8話 健康をつくる経営【前編】

 翌朝、気分よく目を覚ました。窓かけから差し込む陽射しは清々しい。

 いままでは、仕事を億劫に思うだけだった。いくら雲嵐に感謝しても、同僚の嫌味は不快感を覚える。一日を楽しみにするなんて、いつ振りか思い出せない。


麗孝りきょうの来る前に食事しないと」


 軽く伸びをして、部屋の隅を見る。ありったけの座布団を敷き詰めており、中心には、丸まって眠る侑浬がいた。

 寝床は庭を使っていいと言ったら、頑なに室内を選んだ。おそらく、守りを求めたのだろう。落ち着くためにも、子ども用の寝具を買ったほうがいいかもしれない。

 すうすうと、侑浬は寝息を立てていた。傍に膝をつき、侑浬の体を揺する。


「侑浬、朝だよ」

「ん……」


 夜行性の虎である侑浬は、朝に弱い。寝かせておいてもいいのだが、侑浬も麗孝と会うことを楽しみにしていた。今日ばかりは起こしてやる。


「起きて。ご飯作るよ」

「ほにゃ」

「ほにゃ?」


 侑浬よりも高い声が聴こえた。言葉というよりは、鳴き声に近い。

 なにかと思い布団を捲る。すると、寝床にいたのは侑浬だけではなかった。兎の耳と尻尾を生やした、五歳ほどの少年がいる。ぱっちりと開かれた瞳は、兎のように赤い。


「きみはもしや」


 兎の少年は、隠れるように侑浬へしがみついた。ごそごそと動かれたからか、侑浬も目を覚ます。重そうに瞼を持ち上げるが、兎の少年を見ると大きく開かれた。


「おはよう! 人間の侑珠、ひさしぶりだね!」

「にんげんのゆず」


 侑浬と侑珠は強く抱き合い、獣態と同じように頬を寄せている。姿を変えても、仲の良さは変わらないようだった。


「叡秀、見て! 髪と目は、兎の色なんだよ! かわいいでしょ!」

「やっぱり侑珠か。本当。すごく可愛いね」


 柔らかそうな髪に、そっと手を伸ばす。軽く撫でると、侑珠は真っすぐに見つめてくる。怖がらせたかと手を引っこめた。しかし、侑珠は飛び跳ね抱きついてくれる。


「えしゅ!」


 きらめきが侑珠の笑顔から放たれた。

 舌足らずに名を呼んで、侑浬へしたように、頬を寄せてくれる。繰り返し肌を触れ合わせてくれて、たまらず叡秀は侑珠を抱きしめた。


「っかわい~!」

「ほにゃ!」


 取り立てて、子ども好きではない。嫌いでもないが、思い入れはなかった。けれど、信じられないほどに可愛い。舌足らずに叫ぶ無垢な微笑みは、癒しそのものだ。

 愛らしい侑珠を手放せずにいると、自信に満ちた侑浬も激しく頷く。


「そうでしょ! 侑珠は可愛いんだ! 侑珠! おいで!」

「ゆり!」


 侑浬が両手を広げると、一瞬にして侑珠は跳んでいってしまった。やはり、侑浬には叶わない。きゃっきゃとじゃれ合う兄弟は、一段と楽しそうだった。

 なんとか仲間に入れてほしくて、叡秀は侑珠を撫でる。


「いいね。栄養を取り込みやすい体質なんだな、侑珠は」

「そうなの? なんで?」

「寝ながら人化したからだよ。意識せず人間態でいられるほど、栄養が溜まったんだ。普通なら、早くて十日。遅い子は一か月以上かかる。数日なんて、すごく早い」

「……わかんない。でも、耳と尻尾は出ちゃうんだ」

「末端に栄養が届いてないんだね。薬膳を続ければ、完全な人間態はすぐだよ」

「あ、お肉!」

「そう。朝食は肉も食べよう。食事の支度をするから、水浴びしておいで」

「うん! 侑珠! お水でばしゃばしゃだよ!」

「ばしゃばしゃ! ばしゃばしゃ!」


 いつも侑浬は、侑珠を抱いて移動する。けれど、今日は手を繋いでいた。仲良く走る足音は、幸せを奏でている。水音すらも、侑珠の人化を祝福しているようだった。

 兄弟のはしゃぐ声を聞きながら、手早く朝食を作り食卓に並べる。身体の小さい侑珠用に大きな座布団を置くと、水浴びをしてる二人に向けて叫んだ。


「侑浬! 侑珠! 食事できたよー!」

「はーい!」


 返ってきた返事は大きい。けれど、すぐに聞こえる声は小さくなった。侑珠と遊んでしまっているのだろう。身体を拭き衣を着るだけでも、十分はかかりそうだ。

 予想通り、侑浬と侑珠が戻ってきたのは、十分近く経過してからだった。

 食卓に着いても、侑浬は侑珠のことしか見ていない。いただきます、の挨拶もそこそこに、蒸し鶏を小さく砕き、箸で摘まみ侑珠の口元へ運んだ。


「今日からはお肉も食べるんだよ。人間態なら、お腹痛くならないからね」


 小指の爪ほどもない鶏肉の欠片を、侑珠は小さな口へ含んだ。しばらくは不思議そうな顔をしていたけれど、飲み込むと嬉しそうな顔をする。


「たべた! おにく、たべた!」

「えらいよ、侑珠! ちゃんと食べられて、えらいね!」

「ゆず、えらい! たべる!」


 舌足らずに侑浬を真似る侑珠は、とても可愛かった。

 獣人の人間態に関する意識は、叡秀にはわからない。しかし、幸せそうな笑顔を見られるだけで、生きている実感を得られる気がした。

 仲睦まじい様子に和んでいると、外から扉を叩く音がする。邪魔された気分になったが、はたと思い出す。


