四霊創世譚 鳳凰天子と鳴音の華

1話 鳳凰天子、嚆陵漣

　詩響は非常に機嫌が良い。このところ、廉心は一日家にいるからだ。

　近隣への蒸留指導にひと段落ついたらしく、村から出る必要もなくなった。おかげで、山や森へ入ることもない。

「廉心！　水を汲みに行くから手伝って。ついでに、畑で野菜も採りたいわ」

「いいよ。ついでに、蒸留の進度も確認しておきたい。問題ないと、いいんだけど」

「確認は村全員の仕事よ。なにかあれば、連絡をくれるわ」

「けど、放っておくのは無責任だよ。小さい故障は、俺じゃないと気付けないし」

　読んでいた書物を閉じて、廉心は桶に鋏や手拭いを入れ、重い鍬を軽々と持つ。

　少し前まで、力仕事は詩響でやっていた。でも、この数年で廉心の身体は大きくなっている。農作業や洗濯、体力の必要なことは、廉心がやってくれるようになった。

（神童なんて言われても、昔から変わらないわ。優しくて真面目ないい子）

　いつも通りの廉心を見て、詩響はつい廉心の頭を撫でた。廉心は、むっとした表情をしたけれど、大人しく撫でられてくれている。

（私に心配をかけてる自覚も、あるのよね。だからこうして『弟』でいてくれる）

　子ども扱いは恥ずかしいだろうに、詩響の手を振り払うことはしない。詩響は廉心の配慮に乗り、手をつなぎ外へ出た。

　家の外は、やはり暑い。廉心は空を見上げ、満足気な笑みを浮かべる。

「良かった。今日も、鳳凰陛下はご健勝であられる」

「そうね。山にも異変はないし、水害もない。鳳凰陛下のご加護あってこそだわ」

　詩響と廉心は地面に膝を付き、山へ向かって平伏した。山に鳳凰がいるわけではない。宮廷のある方向というだけだ。意味はないかもしれないけれど、詩響は強く祈る。

（良い場所を見つけたら、すぐに廟をお作りします。もうしばし、ご容赦ください）

　瑞獣と共に生き、死に逝くのは民のさだめだ。瑞獣を足蹴にすればどうなるか、恐ろしくて考えたくもない。

　詩響は恐怖を吹き飛ばすように顔を振ると、廉心の手を引いて走り出した。

「昼までに、水を汲んじゃいましょう！　のんびりしてたら、もっと暑くなるわ！」

「走らなくてもいいよ。ほんと機嫌いいね、最近。どうしたの」

「だって廉心がいるもの。鳳凰陛下にもお変わりはない。これ以上ない幸せだわ」

　廉心と手を繋いで歩くことは、なにものにも代えがたい時間だ。思わず声高らかに歌ってしまう。歌といっても歌詞はなく、旋律だけだ。ら、ら、らと音だけを紡いだ。

　軽快な足取りと軽やかな歌に、廉心も幸せそうに微笑んだ。

「姉ちゃん。歌うのはいいんだけど、もうちょっと声おさえてよ。でないと」

「詩響！　廉心！」

　廉心の言葉を遮って、詩響と廉心を呼ぶ叫び声が聞こえた。

　声の方向を見たら、詩響より少しばかり年上の青年が走って来る。うしろで一つに結った黒髪を、激しく振り乱していた。端正な顔の中で、金の瞳は不安げに曇っている。

「朱殷（しゅあん）。どうしたの、そんなに慌てて」

　走ってきた青年は、団練の副団長を務める朱殷だ。

　団練は村の警備組織で、野生動物の強襲や災害時に出動する。雀晦村の唯一にして最強の武装集団だ。

　朱殷は最年少だが、大人顔負けの剣術で他を圧倒している。自他ともに認める実力者で、恐れや焦りを感じている姿は見たことがない。

　けれど、今日は明らかに焦っていた。常ならざる様子に、詩響の気も焦る。

「なにかあったの？　山？　まさか、土砂崩れじゃないわよね」

「土砂崩れのほうが、ましだったかもな。早く来い。まずいことになった」

「山の事故よりもまずいことなんて、雀晦村にはないでしょう。なんなの？」　

「いいから、とにかく来い。村の全員が、団練の広場に集められてる。話はそこで」

「うん……？」

　わけのわからぬまま、詩響と廉心は朱殷に付いて団練へ向かった。

　団練は村で一番大きな施設だ。なにかあれば集まる場所になっている。

　けれど、村人全員を集めることは、あまりない。収穫祭のような行事ごとくらいで、緊急事態で使用したことはなかった。

　不安な気持ちで広場へ入ると、集まった人々は混乱の表情を浮かべている。誰も彼も事態をわかっていないようで、小声で怪訝な声を漏らしていた。

　場は神妙な空気に不安を煽られる、さらには、とても信じられない光景を目にした。

「朱殷！　どういうこと！　どうして長老さまが、地に座っていらっしゃるの！」

　村には序列がある。細かな上下関係はないが、一番偉いのは長老で、二番目は次期長、以下同列、といったところだ。長老は。一段高い位置に座るのが慣例になっている。団練の広場にも、長老の座すべき場所を設けられていた。

