四霊創世譚 鳳凰天子と鳴音の華

序章 四霊創世記

　四霊（しれい）創世記は、いまも続く歴史である。

　世界は、四霊と呼ばれる四種の瑞獣――応竜（おうりゅう）、麒麟（きりん）、霊亀（れいき）、鳳凰（ほうおう）に創られた。

　四霊はそれぞれ大陸を持ち、大陸は各瑞獣の名を冠している。

　四霊は神話上の存在ではなく、実際に四大陸を統治する支配者だ。瑞獣は国の指導者に足る人間の身に宿り、瑞獣の宿る者を天子と定める。天子は時代に一人で、宮廷の主になる規則だ。

　瑞獣と人間は、ともに歴史を紡いできた。ゆえに創世記は終わらない。瑞獣はいまも生き続けている。

　四大陸の一つ、北東に位置する《鳳凰国》は平均寿命の短い国だった。

　短命の理由は、慢性的な水不足にある。各大陸の風土には、瑞獣の特性が現れていた。鳳凰は灼熱を纏うため、国内はどこも気温が高く、水源の枯渇も早かった。

　けれど、水の豊かな集落もある。住人は百人程度しかいない《雀晦（じゃくかい）》という村だ。南部最大都市である鴻鵠省（こうこくしょう）雲作府（うんさくふ）の最南端で、水源となる海に近い。沿岸でありながら水害もなく、近年は移住者も増えていた。

　熱気を帯びる朝早く、雀晦に住む十八歳の少女・湊（そう）詩響（しーしゃん）は、庭の一角で手を合わせ、祈りを捧げていた。向き合っている物は、箱の中に立てられた一枚の絵画だ。