「忘れてた。麗孝が来るんだった。二人とも、食べてて」

「はあい。侑珠、もう一口だよ。あーん」

「あーん!」


 侑浬と侑珠の愛らしさで、今日の予定など頭から飛んでいた。慌てて扉を開けると、予定通り、麗孝の姿がある。


「よお」

「いらっしゃい。早かったね――っと?」


 麗孝の顔を見て、わずかに身を引いた。

 化粧をしているのだろうか。昨日と顔立ちが違う。切れ長だった目は、丸みのある印象になっていた。肌も粒子をちりばめたのか、やけに煌めいている。

 髪を降ろしているからか、中性的な妖艶さも増している。薄手の柔らかな衣も、滑らかでまろやかだ。控えめな装飾は、清楚さを演出している。

 同性だというのに、輝く美貌に目が眩む。直視できず、眼を逸らした。


「……麗孝、それ、どうしたの?」

「なにが?」

「なにって……なんか、全体的に……違うじゃん……」


 本人は無自覚なのか、ことんと首を傾げた。侑浬や侑珠のように、無邪気な仕草すら似あってしまうのは納得がいかない。

 しかし、ようやく気づいたのか、麗孝はぽんと手を叩いて衣を摘まむ。


「深笠の流行だよ。生地の質感が気に入ってるんだ。人間主権国家だが、獣人用の品も豊富でな。これも獣人用生地。いいだろう? 翠煌にも、仕入れたらいいと思うんだがな」

「衣じゃなく……いや、いいや……今度、陽紗を紹介するよ。獣人専門の店だ」


 まさか、己が美形である自覚はないのだろうか。いっそ恐ろしい。

 表現しがたい心境に困惑していると、あ、と思い出した。


「そうだ。昨日の衣、返すよ。僕に着せて帰っただろう」

「やるよ。店の制服にしようと思ってるんだ。慣れておけ」

「制服なんて作るの? 弁当を売るだけなのに、必要ある?」

「当然。店の印象を左右する。庶民的かつ、最先端を目指すぞ。常に進化を続けないと、客はすぐ飽きる。衣はわかりやすい象徴なのさ」

「ふうん……?」


 商売のことは、やはりわからない。侑浬なら賛同するのだろうか。

 とにかく、室内へ戻り侑浬と侑珠の様子を見る。外出の支度はまだしていない。食卓へ戻ると、侑珠は侑浬の膝に収まっていた。お互い、くっついていたいのだろう。

 幸せの塊に感涙すると、麗孝は平然と侑珠の頬を突いた。


「侑珠は人化できたのか」

「うん! 薬膳食べてるから! 可愛いでしょ!」

「最高だな。愛らしい子どもは、主婦層を獲得できる。売上は倍増だ」

「ちょっと。侑珠をおかねに換算しないで」


 悲しいかな、あくどい笑みは美貌に映える。麗孝は侑浬の隣に座り、焼餅を一つ取った。見た目にそぐわぬ大口で、数秒で食べてしまう。


「侑浬もさっさと食え。食ったら出掛けるぞ。お前たちの店を確保してある」

「店? まさか、街中に店舗を構えるの?」


 つい、眉間に皺が寄った。人間の建物は臭い。獣人には健康上よくない――と言おうとしたけれど、叡秀よりも先に侑浬が厳しい声を挙げる。


「もったいないよ。森でやれば、家賃はかからない」


 発言に驚き、侑浬を振り返る。共に反論してくれるだろうとは思っていた。だが、まさか金銭的な理由とは想像もしていない。なにを言えばいいか困惑した。

 しかし、待ってましたとばかりに麗孝が身を乗り出してくる。


「目の付け所いいじゃないか。けど、駄目なんだよ。森は『天然緑地保護区』という、国の管理する土地なんだ。国営で、植林以外は禁止されている」

「そうなの? でも獣人は住処にしてる。食べ物を運ぶだけだよ」

「野生動物のふりをしてるだけだろ。知られたら追い出される」

「あ、そっか。でも、販管費かかるの嫌だね」


 また専門的な単語だ。販管費は、正式には販売管理費という。人件費や家賃など、経営にかかる費用全般だ。必ずかかる固定費は、売上で相殺しなければ赤字になってしまう。

 つまり、侑浬の懸念は健康面ではない。経営だ。よもや、真っ先に数字の話をするとは思わなかった。叡秀と侑珠を置き去りに、侑浬は顔を麗孝へ向ける。


「なら、庭でやるのは? 安い土地を買っちゃえば、そのうち売上で取り戻せる」

「お前は本当に賢いな。買ってあるよ、土地。お前たちの店舗は、敷地の半分以上が庭だ。場所は森と街の境。獣人も足を運びやすい位置だ」

「そうなんだ! なら、昨日と同じようにできるね! 叡秀! 見に行こう!」

「うん。食べてからね。侑浬、ぜんぜん食べてないよ」

「あ、そうだった。侑珠、お腹いっぱい?」


 侑浬へ言ったのに、流れるように侑珠へ移った。いつもの侑浬に安堵が戻る。

 言われた侑珠は、ぽん、とお腹を叩いた。


「いっぱいなった。おなかまるい」

「本当だ! まんまる侑珠も可愛いよ!」

「じゃれてないで食え」


 呆れたように、麗孝は侑浬の頭を掴む。ようやく侑浬も食事を始めたけれど、早く侑珠と遊びたいのだろう。ほとんど咀嚼せずに飲み込んでいた。

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