第2話
どれくらいそうしていただろうか。
意識は朦朧としていたが、隣で磯野が砂肝を齧りながら呟いた声だけは、はっきりと聞こえた。
「なあ、藤井。もしかしたら、お前は試されているのかもしれんぞ? ……彼女は、お前の本気度を疑っているのかもしれん」
その言葉は革命的だった。
確かにそうかもしれない、と藤井はゆっくり頷く。
「……そうか。そうだったんだ」
藤井は天を仰いだ。天啓が舞い降りた。
「僕はまだ、猫に完璧になり切れてなかったのか!」
「それだ、藤井!」
酔っ払った二人は意気投合し、無意味に抱き合った。
だが、その光景を見た大将が珍しく酒を脇に置き、顎に手を添えた。
「いや、落ち着けよ、お前ら。前提が間違ってる」
ぐいっと串で藤井を指し示し、大将は続けた。
「いいか、藤井。お前は猫になれば好かれると思ったんだろうが、あの子は猫が好きなんであって、人間の猫もどきが好きってわけじゃねぇんじゃねえか?」
「……!」
藤井の手が止まる。
箸に刺さったツナ缶が、震えでカタカタと揺れた。
「待てよ、大将。藤井にはちゃんと理由があるんだよ」
磯野が割って入り、焼き物の煙を払う。
「あん? 理由だと?」
「藤井の彼女が野良猫に鼻を押し当ててるの、よく見るだろ。あれ見てこいつは思ったんだよ――あれは未来の家族に向けた愛情表現だって」
「どこをどう解釈したらそうなるんだ?!」
大将は眉を寄せ、気味が悪そうに藤井を見た。
藤井は拳を握りしめ、真剣なまなざしで言う。
「だって、あの表情は……。あれはまるで、そう、初めて息子を抱いた母親の――」
「やめろ藤井! それ以上言うな!」
大将の制止に、藤井はがっくりと肩を落とす。
「じゃあ、僕はどうすれば……」
「そもそも、彼女は本当にお前のことが好きなのか? 俺はそこすらも疑問だな」
赤ら顔の磯野が無慈悲な言葉を投げかける。藤井はむっと唇を突き出した。
「なんだと? 彼女の愛を疑うのかっ!」
「疑うね。お前に恋人ができて、俺にできない理由がわからん」
「んだと、磯野!」
思わず拳を握りしめて身を乗り出した藤井を、大将が苦笑まじりに制した。
「まあまあ、磯野。そうは言うが、お前は
その瞬間、磯野の顔がわかりやすいくらいに歪んだ。何か思い出したように口ごもる。
「お、おいおい大将。冗談は顔だけにしてくれよ。それは完全に誤解だ。
俺が好きなのは
強がっているようだが、磯野の手がわずかに震え、カウンターの端をぎゅっと握りしめているのが藤井にも見えた。
「いや、いい人だけどなぁ、花形さん。彼女の友達だし。この前も、プレゼントに悩んでたら花屋を教えてくれたんだ」
そう言って藤井が笑うと、大将も頷いた。
「そうだな。俺も母ちゃんへの誕生日プレゼントを教えてもらった。良い奴だぞ、花形さんは」
藤井と大将は思い出す。悩みを打ち明ける彼らに、花形はじっと耳を傾け的確な助言をくれた。なんだかんだ面倒見がいいのだ。たとえ花形の実家が花屋で、二人が気付かず売り上げに貢献していてもだ。
しかし、磯野は蒼褪めた顔のままぶるぶると震え出す。
「お前たちは騙されてるんだ。そうだ、これは何かの間違いだ。あれは夢だ。夢なんだ。俺は今も唯織ちゃんのことを……」
藤井には半分も理解できなかった。ただ、磯野が使い物にならないのだけはわかった。
溜息をつき、俯く。今は磯野のことを気にしている場合ではない。
一体どうすればいいのか――そんな思いが胸に渦巻いた。
すると、大将がニカッと笑みを浮かべた。
「なーに、藤井。そう難しく考える必要はねえ。方向性を変えろって話だよ」
大将はぐいっと盃を干すと、言葉を続ける。
「猫になるんじゃなくて、猫を理解しろ」
「回りくどいぜ、大将! どこがどう違うんだ?」
いつの間にか立ち直っていた磯野が問い返すと、大将は自分の頭をはたいた。パチン。その音に導かれるように、迷える藤井はそっと顔を上げる。
「簡単な話だ。お前は猫の形にこだわりすぎていた。だから失敗した」
「なるほど。実際、四足歩行で生活してたし、キャットタワーに住んでたもんなぁ」
「飯まで変えやがってよ。今日も食べてねえじゃねえか!」
容赦ないツッコミが飛んだ。藤井は己の無力さを恥じた。
「だがな」
大将は串の先で屋台の地面を指す。そこには一匹の野良猫が毛づくろいをしていた。
「さっきも言ったが、猫が好きな人間は猫の形をしている奴を好きになるんじゃない。あの子の猫好きとしての習性を理解して、そこに合わせろ。猫がどうこうじゃなく――」
大将はニッと口角を上げた。
「――猫を見てるあの子の気持ちに、お前自身が寄り添えってことだよ」
藤井は息を呑んだ。その言葉が胸に串のように突き刺さった。
そうだったのだ。猫になろうとしていたのが間違いだった。彼女の猫好きは、猫への愛であって、人間の物真似など求めていなかったのだ。
つまり――
「……そうか。猫になる必要はないんだ」
「おっ、やっと理解したか藤井」
「猫と会話できればいいんだ!」
「やっぱり理解してねぇな藤井!」
屋台が揺れた。藤井の思考が暴走したせいだ。
藤井はスマートフォンを取り出し、検索を始める。
『猫語 翻訳 会話術』
『猫 鳴き声 意味』
『猫 しっぽ 感情』
『人間 しっぽ 作り方』
「おい最後のは何だ藤井」
「猫と完全に意思疎通できたら、彼女にも好かれる。猫が好きなら、猫と話せる男も好きなはずだ……!」
「そんなはずあるか!」
大将が慌てて止めようとするが、その肩を掴む者がいた。磯野だった。
「いや……待てよ、藤井。いけるかもしれない」
「いけるのか磯野!?」
「いや、知らんけど」
藤井は勢いよく立ち上がった。丸椅子が蹴飛ばされるが気にしなかった。
「次こそ彼女に……僕の猫愛を伝える! 猫の心を完全に把握し、猫の言葉を完璧に理解し、猫と同じ目線に立つんだ!」
藤井はすでに駆け出していた。
夜の線路沿いを、猫の鳴き声を真似しながら。
「……あいつは、どこに向かってんだ」
藤井の声が遠のくにつれて、どこか本物に近づいていくようにも聞こえる。
「……大将、次は帰ってこねぇかもしれねぇな」
「だろうな。あいつ今、野良猫の群れに紛れていったぞ」
暗い高架下で、三匹の猫の中に一人の猫もどきが紛れていた。
猫たちは困惑しながら距離を取り、藤井だけが満足そうに尻尾の動きを真似ていた。
藤井の幸せな未来へと向けた準備は、着々と進んでいた。
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