　絵の中央には、天界から舞い降りた鳳凰が描かれていた。翼には、金と朱が織り交ぜられている。刺繍や金箔を取り入れた技巧は、絵画の域を超えた芸術品といえるだろう。

（鳳凰陛下。本日もご健勝のこと、お慶び申し上げます）

　鳳凰国の熱気は、鳳凰の炎より生まれるものだ。日々の暑さは、鳳凰の健在を証明している。暑さで汗をかくことは、なによりも喜ぶべきことだった。

　常日頃の感謝は、鳳凰を描いた絵画に向けて祈りを捧げる。崇高な鳳凰を描くことを許されるのは、国でも高位の芸術家だけだ。

　そんな貴重な鳳凰画を、一村民でしかない詩響が持っているのには理由がある。

（どうか、どうか村の非礼をお許しください。鳳凰廟は、きっと新たに設けます）

　世界には各瑞獣を祀る廟がある。どんな小さな集落にも必ず一つはあり、瑞獣へ祈りを捧げる場所として使われていた。

　しかし、雀晦に鳳凰廟はない。村の長である長老を始め、おとなたちで壊したからだ。

　暴挙に出た背景には、やはり水不足があった。自分たちを苦しめる瑞獣に捧げる感謝などない――そう叫び、鳳凰廟を憎しみの対象にしてしまった。

　たしかに、水不足は鳳凰の特性が原因だ。しかし、鳳凰を敬愛する心は、鳳凰国国民の本能のように受け継がれてきた。悪しざまに扱うことなど、本来なら発想すら出ない。

　詩響は廟の保存を訴え続けたけれど、聞き届けてはもらえなかった。

　そこで鳳凰画をこっそり持ち出し、人目の付かない庭の片隅で祀っている。

　詩響は村の人々の分も祈ろうと、長いあいだ平伏し、額を地に擦り付けていた。

「また昼過ぎに参ります。ひととき、御前から離れることをお許しください」

　身体を起こすと改めて手を合わせて、一礼してから外へ出た。

　大通りへ行くと、長蛇の列があった。列整理をする女性の声が響いている。

「押さないでくださーい！　定期配布の水量は確保してまーす！」

　女性は長蛇の列に沿って、黄ばんだ白い旗を振る。旗には『水配給』と書いてあり、汗をかく大勢の人は、旗の元に集まっていた。

　水配給に並ぶ人々からは、期待に溢れた弾む会話が耳に飛び込んでくる。

「やはり廉心（れんしん）殿はいないのか。今日こそ礼を言いたかったのに！」

「仕方ない。廉心殿がいなければ、蒸留設備は作れない。えらい難しい道具らしい」

「凄いよなあ。まだ十五歳で、書院にも通ってないんだろう？　まさに神童だ」

　廉心というのは、雀晦村の水不足を解消した少年だ。海水を飲み水へ変える方法を、独自に開発した。不純物の多い泥水も澄み、雀晦村は水不足と縁を切ることができた。

　神童の噂は瞬く間に広がった。いまでは廉心の指導のもと、数百人もが蒸留設備の開発に取り組んでいる。おかげで、雀晦村周辺の水不足は一気に改善された。

　しかし、まだ蒸留設備のない集落も多く、水を持つ集落で分けてもらう。

　――いまや鳳凰以上に崇められる神童は、詩響の弟だった。

（今日も廉心は遅いのかしら。喜鵲（きじゃく）村へ指導に行ったけど、少し遠いのよね）

　指導に当たる廉心は、雀晦にいないことも多い。姉の詩響でさえ、朝と夜しか会えないこともある。

　寂しくはあるけれど、廉心が認められたことは喜ばしい。廉心も嬉しそうで、帰ってくると、一日のことを笑顔で語ってくれる。

　けれど、廉心の遠出は、詩響を苦しめることでもあった。

（他の集落へは山や森を抜ける。もし土砂崩れでもあれば……）

　詩響は後ろを振り返った。背後には大きな山と、樹木の生い茂る森が広がっている。動物も多く生息しており、村の狩場として重要な場所だ。

　しかし、詩響は山が嫌いだった。詩響と廉心の両親は、山の土砂崩れに巻き込まれて死んだからだ。まだ詩響は五歳で、廉心は三歳だった。

　以来、二人で生きてきた。詩響にとって廉心は、神童でもなんでもない。大切な、たった一人の家族だった。

（誰か、廉心の代わりに広めてくれればいいのに。そうすれば、廉心は山に入らなくていいし、もっと、自分のやりたいことをできる）

　廉心は、昔から勉強が好きな子だった。村にある書物は読み尽くしている。自慢の弟で、廉心さえいてくれれば、他にはなにもいらなかった。

（でも、本当にこれで良かったのかしら。鳳凰陛下のご不興を買うんじゃないの？　だって、鳳凰廟を取り壊すことになったのは……）

　詩響はぐっと拳を強く握った。けれど、震えを吹き飛ばすように、明るい声で叫ぶ会話が聞こえてきた。

「うちの村も、鳳凰廟を潰すことになったよ！　廉心殿の蒸留設備を置くんだ！」

「当然だ。なんの役にも立たない廟なんて、邪魔なだけだ。祈りは水にならねえ」

　鳳凰を見下し喜ぶ人々の声に、詩響は逃げ出した。

　――鳳凰廟を取り壊したのも、跡地に蒸留設備を置いたのも、雀晦村が最初だ。

　詩響が鳳凰を祀るのは、感謝ではない。廉心に非はないことを伝えるためだ。

（廉心は鳳凰廟を残すべきだって言ったわ！　取り壊したのは、長老さまたちよ！）

　それでも、詩響は怖かった。鳳凰すら与えることのできない水を作り出したことは、鳳凰に逆らう行為なのではないか。

　廉心は、朝から出かけている。山を越えなければいけない場所だ。それも、両親を飲み込んだ土砂崩れの起きた場所を通る。危険だと証明されている場所をだ。

　空を見上げると、いやになるくらい清々しい晴天だった。雨は降りそうもない。土砂崩れなんて起きないだろう。

（でも、鳳凰陛下のご加護は……いただけないかもしれない……）

　たとえ祈りが無駄であろうとも、詩響には祈ることしかできなかった。