第17話 『Transition – 幕間 #4 “氷晶の彫刻、あるいは甘美な無思考”』

 ……ごちそうさまでした。

 改めて私の口から漏れた吐息は、白く濁ることなく、熱を帯びたまま空気中に溶けていった。


 身体が、重い。


 胃袋に収めたはずの『魚料理(ポワソン)』――氷の魔導師と花咲く姫君の物語が、私の血液へと変換され、全身を駆け巡っている。

 底なしに開いたままの、私の中の灰色の穴は、努めて無視する。

 意識すれば……呑み込まれる。


 指先から爪先まで、他者の人生、他者の愛、他者の執着。他者の『物語』で満たされ、パンパンに膨れ上がっているような感覚。


 左手の薬指には、紗雪からの口づけによって焼き付けられた『氷結誓約』の冷たさが、楔のように食い込んでいる。

 たった片割れの、指輪……。


 いけない、考えない。

『推し』は不可侵、『推し』を前には壁の花。

 ほんのわずか前のはずなのに、ずっと遠い世界の事のように感じる、飼いならされた過去の私の思考を呼び覚ます。


 そんな葛藤を無視するように、体内はカッと熱い。

 二つの心が溶け合ったゼリーの、あの完璧な調和と逃げ場のない閉鎖的な幸福感が、私の思考回路をショートさせていた。頭がボーッとする。脳味噌がシロップ漬けにされたように、思考が回らない。

 熱い。

 熱すぎて、自分がどこにいるのかも分からない。

 このまま、この熱い泥沼のような幸福感に浸りながら、脳のヒューズが飛んでしまえば楽になれるのに。

 まどろみの中で、永遠に――。



「……おや。少々、『あたり』ましたか」

 涼やかな声が、私の微睡みを弾く。

 綾霞だ。彼女はワゴンを押し、私の前の空になった皿を手際よく回収していく。


 その動作の一つ一つが、先ほどまでの情熱的な料理人のそれではなく、冷徹な外科医のように無駄がない。

「無理もございません。……あれほど濃密な『共依存』を、骨の髄まで飲み干したのですから。今のあなたの魂は、他者の熱に浮かされ、オーバーヒートを起こしている状態」

 綾霞が、私の顔を覗き込む。

 その薄赤色の瞳は、熱など欠片も宿していない。

 あくまで冷静に、これから施すべき『処置』を見極める、冷たいガラス玉のような瞳。


「このままでは、次の『お肉料理(ヴィアンド)』……あの、血と泥と錆に塗れた、重厚な神の物語を受け入れることはできませんね。……胃もたれどころか、魂の器ごと精神が焼き切れてしまいます」


「あら、大変」

 紗雪が、私の背後からふわりと覆いかぶさる。

 彼女の体温もまた、少し前までの異常な高熱から、いつものひんやりとしたドールの温度に戻っていた。


「愛しいあなた。……頬が真っ赤ですわ。おでこも、こんなに熱い」

 彼女の冷たい掌が、私の額にぴたりと当てられる。気持ちいい。

 頭が、知恵熱でも持ったように熱い。片頭痛でも起こしたように、たまらない痛みを発する。

 火照った肌に、陶器の冷たさが吸い付く感覚。


「ふふ、汗ばんでいらっしゃいますわね。……拭いて差し上げましょう」

 紗雪は懐から、新しいハンカチを取り出した。

 必死に蓋を閉めなおしている今は、彼女を傍に感じるのがつらい。


 純白のリネンではなく、薄い水色をした、透けるようなシルクの布。

 紗雪が私の首筋、鎖骨、そして汗の滲む胸元を。優しく、けれど執拗に拭っていく。

 布が肌を滑るたびに、そこから熱が奪われ、代わりにゾクゾクとするような悪寒にも似た快感が走る。


「……気持ちいいでしょう? 何も考えなくていいのですわ。……ただ、わたくしに身を委ねて、熱を冷ませばいいのですから」

 彼女の囁き声には、甘い麻薬が含まれているようだった。

 私の瞼が重くなる。

 思考の霧が濃くなり、自分が誰なのか、ここがどこなのかすら、曖昧になっていく。


 なんで、どうして私はここにいるのだっけ。


「さあ、お口直し(グラニテ)の準備をいたしましょう」

 綾霞が、厨房の方へと歩き出す。

 その背中越しに、彼女が指を鳴らした。


 パチン。


 乾いた音が響いた瞬間、ダイニングルームの空気が一変した。

 先ほどまで窓の外に広がっていた穏やかな月明かりが、急速に凍てつき、砕け散る。


 世界の色相が、ろうそくの炎に照らされた暖色から、冴え冴えとした月光が支配する寒色へと反転する。

 床から、壁から、天井から。

 目に見えない冷気が噴き出し、私の肌に残っていた『魚料理』の冷たさの中から生まれた、生ぬるい熱の余韻を一瞬で剥ぎ取っていく。


 寒い。けれど、それは痛みを伴う寒さではない。

 火照りすぎた神経を鎮静化させる、清潔で、静謐な冷気。



 ◇  ◇  ◇



 厨房の扉が開け放たれる。

 そこは、先ほどまでの調理場とはまたもや、まるで違う空間に変貌していた。

 火の気配は一切ない。竈の炎も消え、鍋の煮える音もしない。

 棚に無数に並んだ、ラベル付けされた瓶……『物語』の断片から抽出した『素材』が、静かに見守っている。


 あるのは、張り詰めた静寂と、氷点下の透明な空気だけ。

 部屋の中央には、巨大な『氷塊』が鎮座していた。


 それはただの水を凍らせたものではない。

『めでたしめでたし』のその後の、何も起こらない、何も変わらない『永遠の停滞』。

 その甘美な時間を切り取り、凝固させた、透明な絶望の結晶体。

 向こう側の景色が、歪みなく透けて見えるほどの純度。


 綾霞は、その氷塊の前に立つ。

 彼女の手には、包丁でもレードルでもなく、銀色に輝く鋭利な鑿(のみ)と、小さなクリスタルのハンマーが握られていた。


「……雑念は、ノイズになります」

 彼女が独り言のように呟く。


「過去への後悔も、未来への不安も、愛への渇望さえも。……次の、全ての争乱は終わり、ただただ、互いの愛だけのために生きる。『物語の後の物語』の前では、すべての興奮も、葛藤も、敵意も、邪魔な不純物」

