第18話

 菜摘は長谷川真由美に会いに行く決意を固めた。一人で行くつもりだったけれど、陽太が一緒に行くよと言ってくれたので、二人で行くことにした。そこにいるのかどうかは分からないが、まずは自宅を訪ねてみるつもりだった。

 長谷川真由美の住まいはアパートで、隣の横浜市にあった。よくある子育て世帯が住むようなアパートだった。電話をかけることも考えたが、電話ではいくらでも言い逃れが出来るし逃げられても困るので、電話はしないで直接行くことにした。ともかく本人に会いたかった。彼女が法律事務所を訪れた時間が平日の午後だったので、平日の午後、行ってみることにした。その時間であれば創は学校だし、何かあっても創に会うまでに気持ちを落ち着かせることが出来る、という考えもあった。

 部屋の前まで来たのに、菜摘は緊張してなかなかチャイムを押すことが出来なかった。

「チャイム、押したら?」陽太は何でもなさそうに言った。

「勇気が出なくて」

「時間が経つと、余計押せなくなるよ」

 陽太はそう言って、躊躇いなくチャイムを鳴らした。菜摘は鞄の持つ手をぎゅっと握った。しかし、チャイムを鳴らしてしばらくしても、応答はなかった。

「留守かな?」

「もう一度鳴らしてみようよ」

 陽太がもう一度チャイムを鳴らした。しばらく待って、やはり応答がなかったので帰ろうとしたとき、がちゃりとドアが開いた。

「誰?」

 ――あの写真の女性だ。

 写真を穴が開くほど見ていたので、すぐに分かった。やはり、英明と写っていた女性が、長谷川真由美なのだ。長谷川真由美は、実際は写真よりも、また実年齢よりも幾分歳上に見えた。お化粧が剥がれているせいか、派手さよりもだらしなさが際立っていた。

「私、高橋英明の妻の菜摘です。英明を、ご存じですね?」

 真由美の顔がめんどくさそうに歪んだ。「――知らない」

「嘘です。高橋法律事務所に行ったでしょう? そして英明を指名したでしょう?」

「……」

「あなたが英明と二人でいて、……その、ホテルに入るところを見ている人もいるんです」

 菜摘がそう言うと、真由美がにやりといやらしく笑って、「へえ」と言った。そしてくすくす笑った。「ダンナが浮気したから、来たの? どうするの? 離婚するの?」

「離婚? いえ、そうではありません」

「じゃあ、何なんだよ。あたし、あいつとセックスしたよ。あいつ、浮気してんだよ。別れたらいいだろ?」

 菜摘は、はっきりと「セックスしたよ」と言われてもなお、違和感が拭えなかった。英明がこのような女性と浮気をする、ということがどうしても信じられなかったのだ。

「英明さんが、今どこにいるかご存じありませんか?」

 陽太が菜摘の横から口を挟んだ。

「はあ?」

「英明さん、今、自宅に帰って来ていないんです」

「女のとこにでも行ってんだろ?」

「だから、ここに来たんです」

 陽太は真由美の目を真っ直ぐに見て言った。

「あんた、誰だよ。英明のオクサンの、愛人? 夫婦で不倫してんの?」

「違います、俺は菜摘の弟です」

「弟?」

 真由美は陽太をじろじろと見ると、「嘘くさいねえ」と言った。

「本当です、弟ですよ」

「ま、どっちでもいいけど。あたし、英明の居場所なんて、知らないよ」

 真由美がそう言って玄関のドアを閉めようとしたので、陽太はドアに足を入れて閉められないようにした。「ちょっと!」

「まだ、お話は終わっていません」

「あたしには話すことなんて、ないよ」

 真由美はめんどくさそうに言った。

「英明、帰って来ていないんです。どこにいるか、ご存ありませんか?」菜摘は再度訊いた。

「知らねーよ」真由美は傷んだ髪をかき上げながら言う。

「でも」

「だから、女のところだろ?」

 真由美はそう言うと、にやにや笑った。嫌な笑い方だった。

「何か、ご存じなんですか?」

「いや、あいつ――」真由美はそこまで言って、噴き出した。

「どうして笑うんですか?」

「いや。……ねえ、あいつとのセックス、どうだった?」

 真由美は菜摘に顔を近づけて、にやにやしながら言った。

 菜摘は表情を硬くして「どうしてそんなこと、あなたに言わなきゃいけないんですか」と応えた。真由美はふふふふと笑うと、菜摘の耳元で言った。

「あのね、あいつ、あたしとのセックスに夢中だったんだよ?」 

 菜摘は身体が震えた。それでも、真由美を正面からじっと見た。真由美は相変わらずにやにや笑っていた。

「――本当に、英明さんの居場所、ご存じないんですか?」

 今度は、陽太が玄関のドアを押さえながら、強い口調で言うと、真由美はめんどくさそうに「だから、知らないって!」と言った。

「本当に?」

「本当よ――あいつ、仕事がツライ、とか言っていたから、仕事が嫌で逃げ出したんじゃない?」

「どういうことですか?」

「んー、なんか、仕事でトラブルがあったみたいだよ」

「トラブル?」

「揉めてた人がいるでしょ。そんなの、法律事務所で分かるんじゃない? ともかくあたしじゃないよ」

「揉めてた人、とは?」

「んー、だって、法律事務所で英明を罵っていたよ」

「どんな方ですか?」

「ジジイだよ」

「年配の男性ですか?」

「だから、ジジイだって! ……もういいでしょ⁉ 帰って!」

 真由美が陽太を押しのけて玄関のドアを閉めようとしたとき、「ママ? どうしたの?」という声が聞こえてきた。


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