ。
視界が赤く染まる。
ダイニングルームの景色が二重写しのように雪原の中に浮かび上がり、歪み、溶け出し。
そして、再び、雪原に覆い尽くされていく。
◇ ◇ ◇
そこもまた、雪が舞っていた。視界が、白い闇に覆われる。
ただ、月が。
冴え冴えとした光を投げかけている事が違いといえようか。
私は雪の中に縛られていた。
死装束である白無垢を纏い、感覚がなくなるほど凍えている。
目の前にもまた、『月』があった。
黄金の瞳を持つ、巨大な白銀の狼。
神だ。
圧倒的な捕食者が、私を見下ろしている。
食べられる。
鋭い牙が迫る。恐怖で身体が強張る。
けれど、頬に触れたのは痛みではなかった。
ざらり、とした熱く湿った感触。
巨大な舌が、私の凍えた頬を、首筋を、舐め上げる。
熱い。
獣の呼気が、体温が、凍りついた私の芯を溶かしていく。
(ああ、温かい。……でも、違う。)
守られるだけじゃ、足りない。与えられるだけじゃ、満たされない。
なぜ、なぜ。
今までの『物語』の追体験と、明らかに違う!
優しい金木犀の香りが、燻る紫煙の温もりが。
肌を触れ合う、交わりが。
確かにそこにあったはずの、神を名乗る白銀との心の交歓が。
救いが。
遠のいていく。
確かな『物語』の断片の、しかし温もりの全てがそぎ落とされて。
なぜ、なぜ、なぜなぜなぜ!
ひどい。
温もりを返して!?
◇ ◇ ◇
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
現実に戻った私は、獣のように荒い息を吐いていた。
口の周りは血で汚れ、手は脂でぎとぎとになっている。
けれど、不快感はない。
むしろ、全身に力が漲り、感覚が研ぎ澄まされている。
寒い。確かに寒いはずなのに、身体の芯がカッカと燃えているせいで、肌を刺す冷気が心地よい。
いつの間にか、世界は洋館のダイニングへと戻っていた。
しかし、赤い毛足の長い絨毯に覆われた床には、うっすらと雪が積もっていた。
絨毯の赤と、雪の白が、まだらに一面を染める。
私の吐く息が、白く濁って立ち上る。
「……素晴らしい食べっぷりです」
綾霞が、感嘆したように呟く。
彼女の足元にも雪が積もっているが、彼女はそれを気にする様子もなく、冷徹な瞳で私を観察している。
「肉を喰らうということは、その命を背負うということ。……貴女様の胃袋は今、神の一部を消化し、自らの血肉へと変えようとしているのです」
まって、なぜ『神』を、『生贄』の私が。
この『物語』は、違う。
そうじゃない。
おかしい。
『物語』を返して、私の中に『何を』、私という器を『何で』、満たそうとしているの?
綾霞? 紗雪?
「もっと……もっと欲しいでしょう?」
紗雪が、私の耳元で囁く。彼女は私の口元にこびりついた血を、自身の舌でペロリと舐めとった。
ザラリとした舌の感触。
それは人間の舌ではなく、ネコ科の、あるいはもっと大型の肉食獣の舌触りだった。
「わたくしには分かりますわ。……あなた様の中で、何かが目覚めたのが」
彼女の言葉通り、私の胃袋は、たった一切れの肉では到底満足していなかった。
もっと。もっと血を。もっと肉を。もっと命を。
飢えが、腹の底から黒い炎となって燃え上がっている。
(食べちゃいたい。)
愛されるより、愛したい。守られるより、奪いたい。先ほどまでの『甘やかされたい』という受動的な欲求ではない。
奪いたい、喰らいたい、一つになりたいという、能動的で攻撃的な渇望。
綾霞が、肉塊を再び指し示す。
皿の上にはまだ、巨大な命の塊が残されている。
その断面からは、ドクドクと鮮血が溢れ出し、白い皿を赤い湖に変えていた。
「さあ、続きを。……その手で掴み、その歯で引き裂き、骨の髄までしゃぶり尽くしてくださいませ」
私は再び、肉へと手を伸ばす。
着物の袖が汚れようとも、もう気にならない。
今の私にとって、この『赤』こそが、何よりも美しい飾りなのだから。
私は笑った。
口の端から血を滴らせながら、恍惚とした獣の笑みを浮かべて、次なる一口へと喰らいついた。
だって。
あんなに遠かった輝きが。
灰色の穴から見上げた、かつての輝きが。
今は私の胃の中で脈打っている。
今のほうが、ずっと『近い』、ずっと『色』を感じられる。
【本日のメニュー:Viande】
『和風山神百合』 ~白無垢の生贄、鮮血のソースを添えた神のレアステーキ~
第1章 『雪葬の白無垢』
https://kakuyomu.jp/works/822139840269426247
◆ ※※※ ◆ ※※※ ◆ いつもとは違う:筆者注釈 ◆ ※※※ ◆ ※※※ ◆
この回からは特に、連動短編と本作中で摂取する『物語』の間の、『乖離』が大きくなっている場合があります。
本作は本作で完結する作品として、作中、しっかりと描写はします。
が、是非、短編作品でその差異も確認いただけますと、より深く『物語』をお楽しみいただけます。
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