第16話 『溶け合う二つの魂、指に焼き付く氷の結婚指輪』
立ち上る湯気の中、綾霞の手が優雅に動く。
彼女は懐から、木製の小瓶を取り出した。中に入っているのは、調味料ではない。
キラキラと輝く、青白い光の粒子――物語の結末で生まれた、『氷結彩花』のまだ若い種子だ。
彼女はそれを、混沌としたマーブル模様の皿の上に、一粒だけ落とす。
――キィィィン。
高く、澄んだ音が響き、時間が凍りついた。
瞬間、立ち上る湯気がそのままの形で結晶化し、皿の上の混沌を閉じ込める。
煮えたぎる熱を抱いたまま凍結した、物理法則を無視した『矛盾する宝石箱』。
その中心で、白身魚の身が、満開の薔薇のように永遠に咲き誇っている。
湯気を閉じ込め、熱を抱いたまま凍りついた、永遠の華を模した一皿。
「『花咲姫』、三輪目。……二つの心が溶け合い、決して離れられぬ『誓約』となった姿でございます」
綾霞がナイフを入れる。
サクッ、という軽快な音と共に、切り分けられる。
断面から溢れ出したのは、芳醇な香り。
それは先ほどの熟成され、爛れた香りでもなければ、刺すような冷気でもない。
温もりにみたされ、どこまでも澄み渡った、完成された愛の香りだ。
私はそれを口に運ぶ。
まず唇に触れるのは、絶対零度の冷たい食感。
けれど、噛み締めた瞬間に、火傷しそうなほどの熱い旨味が溢れ出す。
冷たいのに、熱い。
相反するはずの二つが、喧嘩することなく溶け合い、脳髄を痺れさせる第三の味へと昇華されている。
互いが互いを補い合い、侵し合い、他者の介入を許さない閉じた世界を形成している。
それは、至上の幸福。
けれど同時に、背筋が凍るような『逃げ場のない閉塞感』でもある。
◇ ◇ ◇
――ん。
口の中に広がる、優しい蜜の味と共に、目が覚める。
そこは暖かな天蓋付きのベッド。
心配そうに覗き込むサファイアの瞳は、もう凍てついてはいない。
熱を帯び、潤み、私への執着でとろりと濁っている。
「……責任、取ってくださるのでしょうね?」
彼女が私に覆い被さる。
『貴女の温もりなしでは、機能不全を起こすようになってしまった』かつて私を拒絶した氷の唇が、今は私の熱を求めて、飢えた獣のように吸い付いてくる。
口移しで流し込まれる甘いスープ。
混ざり合う唾液と魔力。
絡み合う舌。
私の魔力と彼女の魔力が溶け合い、境界線が消滅していく甘い痺れ。
ああ、私は彼女を壊してしまった。
完璧だった氷の魔導師を、私の熱なしでは生きられない身体にしてしまった。
その事実が、脳髄を痺れさせるほど嬉しい。
「逃がしませんよ」
左手の薬指に、冷たい感触。
嵌められたのは、氷で作られた指輪。
『氷結誓約』。
それは一生溶けることのない、愛という名の絶対の拘束具。
互いを互いに縛り付ける、永遠の証。
「はい、シャノ様……」
◇ ◇ ◇
空になった皿の前で恍惚としたため息を漏らす。
身体の芯まで熱い。
胃袋の中で、繊細な魚料理は完全に消化され、私の血肉となっていた。
まるで、彼女の氷と私の熱が、永遠に混ざり合ったかのように。
口元を拭うナプキンが、白旗のように見えた。
私はもう、この甘い共依存の沼から、一生抜け出せない。
「……ああ、美しい」
紗雪が、私の左手を持ち上げる。
彼女の指が、私の薬指をゆっくりと撫でた。
何もつけた事のないはずの指に、ひやりとした冷たい感触が走る。
見れば、そこには薄い氷の膜が、指輪のように巻き付いていた。
「これでもう、あなたは一人ではありませんわ。……この指輪が溶けない限り、永遠に」
紗雪が、氷の指輪に口づけを落とす。
パキリ。
小さな音がして、指輪が収縮した。冷たい氷の輪が、私の薬指に食い込む。
痛い。けれど、この痛みこそが、私が確かに繋ぎ止められた証。
痛い。けれど、愛おしい。
物語の中の二人が選んだ命すらも預け合う『共依存』の結末が、私の指に重くのしかかる。
ふと気になって、紗雪の左手を盗み見る。
……。
そっと、体を床に下ろすふりをして、左手を……。
恐る恐る指で撫でる。
冷たい感触は、感じられなかった。
そんな私の行動はバレバレだったみたいで。
「あら? あらあら? うふふ」
蠱惑的な笑みを浮かべて、ぴょん。
膝の上から降りた紗雪が、腰の両手を後ろで重ね合わせて、目線だけ振り返り。
「き・た・い。してくれちゃったんですか~?」
ぐ……そ、そんなわけない。だって、私は。
そう、『推し』は、触れてはいけない存在。
不可侵の存在。
ただ、ただ、貢いで……その果ては何だった……。
すっかり融け果てたと思っていた空虚が、ぽっかりと、再び灰色の穴を見せる。
熱く、煮え滾っていた胃の奥の熱が。
『私の』色は……。
皿は空になった。
満腹感とは違う、胸のつかえが取れたような清涼感が残る。
窓の外を見る。
氷の華が咲き乱れていた窓ガラスは、いつの間にか透明に戻り、館の外には穏やかな月明かりが満ちていた。
いつの間にか靄も晴れている。
二人の愛が、世界を平定したように。
けれど、私の中の灰色の穴は。
また、底なしの空腹を、私に訴えかけてくるのだった。
【本日のメニュー:Poisson Finale】
『花咲姫』 ~氷結と開花、二つの才能が織りなす白身魚のヴァプール~
第3章 『融解する心、永遠の氷華』
https://kakuyomu.jp/works/822139839424628161/episodes/822139839424720937
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