第2話 ハル(高齢者)
朝の光が、薄いカーテン越しに部屋に差し込んでいた。ハルは目を開けて、しばらく天井を見ていた。九十三歳。今日も目が覚めた。それだけで、少し驚く。
ゆっくりと体を起こす。関節が軋む音がする。もうおばあさんだ。医療は進歩したけれど、老いそのものは消えない。消さないことになっている。人間は老いを経験したほうが幸福度が高い。若いままで何百年も生きると、心が壊れる。人間は、そういうふうにできている。
窓の外で、鳥が鳴いている。ハルは窓を開けて、朝の空気を吸い込んだ。
-------------------------------
朝食は、コミュニティの食堂でとる。ハルが暮らしているのは、高齢者が多く住む居住区だ。一人暮らしもできるが、ハルはここを選んだ。人の気配があるほうが落ち着く。
食堂には、すでに何人かが集まっていた。顔見知りばかりだ。
「おはよう、ハルさん」
声をかけてきたのはタケオだった。八十七歳。ハルより六つ下で、この居住区では若いほうだ。
「おはよう」
「今日は調子どう?」
「まあまあね」
いつもの会話だ。いつもの朝だ。配膳ロボットが、ハルの前にお盆を置いた。ご飯と味噌汁と、焼き魚と、野菜の煮物。栄養バランスもいいし、美味しい。
「なあ、ハルさん」
タケオが言った。
「聞いた? シズさん」
「ああ」
ハルは頷いた。シズは、先週、逝った。安楽死を選んだのだ。九十八歳だった。
「立派な歳だったよな」
「そうね」
「俺もそろそろかなあ、なんて思うことあるよ」
タケオは冗談めかして言ったが、目は笑っていなかった。ハルは何も言わなかった。何を言えばいいのか、分からなかった。
-------------------------------
食後、ハルは中庭のベンチに座って、日向ぼっこをしていた。秋の陽射しは柔らかい。風が吹くと、木の葉がさらさらと音を立てる。
シズのことを考えていた。シズは、ハルより五つ上だった。大混乱期を、もう少し長く覚えている世代。あの時代の終わりを、大人として迎えた世代。
ハルが覚えているのは、断片だけだ。燃える建物。叫び声。母の手を握って走ったこと。暗い部屋で息を潜めていた夜。大混乱期が終わったとき、ハルは十三歳だった。
-------------------------------
西暦2050年。人類シミュレーションの結果が発表された年。ハルが生まれる37年前のことだ。直接は知らない。でも、何が起きたかは学校で習った。
人類は、自分自身を理解してしまった。コンピュータに人間の情報を詳細にインプットし、人間社会を何億回もシミュレーションした結果、答えが出た。最適な人口。最適な経済。最適な欲望と自制のバランス。紛争の解決法。幸福の維持法。
意外なことに、それは、別に複雑なものではなかった。人間は、思っていたより単純な生き物だった。こうすれば争う。こうすれば満足する。こうすれば壊れる。こうすれば続く。それだけのことだった。
鏡を見せられたようなものだ、とハルは思う。醜いとか美しいとかではなく、ただ、これが自分たちの姿だと分かった。それだけ。
でも、五十年かかった。それを受け入れるのに。
-------------------------------
大混乱期。人間は、自分の姿を見せられて、怒った。「嘘だ」「認めない」「人間はそんなに単純じゃない」
シミュレーションを否定する者と、受け入れる者が争った。受け入れる者同士も、解釈の違いで争った。否定する者同士も、別の答えを求めて争った。
結局のところ、それも予測の範囲内だったのだ。人間は、自分の姿を認めたくない生き物だ。鏡を割りたがる。でも、割っても、自分の姿は変わらない。
五十年かけて、人類は疲れた。争うことに。否定することに。割れた鏡の破片で自分を傷つけることに。
そしてようやく、受け入れた。これが自分たちだ、と。
-------------------------------
ハルの両親は、大混乱期の末期に死んだ。ハルが七歳のときだった。何があったのか、詳しくは覚えていない。覚えていないのではなく、知らされていないのかもしれない。混乱の中で死んだ。大勢の人が死んだ。そのうちの二人だった。
祖母に引き取られて、ハルは生き延びた。大混乱期が終わったのは、それから六年後。ハルが十三歳のとき。新しい世界が始まった。
祖母は言った。
「やっと、まともな世の中になった」
ハルは何も言わなかった。まともな世の中が何なのか、分からなかった。でも、爆発の音が聞こえなくなったことは分かった。夜、怯えずに眠れるようになったことは分かった。
それから80年。世界は続いている。
-------------------------------