　それなのに、長老は村人と同列に座っている。あるまじき無礼だ。

（なんなの、一体。どういう集会なの？　いままで、こんなことは一度もなかった）

　重い雰囲気に息を呑むと、団練の訓練場の扉が開かれた。中からは、ぞろぞろと人が出てくる。二十代と思われる男女が数名並んでいて、男性は鎧に剣を携えている。

　女性は艶やかな服に身を包んでいた。なんという名称の服か、詩響にはわからない。

　やって来た男女は全員、壇上に並んだ。だが、長老の座るべき椅子は空いている。

　敬うべき長老に、辛酸を嘗めさせている状況は許しがたい。詩響は耐え切れず、檀上へ向かおうとした。

「よせ！　詩響！」

「どうしてよ！　おかしいでしょう、こんなのは！」

「わかってる！　でも駄目だ！」

　慌てた様子の朱殷は、腕を伸ばしてきた。抑え込もうとしたのだろうけれど、朱殷より先に、別の誰かに掴まってしまう。

　何者かの腕は、男の腕だった。左肩を抱かれるようにして、強く引き寄せられる。

「きゃあっ！」

「姉ちゃん！　なんだ、お前！　姉ちゃんに触るな！」

　詩響が男の腕を振り払うより早く、廉心が飛び掛かった。けれど朱殷は、廉心を引きはがす。詩響を守ろうとした廉心をだ。

「なにするんだよ、兄ちゃん！　放せ！　姉ちゃん！　姉ちゃんが！」

「落ち着け！　あのかたの服を見ろ！」

　朱殷に言われて、詩響と廉心は男の全身を観察した。

　年は二十代の後半だろうか。一見すると黒髪だが、日に当たると赤く輝いている。

　髪と揃えたかのように、深紅と黒を組み合わせた衣を纏っていた。金の縁取りに上品な刺繍は、高級品だと一目でわかる。土にまみれる雀晦村には、無用の長物だ。

　馬鹿だ――詩響はそう思ったけれど、廉心の表情は恐れに染まっている。

「どうして……なぜ、あなたが……！」

「廉心？　どうしたのよ。知ってる人なの？」

「知ってるもなにも！」

　ごくりと、廉心は喉を鳴らした。いつになく焦っている。朱殷も周囲の大人たちも、誰もが震えていた。理由をわかっていないのは、詩響を含め、小さな子どもだけのようだ。

　廉心は、重々しく唇を動かした。

「深紅は鳳凰国の禁色。衣服に深紅を纏うのは……皇族のみだ」

「……え？　じゃあ、この人は」

　詩響が驚きで目を見開いた時だった。

　深紅の服の男から、炎が巻き起こる。広場にいた人々は、深紅の炎に包まれた。

「きゃああああ！」

　焼ける。焼け死ぬ。

　沿岸部の雀晦村は、強い潮風に吹かれる土地だ。潮風は、炎をさらに強くするだろう。山火事にもなるかもしれない。そうなれば、近隣は死滅したも同然だ。

　終わりだ。

　前触れもなく立たされた死の淵で、終焉を覚悟した。しかし、詩響はふと気がついた。

「……熱くない？」

　詩響は両手を見た。掌も腕も、どこも焼けていない。それどころか、服も無事だ。よく見れば、周りの誰一人として焼けていない。

「どういうこと……？」

「当然だ。鳳凰陛下は瑞獣。瑞獣は皆、民を殺すことはなさらない」

「……いま、なんて言ったの？」

　気のせいだろうか。鳳凰陛下、と聞こえた。言い間違いだろうか。

　戸惑いながら問うと、炎を纏う男に頭を掴まれた。そのまま、力付くで地面に伏せさせられる。

「きゃあっ！」

「いい度胸だな、田舎娘。許しもなく話しかけ、あまつさえ名を問うとは無礼千万。だが、今日は機嫌がいい。特別に許そう」

　男は詩響の頭から手を放した。詩響は怒りを踏みしめ、立ち上がる。文句を言ってやろうと思ったけれど、途端に動けなくなった。目の前に、ありえない存在がいたからだ。

　男の傍らに、鳥がいた。赤く、赤く、燃え盛る紅蓮の鳥が。炎を放つ鳥は、詩響が毎日祈りを捧げる鳳凰画にそっくりだった。

　男は笑う。恐ろしく、妖しく、美しく。

「鳳凰国太子にして鳳凰天子、嚆（こう）陵漣（りょうれん）。鳳凰陛下の命に従い、参上した」

「鳳凰陛下……!?」

　広場の全員が平伏した。詩響も我知らず跪き、地に額を擦り付ける。長老を下に見たことへ謝罪を求めることは、なんと愚かなのか。

　詩響は震えた。震えたのは、鳳凰の顕現でも嚆陵漣の横暴にでもない。

（雀晦村には鳳凰廟はない。あるのは、廉心の作った水。まさか……！）

　終わりだ。

　鳳凰の加護は得られないと、わかっている。けれど、直々に罰を降されるとは思っていなかった。瑞獣の怒りに触れて、生き残る道などありはしない。

　地面に、ぽたりぽたりと水滴が落ちた。零れたのは、鳳凰の熱で噴き出た汗と、廉心を失う未来への涙だった。