 彼女が鑿(のみ)を構える。

 狙いを澄まし、ハンマーを振り下ろす。


 ――カッ。


 短く、硬質な音が響いた。

 氷を砕く音ではない。まるで、ダイヤモンドでガラスを削るような、耳の奥に残る鋭い音色。


 その一撃で、氷塊から薄い、極薄の欠片が舞い落ちた。


 ハラリ、ハラリ。


 それは雪の結晶のように六角形を描きながら、空中で煌めき、用意された銀の器へと降り積もっていく。


 ――カッ、カッ、シャリ。


 リズミカルな音が、静寂に満たされた厨房に響き渡る。

 そのたびに、私の頭の中が軽くなる。

 あぁ……削られてる。悩みも、迷いも、未だに残る『推し』への複雑な感情も。

 鋭利な刃物で、物理的に削ぎ落とされていくような、恐ろしいほどの爽快感。

 感情を排し、ただ機械的に、しかし芸術的な精度で、ひたすら繊細に削り取っていく。


 削り出された氷は、空気を含んでふわふわと白く輝き、うず高く積もっていく。

 それはまるで、思考の墓標。

 積み上げられた『物語の前の物語』の欠片の山。


「味付けは、シンプルに」

 ある程度の氷が削り出されると、綾霞は手を止めた。


 彼女の横には、色とりどりのシロップの瓶が並んでいる。

『情熱の赤(ベリー)』『嫉妬の紫(グレープ)』『希望の黄(レモン)』……。


 けれど、彼女はそのどれにも手を伸ばさない。

 選んだのは、棚の一番奥に隠されていた、ラベルのない透明な瓶。

 中に入っているのは、粘度のある無色透明な液体。


「苦みも、酸味も、血の味も、今はいりません。……必要なのは、舌が痺れるほどの透明な甘い清涼と、脳を麻痺させる冷たさだけ」

 彼女は瓶の蓋を開ける。

 漂ってきたのは、香りすらない、純粋な『糖』と『酸』の気配。

 それを、削り出した氷の山に、たっぷりと回しかける。


 とろりとした液体が、ふわふわの氷に染み込み、透明な輝きを与えていく。

 溶けて、馴染んで、一体化する。


 それは『氷の精霊と魔女』の物語。

 争いも、葛藤もすでに、終え。

 ただひたすらに甘く、怠惰で、幸せな一日を永遠に繰り返す。

『物語の後の物語』、閉じた箱庭の味。



 ◇  ◇  ◇



「……いい音ですわね」

 ダイニングルームで、紗雪がうっとりと呟く。


 厨房から聞こえてくる、シャリ、シャリという氷を削る音。

 それは私の鼓膜を心地よく震わせ、脳内に巣食っていた熱狂的な思考を、一つずつ削ぎ落としていくようだった。


「綾霞が削っているのは、氷だけではありませんの。……貴方様の頭の中にある『考える機能』そのものを、削ぎ落としているのですわ」

 紗雪が、私の耳元に唇を寄せる。


「だって、疲れてしまいましたでしょう? 誰かを愛するために努力して、憎んだり、守ったり……。そんな重たいこと、もう考えなくていいのです」

 彼女のひんやりとした指が、私のこめかみをゆっくりと揉みほぐす。


「次の『お口直し(グラニテ)』を食べれば、楽になれますわ。……頭の中が真っ白になって、ただ甘い、無償の幸福感だけに満たされる。ふわふわと、雲の上を漂うような……」


 私は、生唾を飲み込む。

 喉が渇いていた。

 水分への渇きではない。

 先ほどまでの再び襲い掛かってきた、狂おしいまでの、灰色の穴と、色への渇望でもない。


『停止』への渇きだ。


 もうこれ以上、感情を揺さぶられることに、心が悲鳴を上げている。


 休みたい。

 止まりたい。


 何も考えず、ただ甘く爽やかなものだけを摂取して、穏やかに、植物のように生きていたい。

 そんな倒錯的で、退廃的な願いが、私の内側から湧き上がってくる。



「お待たせいたしました」


 だから、私は、そんな綾霞の言葉にほんのわずかに畏れを、躊躇を、覚えてしまった。

 これ以上……もう。


 冷気を纏った綾霞が、ワゴンを押して戻ってくる。


 銀のトレイの上には、高く盛り付けられた氷菓。

 照明の光を反射して、七色に――いいえ、無色透明に輝いている。


 そこには一切の色がない。果肉も、ミントの葉も、飾り気など何もない。

 ただ、純粋な氷と砂糖の結晶。


「次なるメニューは『お口直し(グラニテ)』。……甘い一日を凍らせた、氷精霊のクリスタル・ソルベでございます」


 綾霞が、その皿を私の目の前に置く。

 ひやりとした冷気が、顔に当たる。

 それだけで、思考の一部が凍結し、崩れ落ちるのが分かった。


「さあ、スプーンをお取りください。……そして、その身に残る全ての熱を、一度、この冷たさで相殺してしまいましょう」


 綾霞の声が、遠くから聞こえるような気がした。

 私の視界には、もうその美しい氷の山しか映っていない。


 スプーンを握る手。

 その指先にはまだ、魚料理の熱が残っている。


 けれど、もうすぐそれも消えるのだ。

 私はスプーンを、崩れやすい氷の山へと差し入れた。


 サクッ。


 軽い、あまりにも軽い手応え。


 それは、私がこれから手放そうとしている『理性』の重さそのものだった。



(To be continued in ... 12/18 Granité)

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