「ハルさん」
声をかけられて、ハルは目を開けた。若い女が立っていた。三十代くらい。この居住区の職員だ。名前は、確か、リン。
「お昼の時間ですよ」
「ああ、そう。ありがとう」
ハルは立ち上がった。体が重い。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。歳をとると、立ち上がるのに時間がかかるだけ」
リンは微笑んだ。優しい顔だ。この子は大混乱期を知らない。生まれたときから、この穏やかな世界しか知らない。
「ハルさん、今度の秋祭り、参加されますか?」
「秋祭り?」
「ええ。ブロック全体でやるんです。昔の収穫祭を再現するって」
「ああ……」
祭り。昔は宗教と結びついていた。神に感謝し、来年の豊作を祈る行事。今は、神を信じる人は少ない。でも祭りは残っている。人は集まりたがる。踊りたがる。歌いたがる。それが人間というものだから。
「参加するわ」ハルは言った。「たぶん」
-------------------------------
昼食を終えて、ハルは自分の部屋に戻った。端末を開いて、シズの追悼ページを見た。写真が並んでいる。若い頃のシズ。中年のシズ。老いたシズ。笑っている顔、真剣な顔、穏やかな顔。
コメント欄には、たくさんのメッセージが書き込まれていた。
「安らかに」
「ありがとうございました」
「また会えますように」
また会える。そう信じている人もいる。死後の世界を。輪廻を。再会を。
シミュレーションでは、死後の世界には言及していない。でも、信じたい人は信じている。それでいい。信じることで穏やかになれるなら、それでいい。
ハルは、信じていなかった。両親が死んだとき、そう思った。灰になって、風に散って、それで終わり。会えない。永遠に。
でも、それを悲しいとは思わなくなった。人間は、死ぬ生き物だ。それだけのことだ。悲しいとか悲しくないとかではなく、それが人間というものだ。シミュレーションに教わるまでもなく、ずっと昔から分かっていたはずのことだ。
-------------------------------
夕方、ハルは端末で、自分の健康データを見ていた。
心臓。まあまあ。
肝臓。まあまあ。
脳。少し萎縮が進んでいる。
認知機能は今のところ問題ないが、あと数年で低下が始まるだろう、と予測されている。
安楽死の申請ページへのリンクが、画面の隅に表示されていた。
いつでも押せる。
七十五歳以上なら、理由は問われない。手続きは簡単だ。予約を入れて、最後の挨拶をして、眠るように逝く。苦痛はない。尊厳が保たれる。
シズもそうした。タケオも、いつかそうするのだろう。
ハルは?
分からない。
まだ、分からない。
-------------------------------
夜、ベッドに横になって、ハルは天井を見ていた。93年。長く生きた。大混乱期の末期を生き延びて、新しい世界を見て。両親が見られなかったものを見て。
良い世界だと思う。誰も飢えない。争いはあるし、差別もあるし、貧困もあるけれど、人類が破滅しない程度に収まることはもう分かっている。そして、自分の死を自分で選べる。
でも、何かが足りないような気もする。何が足りないのか、分からない。そもそも、何かが足りないと感じること自体が、人間の性質なのかもしれない。満たされても、まだ何かを求めてしまう。それが人間というものなのかもしれない。
だとしたら、この感覚も、正常だ。
正常なのだ。
-------------------------------
夜中に目が覚めた。窓の外は暗い。月が出ている。ハルはベッドの中で、しばらく月を見ていた。
ふと、母親のことを思い出した。大混乱期の最中。まだ世界が燃えていた頃。母親が夜、幼いハルを抱きしめて言った言葉。
「いつか終わるから。いつか、静かな朝が来るから」
静かな朝は来た。80年間、毎朝来ている。
お母さん。
ハルは月に向かって思った。
静かな朝は来たよ。あなたが見たかった朝が。
それで私は幸せかって聞かれたら、分からない。でも、不幸ではない。それは確かだと思う。
答えにならないかもしれないけど。
-------------------------------
翌朝も、陽は昇った。ハルは目を覚まして、ゆっくりと体を起こした。
今日も生きている。まだ、生きている。
秋祭りまで、あと二週間。それまでは、生きていようと思った。
その先は、分からない。分からないまま、ハルは窓を開けた
朝の空気が、頬に触れた。
-------------------------------
(第二話 了)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます