第19話
菜摘と陽太が声のした方を見ると、真由美よりもずっと若い男性が小さな女の子の手を引いて立っていた。女の子は保育園の制服らしきものを着ていた。
「ママ、こちら、どなた?」女の子の手を引いた若い男性が言った。
「何でもないよ――ダンナとムスメが帰って来たから、もう帰ってくれる? 話すこと、ないし」
真由美は乱暴に菜摘と陽太を追い払おうとした。
「あの、僕、真由美の夫の智彦と言います。この子は娘のきらら。……きらら、ご挨拶、出来る?」
きららと呼ばれた女の子は、眉根を寄せて泣き出しそうな顔をして、智彦の後ろに隠れた。
「すみません、人見知りで。きららはそもそも口数少なくて。それに今日はちょっと体調が悪くて早引けしたから、余計にお話出来ないみたいです」
智彦と名乗った真由美の夫は、そう言ってきららの頭を撫でた。とても愛しそうに。智彦は人の好さそうな顔でにこにこと笑った。そして「うちに御用でしたか? 上がって行きますか?」と菜摘と陽太に向かって言った。
「いえ、あの」と菜摘が言うのと、「もう帰るんだよ!」と真由美が怒鳴るように言うのと、同時だった。
「ママ、大きな声出さないで。きららがびっくりするし」
「うるさいな!」
真由美はそう言い捨てると、部屋の中へと入っていった。
「ママ、ちょっと」
智彦は真由美を追いかけて部屋に入ろうとして、困ったような顔をして振り返った。
「あ、私たち、帰ります。お邪魔しました」
「すみません。真由美のお友だちですよね? また来てくださいね。――きらら、さ、おうち入って」
智彦はきららと一緒に慌ただしく部屋に入って行った。
「……あれ、旦那さん?」
「みたいだね」
「子どももいるんだね」
「そうみたいだね」
菜摘も陽太も、真由美の夫があまりにも想像と違って、驚いた。もっとどうしようもない人物を想像していたのだ。離婚の相談に来た、ということだったが、とてもいい人に見えたし、子育てもきちんとしているように見えた。
「とりあえず、帰ろうか」
放心している菜摘を陽太が促した。
「うん。――あの旦那さんが、娘さんのこともやっているみたいね」
「そうだね」
「なんか、すごくいい人に見えたんだけど」
「俺もだよ」
「どうして離婚相談なんかに行ったのかしら?」
「――変だよね。夫婦のことは分からないけどさ、問題なのは、あの旦那さんじゃなくて、真由美さんの方に見えるよね」
「……うん」
菜摘は先ほどの真由美との会話を思い出して、心臓がきゅっと締め付けらるような気持ちになった。あんな人と英明は浮気をしていたの?
「英明さん、どうして浮気したのかしら」
陽太は少し悲しそうな顔をして、でもゆっくりと諭すように言った。
「真由美さん、どこまで本当のことを言っているか分からなかったよ。今はとりあえず、英明さんの居場所を見つけるのが先決だよ」
「……そうね」
「結局、あの人と話しても、英明さんがどこにいるかは分からなかったし」
「……どうしよう?」
「真由美さんと一緒にいることはないような気がするよ――勘だけど」
「うん、わたしもそう思う」
菜摘は陽太に同意した。真由美の様子を見ていて、英明は真由美といるわけではないと直感で思った。ただ、だけどこの先どうしたらいいのか分からなくて途方に暮れた。真由美に会えば、何か手がかりが掴めるかと思っていただけに、手にしていた風船がふっと飛んで行ってしまったような感覚があった。
春の風が菜摘の髪をさらった。目の前を花びらが飛んで行く。名前を知らない、黄色の花。木々は花を落とし始め、緑がいよいよ元気にその手を空へ伸ばしていた。道端にも野の花が咲き、生命の歓びに溢れていた。だけど、春の歓びとは裏腹に、菜摘の気持ちは晴れなかった。
「仕事のトラブルって、何だろう? 姉さん、何か聞いてない?」
「そう言えば、事務所の井沢さんが、土地トラブルのことで怒鳴り込んで来た人がいたって言っていたわ」
「名前は?」
「――聞いていない」
「真由美さんにもまた話は聞きたいとは思う。彼女が英明さんと一緒にいるわけではないと思うけれどね。でも、その前に、まずそのトラブルになった人のことを聞きたいね」
「私、話を聞きに行ってみるわ」
「事務所に?」
「そう」
「一緒に行こうか?」
「事務所だから、一人で平気よ」
菜摘は微笑んでそう言った。陽太も微笑を浮かべて「分かった。何か分かったら、教えて」と言った。
「うん、ありがとう」
春の強い風がまた吹いた。花びらと葉を巻き上げ、道の行く手へと飛ばした。空が急に暗くなり、先ほどまでの青空はすっかり顔を隠して灰色の雲が空を覆っていった。
「雨が降りそうだな」
「そうね。早く帰りましょう」
急速に暗くなる空の下、強い風に押されるようにして歩いて行く。
雨が降りそうだ。創は傘を持って家を出ただろうか。……創のことだから、折り畳み傘を持っているに違いない。
菜摘は自分こそ、傘のない心もとなさに、微かに不安になりながら駅へと急いだ。
英明さんはどこにいるんだろう?
――ずきんとした痛みが菜摘の側頭部を襲った。
頭が痛い。ここのところ、ずっと調子が悪い。
「姉さん?」
「大丈夫よ」
何が大丈夫なのかはさっぱり分からなかったが、そう応えた。
大丈夫。大丈夫よ――
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